2008年03月28日

藤田『ニーチェ』/池内『悪魔の話』

藤田健治(1970)『ニーチェ その思想と実存の解明』中公新書

入門書。その人生と思想展開を、所々著者の昔話を交えながら追っていく。主要な著作はすべて織り交ぜてあるので、その全体像を容易に掴むことができる。ニーチェという人は本当にスケールがでかい思想家だ、というのが読了直後の印象。まあ、それも19世紀という転換期の世相抜きに考えることは出来ないわけであるが。やはり、破壊者と創造者の両面を指摘しておくことが、彼の正当な評価には必要なのであろう。その創造者たる面、彼の精神の貴族主義と呼べるところのものについては、個人的に共感するところがある。ニーチェの哲学を相対主義の元凶として切り捨てたシュトラウスが、実はニーチェ的であった、というような主張ができるのもこの点に関してであろう。しかし、そのために既存の秩序をその根底から否定することは、半ば時代の反映であったとは言え、そうそう首肯できることではない。彼は「大いなる政治」を語るが、それはもはや政治ですらないだろう。まあ、現在の貧相な思考では考え付くことも限られるので、今後その著作を読み進めていくうちによりクリアーにまとめていくことができるかと。あと、「生の永劫回帰」にちなんで、『輪廻と転生』(石上玄一郎著, 人文書院, 1977)なる本が書棚にあったので今度読んでみようかと思う。

著者の藤田健治(1904-1993)について。著者経歴欄には東京帝国大学文学部哲学科卒、生前の肩書きとしてお茶の水大学名誉教授とある。更に詳しくと思ったが、ググってみてもめぼしい情報が得られなかったので、今のところはこれしか判らない。ただ、著作集があるそうなので、今度そっちをあたってみようと思う。本書の記述からは、内外の多くの著名な研究者と交友関係をもっていたことが伺える。

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池内紀(1991)『悪魔の話』講談社現代新書

ふと書棚に目をやるとこんな本が混じっていたので読んでみた。なかなか興味深く読めた。あとがきにはこうある。「もっとも書きたかったのは、それ(悪魔)ではない。もっと危険で、もっと凶猛な悪魔、つまり人間を書きたかった」(p.204)。その言葉どおり、各章末にはシニカルな世相批判、人間批判が並ぶ。多少鼻につくものも無きにしも非ずだが。

著者の池内紀(おさむ)(1940-)について。Wikiにエントリがあったので、以下に一部改変して転載。(リンク)
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池内紀は、日本のドイツ文学者、エッセイスト。兵庫県姫路市出身。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。神戸大学、東京都立大学、東京大学文学部で教鞭をとり、定年前の1996年に退官。退官後は文筆家、翻訳家として幅広く活躍している。NHK-FM「日曜喫茶室」の準レギュラー。天文学者の池内了は弟。アラブ研究者の池内恵は息子。
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ロック『人間知性論』B

ロック『人間知性論』B

ラスト第4巻。。。 ここでは真知と臆見について論じられる。

真知(knowledge)とは「私たちの観念にあるものの結合・一致の知覚、あるいは不一致・背馳の知覚」(p.153)とされる。このような知覚には4種類あって、それらは@同一あるいは差異、A関係、B共存ないし必然的結合、C実在である。それぞれが知覚の方法によって現実的真知と慣習的真知に、ならびにその程度によって直感的真知、論証的真知、感覚的真知に分類される。続けて、真知の範囲ならびに無知の原因、そして真知の真実性に言及されるが、最後のものは基本的に第1巻で観念について述べられたところの繰り返しである。

次に、話は真理命題に移る。真理(truth)は真知と異なる。真知とは知覚であり、真理とはその知覚に基づいて形成される命題の内容を指す。命題には、心的命題と言辞的命題が存在する。また、真理は真知と同様に、その程度と対象によって真実な真理、精神的真理、形而上学的真理に分けられる。ここでも、煩瑣になるので個々の説明は省く。命題については、第7章で普遍的命題、第8章で公準(maxims)、第9章で無価値な命題が扱われるが、最初のものだけが真理性と絶対確実性を持つとされ、その有用性が認められる。無価値な命題については勿論のこと、それまで自明とされてきた公準・公理と呼ばれるものに関しても、それに付随するスコラ的な生得原理とともに否定的に評価される。第9章から第11章では、存在について述べられ、それぞれ、われわれ自身、神、それ以外の事物の存在が扱われる。神の存在証明については、スコラ的な論法が用いられ、われわれ自身の存在が自らの直感によって絶対確実であるならば、それに付随する属性を引き出す他の確実な存在がなければならない。そして、そのような存在の連鎖を遡っていけば、「ある永遠な、このうえなく力能があり、このうえなく知る存在者」(p.171)に最終的に行き着かざるをえなくなる。それが神である。これに対して、それ以外の事物の存在に関しては、われわれの感官によって覚知される限りにおいて、真知に相当するとされる。これを超えるものに関しては蓋然性に過ぎない。第11章の最後で再び命題の分類(存在に基づくもの)に言及されるのだが、どうもロックは思いついたことをその都度付け加えていっているような感じがしてならない。蓋然性(probability)については、第15章が宛がわれているが、それに前後して、真知と判断(judgment)の区別が取り上げられる。蓋然性とは真知と対比される臆見(opinion)であり、論証に基づいて判断と人々の間の同意(assent)の対象となる。(本巻のタイトルの和訳は「真知と臆見について」となっているが、原文は“Of Knowledge and Probability”である)

様々な命題の中で、真知のように絶対確実性を持たずとも、ただ論証だてによってそれに対する人々の最高度の同意を要請するようなものが存在する。そのような命題が神の啓示(revelation)であり、それに対する同意がまさに信仰(faith)となる。そこで、ここからが本巻の一つの山場になる(と勝手に思っているのであるが)、いわゆる理知(reason)と信仰の区別がなされる。ロックにおける理知に関しては、本文よりも本書の解説にあった言葉を抜き出しておくほうがよいだろうし、それで十分であろう。すなわち、理知とは「抽象や推理などの複雑な過程を含む論理的思考機能であり、…経験を超えた形而上学世界を認識する能力ではない」(p.24) そして、「この理性と感覚機能を含む、心の知的機能が知性understandingであって、知性は、いわゆる理性と対立する悟性(Verstand)のような、理知ないし理性とは別種の心的機能ではない」(同)のである。この理知と信仰の関係は、スコラ哲学においても(当然のように)問題にされてきたが、ロックは、トマスにならい、両者の領域を峻別する。したがって、この区別を曖昧にし、理知に正当な役割を担わせないような「不可能だから私は信ずる(Credo, quia impossibile est)」という態度は狂信(enthusiasm)に至るとして拒絶する。(ちなみに、スコラ哲学の創始者とされるカンタベリーのアンセルムスは「知らんがために、私は信ずる(Credo ut intelligam)」という似たような標語を残してはいるが、意味は全く異なり、信仰を理性(理知)に優位させるものの、その位置と役割をきちんと与えている。トマスは、アンセルムス以上に理性の役割を拡大したが、その影響がロックに明確に見られるように、近代哲学のはしりとなった)

最後に、第21章においてロックは学(sciences)の区分について述べているが、中でも三番目の部門、記号学(セーメイオーティケー)に触れておくことは認識論の系譜から重要であろう。すなわち、中世イギリスにおいてドゥンス・スコートゥスからウィリアム・オッカムへと展開する唯名論的個別主義から導き出された、普遍とは実在するものでなく記号(signum)に過ぎないとする記号主義の影響が強く見られるのである。

コメントとして、この論文はお世辞にも上手にまとめられているとは言えない。このことは、ヒュームの『人性論』と比較する際に一層鮮明となろう。正直、まとめるのがめんどくさかったw なので、中公バックスに収められていたのは抜粋訳ではあるが、今後全訳(文庫版では巻数に応じて4分冊)にあたろうとは全く思わないw

訳者の大槻春彦についてはググっただけではめぼしい情報が出てこなかった。ただ「日本デューイ学会」の創設に深くかかわった方だということはわかった。まーまたどこかで…。
posted by ta at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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