2010年03月29日

Strauss, City and Man.(1)

Strauss, Leo. City and Man. Chicago: U of Chicago P, 1978(1964).(1)

初版は1964年にヴァージニア大学出版部から刊行。アリストテレスとトゥキュディデスの章は同校での講演(62年)が元になっており、プラトンの章は63年刊のHistory of Political Philosophyに収められた同項目の増補。以下、抜書きとコメント。

---INTRODUCTION
The return to classical political philosophy is both necessary and tentative or experimental... We cannot reasonably expect that a fresh understanding of classical political philosophy will supply us with recipes for today's use. Only we living today can possibly find a solution to the problems of today. But an adequate understanding of the principles as elaborated by the classics may be the indispensable starting point for an adequate analysis... of present-day society in its peculiar character... (p.11)
---I. ON ARISTOTLE'S POLITICS
...[P]hilosophy turns away from he human things toward the divine or natural things; no compulsion is needed or possible to establish philosophy in the cities or to introduce it into the households; but philosophy must be compelled to turn back toward the human things which it originally departed. (強調は引用者、p.14)
シュトラウスがキケロを導き手として語るのは、哲学が神性の、もしくは自然的な事柄に向けての非人間的な(より俗っぽい表現を使うならば、非現実的な)上昇運動であるということ、そして、それゆえに哲学を人間的な事柄へと向け直させるには強制が必要であること、という2点である。それならば、政治哲学者としてのソクラテスはいかなる役割を担ったのか?そのヒントが下線部にある。哲学の営みが都市において一切の強制を伴わず成立する(より正確には、そもそも不可能ですらある)のは、哲学者もまた固有の領域としての都市に生きざるを得ないためである。ここに、シュトラウスの根本的テーゼである哲学と都市の対立が表現される。(さらに、哲学の担い手は都市ではなく個人であることから『都市と人間』という本書の表題が導き出される) 繰り返しになるが、ソクラテスが政治哲学者と呼ばれるのは、第一に政治を自然的なものの一部、すなわち哲学の一分野として考察した(その究極的帰結が哲人王統治である)からであり、第二に政治(都市、家政)をまさに哲学的営みの場、つまりは自己知の場として(再)発見しうからである(哲学的政治)。そしてこの両者は相反する関係にある。これ以降19頁までは、「政治的なものとは何か(What is political?)」もしくは「ポリスとは何か(What is the polis?)」という(お馴染みではあるが、極めて重要な)問いへの導入となる。

まずは、コンヴェンショナリスト(NRHで言う「哲学的コンヴェンショナリスト」)に言及される。コンヴェンショナリストとはソクラテス以前の(文中においては『法律』の「アテナイからの客人」以前の)すべての哲学者(自然主義者、物活論者)を指す。彼らはあらゆる事物がそこから生じるところの「第一存在(the first things)」を探求したが、いわゆるポリスの規範となるべき「正(right)」についてはすべて人為(ノモス、法)による産物であるとし、「自然に内在する正(natural right)」を認めなかった。正はあくまでもどこかの時点においてポリスに「受け入れられた(held, accepted)」もの(コンヴェンション)でしかなく、したがってその存在は偶然に左右され、第一存在へと遡及し得ないからである。ここで注意すべきなのは、彼らは自然と人為の厳然たる区別を認めつつも、その生き方においては前者(第一存在)しか見えていなかったということである。そのため、彼らはポリス(人間)に関わる事柄(political things, human things)を軽んじた。(cf. RCPR, p.60) そこで、登場するのが政治哲学者たる「アテナイからの客人」、すなわちソクラテスである。

シュトラウスよれば、コンヴェンショナリストと政治哲学者を分かつ基準を以下のようなものである。

@ 自然的正の存在
A 身体と魂の優劣関係
B 自己知の場としてのポリス(政治的事柄)の意義

このうち、@とA、@とBはそれぞれ関係している。すなわち、自然的正が存在するのであれば、その担い手となるべきは私的な身体ではなく普遍的な魂(the union in pure thought)であり、それゆえ魂が身体の支配者となる(@とA)。そして、自然的正の存在はコンヴェンショナリスト(自然主義者)とポリスとを繋ぐ結節点であることが、17頁からのヒッポダモス(アリストテレス『政治学』U-8)の逸話によって明らかにされる(@とB)。いわゆるソクラテス的転回として先に紹介したものであるが、読者としては、自然的正(natural right)の議論が果たして実在的な(つまりはトマス的な自然法さながらの)意味を持ちうるのかどうか、本書の第2章で論じられる哲人王統治の議論と併せて、そもそもコンヴェンショナリストとポリスを媒介する役割しか自然的正には与えられていないのではないか、という疑念が湧いてきてしかるべきである。

シュトラウスの解釈に従えば、最初の政治哲学者として名指しされたヒッポダモスはアリストテレスによって風刺の対象にされている。
Whereas the first philosopher became ridiculous on a certain occasion in the eyes of a barbarian slave woman[註・『テアイテトス』に見られるターレスの逸話など], the first political philosopher was rather ridiculous altogether in the eyes of sensible freemen. This fact indicates that political philosophy is more questionable than philosophy as such. Aristotle thus express in a manner somewhat mortifying to political scientists the same thought which Cicero express by saying that philosophy had to be compelled to become concerned with political things. (強調は引用者、p.18)

ターレスやルクレティウスなどの古代の哲学者(自然主義者、コンヴェンショナリスト)たちにはポリスの人々に奇異な視線を投げかけられても(もしくは迫害されても)隠遁という道が残されていた。(ただ、こう言いきってしまうことはシュトラウスのエソテリシズムを考えた場合、正確ではなくなる。哲学者はまず以下の意味で政治哲学者でなければならないからだ) しかし、自然的正を主張し始めた政治哲学者はそうはいかない。正の問題はポリスのあり方に直結するからである。政治哲学者はコンヴェンショナリストよりも厳しい視線にさらされる。例えば、ヒッポダモスが提唱した最善政体(言うまでもなくシュトラウスの説く古典的な自然的正の形式である)は自由人からすればあまりに現実離れしたものであった。
It looks as if some account of “the whole nature” --- an account which used the number 3 as the key to all things --- enabled or compelled Hippodamus to go on toward his plan of the best political order as that political order which is entirely according to nature. But he merely arrived at great confusion because he did not pay attention to the peculiar character of political things: he did not see that the political things are in a class by themselves. In spite or because of his ambition, Hippodamus did not succeed in founding political philosophy or political science because he did not begin by raising the question “what is political?” or rather “what is polis?” This question, and all questions of this kind, were raised by Socrates who for this reason became the founder of political philosophy. (強調は引用者、p19)
平たく言ってしまえば、「哲学者ほど頭でっかちで、ポリスの実情に疎い人々はいない」ということであって、現代人にとってはもちろん字義通りに受け入れられるものではないだろう。しかし、シュトラウス解釈という点に的を絞れば、自然的正に果たして実在的役割が存在するのか、という疑問が必ずしも誤りでないことがわかる。むしろ、「コンヴェンショナリスト→自然的正→ソクラテス的転回(政治的・人間的事柄へ)→政治哲学者」というプロセス自体が肝心なのであって、『ホッブズの政治学』や『自然権と歴史』を中心に議論を進めてしまうと、「回帰」という言葉が独り歩きしてしまい、肝心の主張が見えてこない恐れがある。
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2010年03月14日

Blanchard, et al. “Rethinking Macroeconomic Policy.”

Blanchard, Olivier, et al. “Rethinking Macroeconomic Policy.” IMF Staff Position Note. 12 Feb. 2010. 13 Mar. 2010 < http://www.imf.org/external/pubs/ft/spn/2010/spn1003.pdf >.

リフレ関連のサイトで話題の論文。聞き慣れない経済・金融用語に多少苦労したが、インタゲについてはゼロ金利制約(zero interest rate bound)を避けるために危機以前よりも高い水準(具体的に登場する数字は4%)にしておくのが良いそうだ。平時から高めのインフレ目標を掲げておけば、デフレの際、流動性の罠に陥ることなくインフレ期待を生むことができる(という理解でいいのだと思うけれど)。興味深かったのは、従来の金融政策に加えて過剰なレバレッジやリスクの規制をも中央銀行が担うべきという提言で、それに対しては中銀がインフレ容認に流れやすいからという反論が紹介されていた(p.12)。ここでも「日本(日銀)の常識、世界の非常識」を実感。昨今の議論では、非自発的失業者を余剰者と呼ぶような諦めムードが漂い始めている。どれほど識者がネットを通じて啓蒙活動を行おうが、下々の民草にマクロ経済のなんたるかを理解できようはずもない。だからこそ、政治家にはしっかりと「デフレ脱却」への舵取りを期待したいのだが…。
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トヨタ・リコール問題

「恐怖の急加速」 米当局がレクサス買い取り調査 - MSN産経ニュース
2010.2.27 11:06

 米道路交通安全局(NHTSA)は26日、米下院公聴会で「恐怖の急加速」体験を証言したスミス夫妻がかつて所有していたトヨタ自動車の「レクサスES350」を現在の所有者から買い取り、調査すると発表した。

 スミスさんは2006年にこのレクサスを運転中、車が勝手に加速して時速160キロまで達したと涙ながらに証言。現所有者は走行距離3千マイルで購入し、現在は約3万マイルに達しているが、米メディアによると、大きなトラブルを起こしたことはないという。

 ラフード米運輸長官は「安全が最優先課題だ。NHTSAは突然の急加速の根本的な原因を突き止めるため、徹底的に調べる」と述べた。(共同)

http://sankei.jp.msn.com/economy/business/100227/biz1002271106006-n1.htm

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米教授 トヨタ・リコール問題で寄稿 「急加速原因は踏み間違い」
3月13日8時15分配信 フジサンケイ ビジネスアイ

 トヨタ自動車の大規模リコール(回収・無償修理)問題をめぐり、11日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、事故や苦情が相次いで報告されている急加速の主な原因はブレーキとアクセルの踏み間違いとする心理学者の寄稿を掲載した。

 カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉教授のリチャード・シュミット氏。1980年代、独「アウディ5000」の急加速が多発して大規模リコールとなった際に、調査に携わった。

 「当時も今と同様、急加速の事故は自動車事故の中では比較的まれだったが、メーカーや運転者、メディアを騒がせるには十分頻繁で危険だった」という。

 トヨタ車の急加速にからむ事故で2000年以降52人の死者が報告されているが、同氏は「問題は、突然の加速がブレーキを踏むつもりでアクセルを踏む運転者によって頻繁に起きることにある」と指摘した。原因には、電子系統の欠陥が疑われているが、同氏は、人間行動学や心理学の研究者の疑問として「人的要素」の存在を挙げる。

 運転者がアクセルをブレーキと踏み間違えた結果、加速に驚いてさらにアクセルを踏み込み、車はますます急加速して事故に至る−という仮説を紹介。「ノイズの多い神経筋プロセスの介入で、人が意図するのと少し違う行動を起こす」場合もあるという。

 米道路交通安全局(NHTSA)は89年、「アウディ5000」の急加速の主な原因は「ペダルの踏み間違い」と結論づけ、アウディは解決策として自動シフト・ロックを設計、他のメーカーに広がった。今回は、予防策としてブレーキがアクセルより優先される装置の搭載義務化が政府で検討されている。

 しかし、同氏は「運転手がブレーキに触れずにアクセルを踏む限り、役に立たない」と警告。同装置が普及しても急加速と事故が起き続ければ、そのときは運転者が非難されることになるとしている。(ワシントン 渡辺浩生)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100312-00000012-fsi-bus_all
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2010年02月15日

クセノフォーン『ソークラテースの思い出』

クセノフォーン(佐々木理訳)(1953, 1974)『ソークラテースの思い出』岩波文庫

巻・章別の整理。

第1巻
1: 罪状としての涜神・ダイモニオン
2: 罪状としての青年の腐敗(クリティアスとアルキビアデス)
3: 食欲と肉欲―クセノポンとの対話
4: 全能の神々と敬神―アリストデモスとの対話
5: 美徳の根底としての克己
6: 幸福・美貌と智・金儲け―アンティポンとの対話
7: 欺瞞に対する戒め
第2巻
1: 艱難に対する忍耐(プロディコスの『ヘラクレス論』)
2: 孝心について―ランプロクレスとの対話
3: 兄弟への裨益―カイレクラテスとの対話
4: 友人を持つことの利益
5: 友人の値打ち―アンティステネスとの対話
6: 友人の選別・君子人の交わり―クリトブロスとの対話
7: 自由人の勤勉―アリスタルコスとの対話
8: 仕事について―エウテロスとの対話
9: 友人(アルケデモス)について―クリトンとの対話
10: 友人(ヘルモゲネス)について―ディオドロスとの対話
第3巻
1: 戦術、兵士の選抜と配列について―将軍になろうと欲する者との対話
2: 名将の美質(アガメムノン)
3: 軍の統率について(弁舌・名誉心)―騎馬統監に選ばれた者との対話
4: 家政と国政(軍事)のアナロジー―ニコマキデスとの対話
5: 統帥と戦略―ペリクレス(大ペリクレスの三男)との対話
6: 政治指導者に要求される知識―グラウコンとの対話
7: 有為の政治家の責任―カルミデスとの対話
8: 個物の善美(実用性)について(絶対の善の不在、p.148)―アリスティポスとの対話
9: 知行合一(徳即智)、無知の知、知の権力性(僭主と知者)
10: 魂、釣り合い、イデア―三人の芸術家との対話
11: 友人論、教育論(「焦らし」の効用)―テオドテーとの対話
12: 強健な身体について―エピゲネスとの対話
13、14: 克己と節制について
第4巻
1: 修身の重要性
2: 詭弁とディアレクティケー―エウテュデモスとの対話
3: 思慮と敬神、国法―エウテュデモスとの対話
4: 遵法としての正義―ヒッピアスとの対話
5: 克己・自制、「こと別け(dialégesthai)」―エウテュデモスとの対話
6: ディアレクティケー、討論についての教育
「彼が自分で何かの問題を論じて行くときには、誰でも承認のできる事実の中をとおって論旨を進めたのであって、これが議論としてもっとも安全な方法と信じていた。」(p.226)
7: 実用主義的教育
8: ソクラテスの最期
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2010年02月13日

外山『思考の整理学』

外山滋比古(1986)『思考の整理学』ちくま文庫

「不幸な逆説」: 確かにそうなのだけれども、こういった飛行機型とグライダー型の対比が、一種の言い訳として安易に用いられ、生徒(学生?)の仮想的有能感を助長する結果になりかねないことにも注意が必要であろう(その見極めを、現代の教師に課すというのは少々酷かもしれないが)。筆者が間違っているというのではなく、その受け止め方について勘違いしてはならないということである。

「第一次現実」: テレビが第二次的であるならば、ネットは第一・五次的と言えるだろうか。それはより第一次的現実の生々しさを備えるがゆえに、後者に取って代わる可能性をも孕んでいる。しかし、だからこそ余計に、人の仮想的有能感を触発する恐れがある。「サラリーマンの思考は、第一次的現実に根をおろしていることが多い。それに比べて、学生の考えることは、本に根がある」(p.195)と筆者が実践と理論の伝統的二分法で世の中を分析するとき、ネットの住人はその両者のいずれにも属さない。その代わりに、第一次的現実に対しては社会の常識を批判する神の視点が、第二次的現実に対しては仮想的現実から得られる優越感が、住人に付与される。つまり、社会の常識やモラルにがんじがらめになったサラリーマンよりは世界を知っているし、だからこそ学生のように本のみに頼っているわけではない、と言い訳ができるのである。その当の本人こそが、両者の間で宙ぶらりんになってしまっていることに気付かずに。「真に創造的な思考が第一次的現実に根ざしたところから生まれうることを現代の人間はとくと肝に銘じる必要があるだろう」(p.196)。この言葉の重みは減じるどころか、ますます増しているように思える。
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