2008年11月07日

『思想』「レオ・シュトラウスの思想」B

* 國分功一郎「自然主義者の運命―シュトラウス,ドゥルーズ」

最後にガツーンと食らわされた感じのシュトラウス批判。ただ、最初の浅野論文と違って、ドゥルーズとの関係を強調することで、最低限必要な敬意を払うことは忘れてはいない。なかなかこの批判に反論することは難しいだろう。直感的にも、素人の常識的判断においても、ドゥルーズの半歩あゆみを進めた説のほうが好ましく思える。シュトラウスの一義的自然解釈(自然の発見の一回性)に見られる哲学者像は、自身が必ずしも意図せずとも(この部分を強調することにどれほどの意義があるかどうかは意見の分かれるところだとしても)、後生にあって濫用されるリスクは認めざるをえない。だが、それでも、まだ言い尽くせていない部分が残っていると思う。そう思いたい。つまり、シュトラウスの描くエロス的哲学者はそれほど強靭で、狡猾な精神をもっていたのだろうか? コンベンショナリズム・歴史主義と哲学の対話(論争)がせいぜい水掛け論に終始するのであるならば、ソクラテスのディアレクティケーは全く無意味な行為であったのか? プラトンやクセノポンのソクラテスは時の権力者に寄り添って「薄弱なる議論を強力な議論となす」人物であっただろうか? また、僭主と哲学者を並べて承認への欲求を主張するコジェーヴに対して、決して交わることのない非エロス的政治とエロス的哲学をシュトラウスは認識したのではなかったか? 彼の中期・後期の政治哲学における哲学者(ソクラテス)像について、もう少し統一的な姿を塑像してみることも有効かもしれない。
posted by ta at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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