2008年04月18日

政治的なものと非政治的なもの

柔道のアテネ五輪金メダリスト、北京の開会式をボイコット
ttp://www.cnn.co.jp/sports/CNN200804160016.html

どうもこういう姿勢の裏に政治的なものと非政治的なものの極めて利己的かつ恣意的な線引きがなされているように思えて釈然としない。仮にドイツ政府が大会そのものをボイコットする事に決めたならば、この人はどのような理屈をこねてそれに反対しようとするのだろうか?
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2008年04月01日

ヒューム『人性論』@

ヒューム(土岐邦夫訳) (1980)『人性論(1739・1740)』 (中公バックス 世界の名著 32)@

もちろん、抜粋訳。教科書等ではロック、バークリー、ヒュームの認識論がワンセットで扱われる。全訳はロックの時と同様、岩波文庫で4分冊だが、はっきり言って読んでられないw 以下に目次。

緒言
序論
第一篇 知性について
第一部 観念、その起源、公正、結合、抽象などについて
第二部 空間と時間の観念について
第三部 知識と蓋然性について
第四部 哲学の懐疑的体系とその他の体系について
第二篇 情念について
第一部 誇りと卑下について
第二部 愛と憎しみについて
第三部 意志と直接的な情念について
第三篇 道徳について
第一部 徳と悪徳一般について
第二部 正義と不正義について
第三部 その他の徳と悪徳について

本訳文については抜粋ながらも、ヒュームの懐疑論が体系的に披露される第一篇に特に重点がおかれており、残りの第二篇、第三篇についてはほとんど要約に近い。とりあえず、今回は第一篇の第一部・二部を…。が、その前に序論から一節引いておく。哲学ほか諸学問の認識論的基礎付けについて。
ただ信じ込んでいるだけの原理、こうした原理からつじつまも合わせず導き出された帰結、各部分の間の整合性の欠如、全体における明証性の欠如、こうしたことは最も高名な哲学者の体系においてさえ、いたるところで目につくのであり、そして一般に哲学そのものに汚名を負わせることになったように思われる(pp.407-408)
懐疑論へのヒュームの宣言とも受け取れる。その内容が明らかにされるのはまだ先のことではあるのだが。では本文へ。

本書の第1部は、ロックの『人間知性論』では第2巻「観念について」に対応しよう。とは言っても、明らかにヒュームの方がよく整理されている。ここで定義される観念その他の諸概念に関して、図にまとめると以下のようになろうか。
ヒュームの認識論
まず、知覚の2種類の区別(印象impressionsと観念ideas、単純simpleと複雑complex)がなされ、ヒュームによって「この論文の主題」(p.413)となる問題、すなわち「印象と観念のうち、どちらが原因で、どちらが結果なのか」(p.412)について、さしあたり次のような一般的命題が立てられる。「初めて現われるときの単純観念はすべて、それと対応し、それが正確に再現する単純印象に起因する」(同) 印象と観念の差異は、その「勢いと生気(force and liveliness)」(p.411)というスコラ的解釈によって性格づけられ、単純印象と単純観念の間において真であるところの「一方が他方の正確な写し」(同)ということが、複雑なそれらの関係においては必ずしも成立しない。どうもここまでで複雑印象が置いてけぼりにされてしまってるような感じがするが、単純と複雑の差についてヒュームはりんごの例をあげ、「特殊な色、味、香りはすべてこのりんごの性質としていっしょに結び合っているが、…これらの性質は同じものではなく、ともかく互いに区別できるのである」(p.412)と説明している。

ただ、上記の「さしあたっての」命題は次の第2節で早くも放置される。観念とは、印象が消えうせたあとに残る写しであるが、その際の最初の印象を生み出すものが感覚sensation(図の@)である。しかし、ヒュームは感覚についての吟味が「むしろ解剖学者や自然学者に属する仕事」(p.414)として、感覚とは異なる(単純)印象である反省reflexion(図のA)についての考究を先行させるという。反省とは、快と苦の観念がふたたび(心に)現われた場合に生み出される、欲望や嫌悪、希望や恐れといった新たな印象のことである。これらの点では訳語が違えども、ロックのものと大きな差異はない。観念は記憶memory(図のB)と想像imagination(図のC)に区分されるが、両者の違いは勢いと生気の差であり、また別の相違点として、後者は元となる印象の順序、形に拘束されず自由に切り貼りされうるのに対して、前者は束縛されている。想像に関係して観念連合connexion or association of ideasが持ち出されるが、ロックが観念連合を「気の狂い」として切り捨てたのとは対照的に、ヒュームのそれでは複雑観念が形作られる際の普遍的原理として捉えられる。このことは、ロックが単純観念から複雑観念を生み出す機能を心に備わる力能に帰さしめたのに対して、ヒュームがこれを観念の性質に還元したという相違に起因するのだろう。ただ、観念の結合といえどもそれほど強い結びつきが与えられているわけではない。その意味で、その原理は穏やかな力と呼べるのであり、ヒュームはこれに引力attractionという言葉を当てている。観念連合によって複雑観念が生み出される場合、単純観念間の結びつきのパターンの代表的なものが、類似resemblance、近接contiguity、原因と結果cause and effectであり、その結果生み出される複雑観念には、関係relations、様相modes、実体substancesがある。第5節と6節において、この3種類の複雑観念の吟味がなされるが、この区分はロックとさほど大差はない。(あと図には複雑印象なるものが取り残されているように見えるが、それは気のせいw)

第1部の最後に、抽象観念もしくは一般観念について論じられる。これはロックにおいても取り上げられた中世普遍論争を引き継ぐものであるが、冒頭でヒュームはバークリーの説を評価できる発見として引用しつつ、(抽象)観念は「その表現作用では一般的になりうるとしても、それ自体としては個別的なもの」(p.421)であるとする。個人的にはなかなか言い得て妙と思えるのだが、言語哲学の視角からは観念とそれに対応する名辞という観念説の立場に立つ限りにおいて依然批判の対象となるのかもしれない。これに関連してもうすこし引用しておこう。
われわれがでくわすいくつかの対象の間になにか類似があるのにいったん気づくと、たとえ量と質の度合いにどれほどの相違が認められるにしても、われわれはこれらの対象のどれに対しても同じ名前をつける。この種の習慣が身についてしまうと、その名前を聞けばこれらの対象のうちの一つの観念がよみがえり、その特有な事情、割合をすべて備えて想像はこの観念を思いいだく(p.421)
指摘しておくべきは、逆にこのように個別的でありつつも、一般的にならざるを得ない理由として、ヒュームは心の知覚能力の限界をあげていることである。人間は当然ながらにその種や類に属するすべての個物を認識することは出来ない。この限界の主張は主知主義に対する重要な反論になろう。したがって、一つの、個別的な観念を呼び起こす習慣によってそこから漏れた複数の個物を代理させることが、抽象観念、および一般的名辞の本性となる。

次に第二部では、まず空間と時間の観念における無限分割性が否定される。そして、両者ともにそれ自体としての印象に基づくものではなく、空間であれば目に見える、もしくは触れられる対象の配列から、時間であればある変化しうる対象の知覚しうる継起から(付随的に)見いだされるものである。同様の論理で、ヒュームは存在の観念をわれわれの思い抱くあらゆる観念と同一であるとする。例えば、りんごの観念を持つとき、われわれはりんごの存在そのものの観念を直接的に持つのではなく、その形や色などの諸々の(単純)観念によってその存在そのものの観念をいわば付随的に持ちうるのみである。更に同じことが外的存在の観念についても言える。したがって、「それを思いいだくのに役立つようわれわれがなしうることは、せいぜい外的事物と関係を持つ観念を作ることぐらいであって、その際、関係させられる事物を含みこもうなどとは考えはしない」(p.426)と言わざるをえないのである。また、対象についての原初の観念は知覚しうる印象からつくられるわけであるから、たとえ想像であっても、「心という狭い限界内に表われた知覚以外には、いかなる種類の存在も思いいだくことはできない」(同)とされる。
posted by ta at 13:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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