2009年01月14日

Zuckert, Truth about Leo Strauss(3)

Zuckert, Truth about Leo Strauss(2)

Chapter Two: Strauss-Modernity-America (pp.58-79)
Chapter Three: Leo Strauss as a Postmodern Political Thinker (pp.80-114)

第二章は、シュトラウスによる、近代性とアメリカに関わるテーゼを三段論法の形で整理している。それによれば、
1. American is modern.
2. Modernity is bad.
3. America is good.
となるのであるが、これでは明らかに矛盾する。そこで、夫妻は大前提にいくつか条件を課すことでこの矛盾を解消するのであるが、そのことが説明されるのは結論の箇所においてである。順を追って見ていこう。(ただし、夫妻はアメリカの現実政治に関わるシュトラウスのいかなる言明も暫定的なものにとどまるとして読者に注意を促している)

【アメリカは近代的である】(pp.58ff.)
シュトラウスがアメリカの建国精神を近代的であると考えていたのは疑う余地はない。しかし、彼がワイマールにおいて経験した西洋近代の精神的危機とそれに抗う彼の哲学的意図は、アメリカにおいては容易に理解されなかった。それは、彼が批判の矛先を向けたハイデガーの業績が、生涯にわたって、ほとんど注目を浴びることがなかったからである(このことはアメリカのリベラル・デモクラシーにとってひとつの幸運であったとも考えられるが、シュトラウスにとっては危機の種子を孕んだ本質的に不安定な状態でもあったのだろう)。近代政治哲学は古典的政治哲学と以下の点において異なっていた。すなわち、前者は「人間存在の本性についての新しい理解」(p.61)によって実践的・政治的生を作り変えようとした、という点である。そのために、哲学は、依然真理への探求であり続けたものの、政治的にはプロパガンダと堕してしまう。近代性の始祖、マキアヴェッリは「実現可能性(actualizability)」と「実効的真理(the effectual truth)」を最も重視した。そして、政治的生とその目標を、理性によってではなく情念を基準として捉え直すことを主張したのである。その際必要とされる手段は、もはや道徳的教育ではなく政治的・経済的制度であった。このテーゼを受け継いだのが、ホッブズであった。加えて、彼は自然権(natural rights)を古代人とは異なった意味において復権させ、それを自己保存の権利ならびにその手段への権利と同一視する。やがて、自然権はロックにおいて(自己)所有権へと変貌を遂げる。そして言うまでもなく、独立宣言はロックのテキストの焼き写しである。シュトラウスにとってアメリカが近代的であるというのは、まさしくこの二重の意味(制度への依存と近代的自然権)においてであった。

【近代性は悪い】(pp.64ff.)
シュトラウスの理解では、近代性を生み出した元凶は、スピノザの聖書批判とホッブズの古典的哲学批判であった。彼は両者の批判を根拠なきものとして棄却し、近代性そのものの批判へと向かう。シュトラウスの近代批判は実践と理論の両面にわたる。実践的、すなわち政治的側面における批判は以下のようなものである。まず、近代性は人類を道徳的頽落(ニーチェ的「末人」)へと導く。近代主義の批判者たち(ルソー、カント、マルクス、ニーチェ)はその流れに逆らおうとしたが、彼らが近代の枠組み(実現可能性のための目標の引き下げ)の中で思考せざるをえなかったために、その思想は簡単に中庸を欠いた、壮大な政治的野心へと拡張される。この近代哲学観をもとに構築された理論が、有名な「近代性の三つの波」である。それぞれの波は、特徴的なイデオロギーを生み出す。第一の波は、アメリカ的なリベラル・デモクラシーを生み出し、第二、第三の波は、それぞれ共産主義運動とファシズムを生み出した。このように政治的イデオロギーが肥大化したのは、生活世界からの超越を哲学と宗教という私的な営みにではなく、公の問題として政治に求めたためであった。そして、近代政治哲学はこの超越を根底から支え、促したのである。近代性は更に(科学)技術を解放し自然の征服へと向かわせ、政治的指導者が備えるべき唯一の徳である賢慮を否定した(ホッブズの機械論的自然観と反アリストテレス主義)。シュトラウスにおいて、これらの問題を集約的に表現するのが、「われわれの時代の危機(the crisis of our time)」である。この危機は人びとの内にある二重の信念の喪失によってもたらされる。最初の信念の喪失は、いわゆる近代(啓蒙)のプロジェクト、そしてその絶頂としてのウィルソン主義に対してである。これらは込められた期待が大きすぎたがゆえに自壊した。そして、もうひとつは近代の実証主義がもたらした、各々個別の共同体的信念[真理]の喪失である。* このことは、マルクス主義の挑戦に曝されていた当時にあって、非常に深刻な問題として捉えられた。(ただし、夫妻は第二章の最後で、シュトラウスが主張するほど近代哲学は政治的役割を担ってきたかどうか、疑問を呈している) もう一方の理論的、すなわち哲学的側面における近代性への批判は、昨今のポストモダン思想家(夫妻はローティとフィッシュを挙げている)によって主張される超越としての哲学の不可能性に向けられている。

* この辺りから垣間見えるシュトラウスの政治思想は、社会的存在としての哲学者の自己知やレジーム論などと併せて考えた場合、コミュニタリアニズムに接近する観がある。

【アメリカは善い】(pp.74ff.)
近代性を批判しつつも、シュトラウスはアメリカのリベラル・デモクラシーを否定したわけではなかった。それは、夫妻のことばを借りれば、「近代性があらゆる部分で、一律に悪いというわけではなく、そしてアメリカがあらゆる部分で、一律に近代的というわけではない」(p.74)とシュトラウスが捉えていたからである。その背景には以下の四つの考察がある。第一に、冷戦の文脈の中ではリベラル・デモクラシーは共産主義体制よりも明確に優れていること。第二に、アメリカのリベラル・デモクラシーは(近代性の)第一の波における政治体制であり、僭主制(tyranny)の危機を孕む第二、第三の波における政治体制に優っていること。第三に、アリストテレスの政治学的視点からすれば、現代のリベラル・デモクラシーは古典的な意味での民主政ではなく、選挙制度(代議制度)という貴族政的要素を含む混合政体(a mixed regime)に近い、ということ。最後に、アメリカには古典的共和主義やピューリタニズムの伝統が根付いていること、である。

第三章は、ザッカート夫人の単著であるPostmodern Platos.の要約としての向きが強い。ここでは、ニーチェによって提起され、ハイデガーによって掘り下げられた哲学的問題を、ポストモダン思想家としてのシュトラウスがいかに理解し、応答したかが、デリダとの比較で論じられる。ニーチェの哲学批判によって浮き彫りにされたのは以下の二つの問題であった。すなわち、哲学的営為がつまるところソクラテス的無知の知でしかないとすれば、西洋の哲学的伝統の特質と価値は一体何であったのか、そして、いかにしてニーチェ的な「権力への意志」に基づく政治観を避けることができるのか、である。

【シュトラウスとニーチェ】(pp.83ff.)
ニーチェはデカルト以来の主客二元論にもとづいて、カント的「物自体」の世界を否定したが、シュトラウスにとっては、哲学は「完全な全体」の存在とその接近可能性を前提とするエロス的行為であった。したがって、彼は科学主義へと至った近代の認識論的態度(新カント派)も、ラディカルなニーチェ的構成主義も否定する。ニーチェはさらに、プラトンの四徳から、節制と正義を排し、孤独と同情を付け加えた。しかし、シュトラウスによれば、ソクラテスの節制は人の羞恥の感覚、すなわち道徳性に深く関わっている。そして、それこそが人間を野獣から分かつメルクマールであるとした。ニーチェは節制を否定することで、理性的存在たる人間の道徳的能力を否定した。その政治的帰結が「権力への意志」と新しい貴族階級の創設の主張である。しかし、彼は同時に政治的責任への道を示すことができなかった。両者を分かつもう一つの違いは、ニーチェが叡智的な聖書の神を否定することで、未来の哲人の中に新たな「宗教的」哲学を生み出そうと試みたことである。これに対して、シュトラウスは西洋文明の「隠された」ルーツである理性と啓示の対立を再発見し、ニーチェ的な新たな価値の創造ではなく、伝統的な道徳的基盤を堅持しようとした。

[ここで、夫人はシュトラウスの『マキアヴェッリ論考』序論(Strauss, Leo. Thoughts on Machiavelli. Glencoe: Free, 1958.)における有名な一節に触れている(p.86)が、その箇所を原文どおり引用しておきたい。
Not the contempt for the simple opinion, nor the disregard of it, but the considerable ascent from it leads to the core of Machiavelli’s thought. There is no surer protection against the understanding of anything than taking for granted or otherwise despising the obvious and the surface. The problem inherent in the surface of things, and only in the surface of things, is the heart of things. (p.13)
この序論は、わずか6頁という短さながらも、シュトラウス独特の読解作法が提示された重要な文章である。ここでシュトラウスは専門家の間でなされるような「熱烈な愛国者」や「社会についての科学的学究」という洗練されたマキアヴェッリ解釈(「『君主論』と『ディスコルシ』」、「バーリン「マキアヴェッリの独創性」」を参照)に対して、「悪の教師」という表面的、通俗的な見方への注意を促す。この見方は、科学主義に対する生活世界(理論以前、科学以前の世界)の取り戻しや常識・素朴な経験の重視、社会的存在としての哲学者の自己知など、シュトラウスの思想の背景にある一貫したテーマの延長線上にある。(このような見方に、ソクラテス的アイロニーを認識することも可能である。いかに説明が洗練されていようとも、事物についてよく知っているとは限らないということである)]

【シュトラウスとハイデガー】(pp.91ff.)
シュトラウスは、それでもニーチェの思考の中に永続する価値の所有、新たな形而上学、歴史から自然の優位性への移行を認めていた。それに対して、ハイデガーの実存哲学はそのようなニーチェの思想を形而上学のくびきから解放する試みであった。ラディカルな歴史主義は、ヘーゲル、マルクス、ニーチェらと同様に、歴史の「絶対的瞬間」を必要とする点で同じ自己矛盾に陥らざるをえなかったが、彼はそれを部分的真理であると認めたうえで、古代ギリシャに起源をもつ現前としての存在理解の限界を指摘し、新たな理解が「与えられる(sent)」ために正当化した。しかし、シュトラウスは別の根本的な問題も指摘する。それはハイデガーの後期思想が極めて人間中心の議論であって、その中に創造神の居場所はなく、「存在(Being)」はただ否定的に「事物では無いもの(No-thing)」としてしか語ることが許されない。シュトラウスはこのような「存在」を非人格的なプラトン的イデアと神秘的な聖書の神の総合と表現するが、理性と啓示の間に根源的対立を見る彼にとってこれは全くの矛盾に映る。

『自然権と歴史』はハイデガーによる人間存在の分析とその哲学史観に対する余すところのない批判であった。ハイデガーは人間存在が本質的に時間的・歴史的であると論じたが、シュトラウスにとってそれはまず道徳的であり政治的な問題であった。歴史主義は自然的正が存在するという主張の根底にある善悪の素朴な経験を無視するか、もしくは歪める。ハイデガーの人間存在すなわち「現存在(Dasein)」の誤った描写と分析がこのような結果を招くのである。ハイデガーはいかなる特定の原因に帰すことのできない不安の気分によって人間は存在についての根本的真理を発見するとしたが、シュトラウスにとってはその不安は善と悪の自律的な選択に由来するものであった。そして、そこから人間は正の普遍的な基準の探求へと向かい、政治哲学に従事するよう促されるのである。実際、ハイデガーが主張した根本的とされる経験はわれわれの時代に特有のものであった。それは(原理なき)寛容の主張と相対主義、およびその帰結としてのニヒリズムに深く関係していた。ハイデガーにとってニヒリズムは技術の世界的拡大に伴う人間の本質的価値の喪失に起因するものであった(彼はこれに対抗するために晩年西洋と東洋の対話を唱えたが、シュトラウスはその鍵を聖書の根底にある東洋的な存在理解に見出しうるとした)。シュトラウスも技術の野放図な拡大については同じく危惧を抱いていたが、ただ問題は技術そのものにあるのではなく、ハイデガーのような独特の解釈にあるとして、道徳的・政治的統制の必要性を説いたのである。『自然権と歴史』でのもう一つの大きな批判は、ハイデガー(とニーチェ)によって抱かれた、古代ギリシャ哲学の合理主義をニヒリズムの源流とする哲学史観に対してである。言うまでも無く、シュトラウスが主張したのは「近代性の三つの波」であった。ただし、彼は単純に古典的哲学をまるごと近代哲学に取り替えようとしたわけでは決してない。そうではなく、歴史主義批判という目標のためには、双方の哲学者が実際には同じ根本的な(時と場所を超えた人間に本質的な)問題を扱っていたということを示すだけで十分であると、彼は考えていた。** また、歴史主義者は古典的哲学が見落としていた「歴史的地平」を発見したと考えていたが、シュトラウスによれば、トキュディデスやクセノポンらの古典的著作家も彼らが歴史と呼んだものについて知悉していた。彼らにとっての歴史とは一連の出来事を単純に記録すること以外になく、それは洞窟の中の連続した影、ピュシスに対するノモスに過ぎなかった。近代における歴史の発見は、まさしくこのピュシスを可変的な「概念」へと還元することで成し遂げられたのである。

** そのことを端的に表現する質問形式が「…とは何か(What is…?)」である。

[シュトラウスの衝撃的なハイデガー体験はやはり彼の精神の根底に生涯消え去ることのない刻印を残したと言えるだろう。それは逆にいえば、ハイデガーが当時のドイツの若年層に与えた影響(それが実際どのようなものであったにせよ)を考慮することなしに、シュトラウスの哲学観を正確に理解することはできない、ということでもある。しかし、その強烈な体験がアメリカのアカデミックな環境においてはかえって誤解を生み出すもととなったのかもしれない。シュトラウス自身も「近代性の第一の波」の国家でありながら極めて特殊な精神風土を備えるアメリカに少なからず驚いたのではなかろうか(もちろん推測だが…)。おおやけにはロック的な自然権思想に立脚しながら、ニヒリズムへと堕ちてゆく雰囲気は露も感じられない。それどころか、左も右も無垢なまでに建国時の約束と理想を信じている。シュトラウスは自然的正を主張しても、その内実を埋める緻密な規範理論を構築することはなかった(その意味では、政治哲学の復権者としてロールズとともに論じられるのは多少の誤解を伴うかもしれない)。そのことは不幸にも、“natural right”という言葉が一人歩きする状況を生み出し、将来の悪評の遠因を作ってしまったのではなかろうか? 当然、推測の域を全く出ないけれども…。果たして、元となる講義が行なわれ、『自然権と歴史』が出版された1950年前後の評判は実際どのようなものであったのだろうか?]

【シュトラウスとデリダ】(pp.102ff.)
シュトラウスとデリダが一見して明白な相違の中に多くの類似点を持つのは、両者が同じ場所から出発しつつも、進む方向が全く異なっていたからである。その同じ場所というのは、フッサール現象学である。シュトラウス(とハイデガー)が哲学以前・科学以前の素朴な経験・世界を取り戻すために古代ギリシャ哲学へと向かい、フッサールの現象学的還元すら投げ捨てたのに対し、デリダはフッサールの成果を更に押し進め、記号を必要としない内的独語と純粋概念に示唆を受け、差延(différance)概念を生み出し、別のフッサールの考えと併せて、「われわれが「思考」と呼ぶものは、むしろ一種の「書く行為(écriture)」として捉えられなければならない」(p.105)という主張に至る。そこでわれわれが手にするのは「痕跡」のみである。そして、それは新たな文脈の中に新たな意味を獲得する。すなわち「[事物は]書き直され、そして消される」(p.106)のである。デリダはさらに西洋の哲学的伝統を批判する中で、ニーチェの「全体化する(totalizing)」教義に対しても以下のような批判を行う。
…(1) that nothing ever remains the same as itself, much less returns eternally, (2) that there is no necessity or fate, because all things are essentially and ineradicably “indeterminate” or “undecidable,” (3) and that they are undecidable because we ourselves are not a unit or unity with a “will” that we can impose. (p.105-106)
したがって、あらゆるものが流動的で、留まっているだけでは衰退するほかないゆえに、われわれは常に新たな要素を取り入れることで自らの存在を維持し続けなければならない。このデリダの姿勢が、政治的地平においては「ヨーロッパ人は「他者(the Other)」に対して自らを開かなければならない」(p.106)という立場へと変換されていくのである。

シュトラウスとデリダは共に全体主義に抵抗したが、前者にとって肝要となるのは、レジーム、特にリベラル・デモクラシーの多様性を維持することであった。そして、政治社会は常に独特であり、それゆえにいくぶん閉じている。現代における政治哲学の学徒たちは哲学と政治の間にある根源的対立を認識することで、両者が平和裡に共存しうる環境を維持しなければならない。したがって、知識人に要求されるのは、特に他者の共同体的信念に向けられた安易な批判の自制である。これに対して、デリダは異質なものに対して開かれた形へヨーロッパを再構築する必要性を強調する(「歓待」の精神)。ただし、ヨーロッパは文化的、政治的ヘゲモニーを振り回してはならないが、人権と国際法という政治的普遍主義に対しては責任を負わなければならない。実際、彼は啓蒙主義の目標を追認していることを自ら認めている。しかし、それは初期近代の政治哲学者と同じ方法、同じ根拠によるのではない。先述のように、いかなる人間も一時として同じではありえないがゆえに、法の支配が完全に正義となることはない。ただし、法の一般性とその適用の特殊性のギャップは、常に「脱構築」による批判の機会と根拠を提供してくれる。したがって、知識人や批評家の役割は、閉じられた「全体主義的」システムの出現を防ぐため、あらゆる支配に内在する不正義と不条理を分析し、抉り出すことにある。そして、ヨーロッパが将来、非宗教的、純粋に世俗的な形のデモクラシーを代表し、促進することをデリダは願う。

これらの違いが指摘されたのち、シュトラウスならデリダに対してこのように応答していただろうとして、夫人は以下のように続ける。まず、デリダがあらゆるものを痕跡として還元しており、それによってハイデガーが近代哲学と科学に内在的であると考えた均質化の傾向にデリダは寄与している。また、彼は「反神学的な憤り(anti-theological ire)」を持ちながら、未来における「到来(coming)」といった世俗化されたキリスト教的概念を用いている。そして最大の批判となるのが、デリダが種・類の本質的な区別、すなわちイデア(もしくは、noetic heterogeneity)を否定することで、人間と非人間の本質的区別がなされえないことである。そのため、彼がたとえ「周縁(margins)」や「他者」のために語るとしても、デモクラシーの約束について彼が為した定義はヨーロッパ中心主義の観を免れ得ない。そして、このような認識論的特徴は、彼が主張する人権の基礎すらも突き崩してしまうのである。***

*** これについては、非基礎付け論者からの正当な反論が予期されよう。
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2009年01月13日

レオ・シュトラウスは自然主義者であったのか?

(09.3.20四訂)
(09.2.9 三訂)
(09.1.29改訂)
前回のザッカート夫妻の解説を読んで、ここでもう一度、國分功一郎氏の『思想』論文(「自然主義者の運命―シュトラウス、ドゥルーズ―」)を検討してみたいと思う。夫妻の説明に従うならば、シュトラウスの哲学的政治においては、哲学者は政治や社会に積極的に関与しようとする人々ではない。彼らは良く言えば極めて自制的である(そこに、シュトラウスがなによりもソクラテス以前の哲学者とソクラテスを区別する意義があった。NRH, p.123)。(1) そうであるならば、國分氏が指摘するように、「シュトラウスの考える哲学はコンヴェンショナリズムに対しては武器にはならない」(國分, p.344)のは当然とも言える。というよりも、そもそも哲学者は積極的に理論を組み立てて自らの哲学を防衛する必要には迫られない。このような両者のシュトラウス解釈の違いはどこから出てくるのであろうか? 端的に言えば、それはシュトラウスを自然主義者と捉えるかどうかにかかっている。夫妻の解釈からすれば、シュトラウス(の哲学者)は自然主義者ではない。それは、典型的にソクラテス以前の哲学者を意味するからだ。では、なぜ、國分氏はシュトラウスを自然主義者と捉えるのであろうか?ごくごく形式的に答えるならば、一読すれば明らかなように、氏がシュトラウスのソクラテスについて沈黙してしまっているからである。そのことを示すように、論文には、『自然権と歴史』の第四章(以降)への言及が一切見当たらない。つまり、氏の視野に入ってくるのは形式的にはシュトラウスのルクレティウスまで、ということになる。では、なぜ第四章(以降)は考慮の対象外となってしまったのであろうか?論文の主旨は「自然の発見としての哲学」をテーマに、シュトラウスとドゥルーズという二人の自然主義者を『自然権と歴史』の第三章によって媒介させることにある。そして、政治社会(または神話、コンヴェンション)に対して両者の哲学が取りうる姿勢の違いを、明らかにすることであった。このことを前提とした場合に、氏はシュトラウスのソクラテスを鑑みる必要性を感じなかったのであろう。シュトラウスの考える自然的正を振りかざす哲学はコンヴェンショナリズムに対して原理上武器にはならない。それは、ソクラテスであっても変わらない。しかし、ここで奇妙なことに気付く。そもそも、シュトラウスはその無力さに気付いていなかったのであろうか?必ずしもそうではない。彼はあきらかにコンヴェンションに対する哲学の無力さを認識していた、いやむしろ確信していた、と言うべきだろう。そのことは、國分氏自身がシュトラウスのルクレティウスに言及することで証明してしまっている。(2) ルクレティウスの哲学者(自然主義者)の運命は、都市国家に受入れられず隠遁生活を送らねばならないことであった(NRH, p.83)。氏はこれがシュトラウスの創作であること確認している(國分, p.358)。ならば、哲学の無力さを痛感していながら、どうしてシュトラウスは無益な自然的正の議論を続けたのであろうか?この問いこそが、シュトラウスの哲学的意図をその根底から理解する鍵であるように思われる。

ここでは、ザッカート夫妻に倣って以下のような仮説を提示しておきたい。つまり、シュトラウスの『自然権と歴史』は不特定多数の読者ではなく、哲学者、より正確に言えば、潜在的哲学者に向けて書かれた著作であり、そこで彼は社会(都市国家)における哲学者のあるべき振る舞い方を説いている、という仮説である。古代の都市国家においては、その宗教的規範が正常に機能している場合、哲学者は、ルクレティウスがそう描かれたように、歯牙にもかけられず、反対に人びとの反感を買い、良くて隠遁生活、最悪の場合、殺されかねなかった。しかし、シュトラウスが青年時代を生きたドイツはそうではなかった。ニーチェがそれまでの哲学的伝統を打ち砕いたのち、第一次大戦の壊滅的敗北によって、人びとは閉じられた「世界の城壁」(NRH, p.112-113)が既に崩れ去っていることに気付く。そして、その深刻な精神的危機の中にあって、彼らは哲学に対して憤るどころか、逆にそれを欲したのである。シュトラウスの目にはハイデガーが映っていた。無論、ハイデガーの哲学が実際にどれほどの影響力を持ちえたのかは議論の余地があるだろう。しかし、シュトラウスは、哲学による政治社会への安易な干渉を許すそもそもの元凶となった、実証主義、歴史主義(実存主義)、相対主義に対して非常な危機感を覚えた。人びとは「城壁」を必要とする。しかし、それはそもそも哲学によって支えられるべき代物ではない。むしろ、「自然の発見としての哲学」はそれを破壊するものでさえある。しかし、近代啓蒙主義者はそのことを認めなかった。彼らは「城壁」を哲学によって支え、そのことによって新たな権威を生み出そうとした。そのために、彼らは哲学を、ソクラテスがそうしたのとは違った意味で、天上から引き摺り下ろしたのである。シュトラウスが自然的正を主張したのは、近代啓蒙の悪しき残滓を打払うことで、哲学を再び天上へと戻し、政治に対する哲学者の自覚と責任を取り戻させるためであった。彼は、都市国家との関係構築において、ソクラテスに倣った。アテナイによって涜神の罪で殺されたにも関わらず、である。そして、そのエッセンスが『自然権と歴史』の第四章において説かれているのである。シュトラウスはこの部分において、哲学者が「狂気」から「正気」、「節制」へと立ち戻ることを訴えた(NRH, p.123)。彼はその意味で自然主義者ではなく、政治哲学者であった。人間が本性的に社会的存在であり、それは自らの振舞いが原則、社会的に拘束されているという自己知を持った哲学者であった(NRH, p.129)。しかし、それでも、われわれはここにひとつの皮肉を見る。すなわち、彼が古代人への回帰を志すきっかけとなった原体験とは、先述したように「城壁」が失われた時代と場所の経験であった。そのため、彼は歴史主義を批判したにもかかわらず、その元となった経験および思想的地平そのものが歴史的状況に縛られていた言うこともできるからである。ただ、ここで一つだけ指摘しておきたい。政治哲学者としてシュトラウスを見た場合、果たして國分氏の言うような形でドゥルーズとの対照性を看取することができたであろうか?つまり、ポストモダニズムが近代啓蒙による「城壁」の肥大化を糾弾する態度の表明であるとするならば、シュトラウスとドゥルーズはむしろ同じコインの表と裏であるように思えて仕方がないのだ。

以上述べたことは、あくまで仮説にとどまるので、立証は別の機会に譲らねばならないが、ここでは、シュトラウス解釈の上で國分氏の論文に見られた誤りを指摘しておくにとどめたい。ひとつは、アリストテレスの『形而上学』において「愛知者=哲学者」と「神話愛好者」の区別のためにシュトラウス(とドゥルーズ)が参照している箇所について、「それらの箇所を単に総合するだけでは自然の発見としての哲学という考えは導き出せない」(國分, p.355)としている部分である。この言明はある意味正しい。しかし、それは独特の解釈を必要とする、という意味ではなく、西洋哲学史の教科書的解釈を必要とする、という意味においてである。アリストテレスが最初の哲学者としてタレスに言及したのは、「神話愛好者」との類似性を強調するためではなく、まず両者を区別するためであった。いわゆる、ミュトス(神話)からロゴス(論理・理性)へ、という一大転換のことである(デリダはこの区別をもちろん否定しなければならないだろうが)。もし、国分氏の言うとおりならば、シュトラウスはこの教科書的解釈をわざわざ否定する形で『形而上学』を参照し、その部分に独特の解釈を加えた上で、結局は教科書的解釈に立ち戻った、ということになる。これが果たしてテクストの自然な読み方であろうか? むしろ、この独特の解釈という独特の解釈を氏が付け加えたのは、シュトラウスの自然主義者としてのイメージをより強く印象付けたいという意識が先走りしたため、ということができまいか?

もうひとつは、シュトラウスのルクレティウス解釈に言及する部分である(國分, p.357-358)。氏はルクレティウスの苦々しい哲学的事実、すなわち「にがよもぎ」を、自然的正に基づいた社会は形成されえないという事実、つまりはコンヴェンショナリズム(360頁では偽の無限もしくは神話が権力者に利用されたという事実)に一致させているが、これは誤りである(LAM, p.83-5, 91-3などを参照)。ルクレティウスが教示する哲学的事実とは、氏も知るとおり、古代原子論であり、その著『物の本性について』の最大の目的は、シュトラウスによれば、「人々を宗教から解放すること」(LAM, p.131)であった。(2) その意味では、氏はシュトラウスのルクレティウス解釈において、哲学者のあきらめと偽の無限ではなく、哲学と政治(都市国家)の対立というテーゼを第一に読み取らねばならなかったのである。

あわせて、ともすると誤解を招きかねない表現も二つほど指摘しておこう。ひとつは、「自然を宇宙全体とか世界全体(「現象の総体」)といった意味で理解してはならない」(國分, p.341)という言明である。確かにシュトラウスは本文中の指摘された箇所でそのように語っている(NRH, p.82)。しかし、『自然権と歴史』83頁、注3において、「区別を表わすことば」としての自然以外に、「第一存在」としての「自然」にも言及していることについて注意が必要である。その際、彼はプラトン『法律』篇の二つの箇所を参照するよう読者に促している。ひとつは891c1-4であり、もうひとつは892c2-7である。前者は「第一存在」(すなわち「自然」)として火や水や土や空気を主張した人びとに言及する場面で、後者はそれらの物質の前に魂が存在することを主張した人びとについて語る場面である。このことから、「第一存在」としての「自然」はイオニア自然学に由来し、もうひとつの自然はソフィスト的アンティテーゼ(アンティポン、プロタゴラス)に由来するということができよう。

もうひとつは、本エントリの冒頭でも引用した「シュトラウスの考える哲学はコンヴェンショナリズムに対しては武器にならない」(國分, p.344)という部分である。もちろん誤りではないが、ただ、最初の哲学者がコンヴェンショナリストであったということを今一度確認しておくべきである。シュトラウスは古代世界における哲学と都市国家への関わり方について、大きく三つの立場を明らかにした。それらは、『自然権と歴史』第三章で扱われる、哲学的コンヴェンショナリズム通俗的コンヴェンショナリズム、そして第四章で取り上げられる、政治哲学者の立場である。シュトラウスによれば、ルクレティウスは哲学的コンヴェンショナリストであり、それはソクラテス以前の哲学者をモデルとする(NRH, p.115)。したがって、彼らが神々への言及なしに万物の「始原」あるいは「第一存在」の探求を始めた人びとであり、「区別を表わすことば」としての自然を発見した最初の哲学者であるがゆえに、彼らを自然主義者と呼ぶことについてはまったく差し支えない(というのは、シュトラウスはこのような呼び方をしていないからである)(NRH, p.82)。この哲学的コンヴェンショナリズムの堕落した形態が、通俗的コンヴェンショナリズムである。 シュトラウスはこれを「ソフィスト」に宛がう。ソフィストは自然主義者と異なり、そもそも哲学的真理への関心を示さない。彼らが関心を示すのは、内容に関わらず彼らの名誉を高めてくれる見せかけの知識である(NRH, p.116)。しかし、知識は哲学的知識である以上、見せかけの知識というものはそもそも形容矛盾である。したがって、彼らは早晩、単純な相対主義的立場に陥らざるをえない(NRH, p.117)。最後の政治哲学者の立場というのは、ザッカート夫妻の解説で十分に述べられたとおりである。シュトラウスによれば、それはソクラテスによって始められた(NRH, p.120)。ただ、自然主義者と政治哲学者の違いは、哲学的政治の有無にとどまるものではない。前者がその真偽を問わず何らかの哲学的教義を持っているのに対し、後者は確信に至りつく保証のない探求の生、つまりせいぜいがひとつの生き方を提示できるだけである(NRH, p.125)。

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(1) 以下、引用部分について『自然権と歴史』はNRH、『リベラリズム 古代と近代』はLAMと略す。
(2) ところで、シュトラウスはこの隠遁生活について事態を幾分抑制的に描いているともいえる。われわれはもちろんアテナイの民主政によって死刑を宣告されたソクラテスを知っている。また、古代社会において、いかに哲学者が珍奇な存在として扱われたか、アリストパネスの『雲』やプラトンが『テアイテトス』で語ったタレスの逸話(174a)などを考えれば明らかであろう。以後の歴史においても異端が正統派から迫害を受けた例は枚挙に遑がない。そして、シュトラウスにとっては哲学者こそが最大の異端であった。

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(09.2.9 追補)
ここまで、幾つかの点を指摘してきて、以下のような反論が提起されるかもしれない。すなわち、「國分氏は、シュトラウスが提示する自然主義者像をドゥルーズのそれと比較しただけであって、シュトラウス自身を自然主義者と捉えたわけではない。つまり、シュトラウスによって否定的に解釈された自然主義者の役割を批判的に吟味しているだけだ」、というものである。残念ながら、氏は「自然主義者シュトラウス」と言明してしまっている(國分, p.358)。自然主義者の検討を通じて彼の哲学観もその視野の収めているのである。氏のシュトラウス像は、ひょっとすると、「自然の発見としての哲学」にあまりに囚われすぎてしまったがゆえの産物かもしれない。誤解を恐れずにいえば、「自然の発見」と「哲学」の間にそもそもなんらかの因果関係が成立するわけではない。例えば、氏も引用している『自然権と歴史』の第三章、冒頭箇所を見てみよう。
Aristotle calls the first philosophers simply “men who discoursed on nature” and distinguishes them from the men who preceded them and “who discoursed on gods.” Philosophy as distinguished from myth came into being when nature was discovered, or the first philosopher was the first man who discovered nature. (NRH, p.82)
下線の単語(“when”)に特に注意して欲しいのだが、この箇所からせいぜい読み取れることは、「最初の哲学者が最初に自然を発見した人びと」、ということであって、「自然を発見したがゆえにその人びとが哲学者と呼ばれるようになった」とまでは解釈できない。つまり、「哲学」の定義と「自然の発見」の定義は根本的に区別されねばならない。したがって、その直前の箇所である、“The discovery of nature is the work of philosophy.” (NRH, p.81)から、氏は「哲学という営みは自然の発見を前提にしている」(國分, p.340-341)と推断しているが、これは行き過ぎた解釈なのである。氏も認めるとおり、「哲学」は、万物の「原理」、すなわち「ロゴス」の探求を原義とする。ここまで来れば、氏がなぜシュトラウスを自然主義者と呼んでしまったのかが理解できるであろう。つまり、氏は「哲学=自然の発見」という確信に囚われてしまったがために、「哲学者=自然主義者」という枠の外へ一歩たりとも出ることができなかったのである。(3) このことは、『自然権と歴史』の第四章に氏が言及の必要性を感じなかったことからも明らかだが、その深みには、先に指摘したシュトラウスの自然概念(「第一存在」としての「自然」)に対する十分とはいえない理解が存在している。

ただ、氏の論文が抱える問題は実はもっと根深い。それは、論文冒頭における、「哲学は必要だろうか?」(國分, p.339)という問いかけに端的に表れている。この問いかけは、シュトラウスの哲学観を理解する上では誤った導入になりかねない。そもそも、哲学は外部の目的のために為される営みではない。少なくとも、シュトラウスはそう考えている。彼は、近代における「哲学の政治化」(NRH, p.34)を痛烈に批判している。これは、彼の認識論的前提がこの現象を批判しうる立場に立つからこそ可能となるものであろう。それは、アリストテレス的な理論と実践の二元論である。シュトラウスが進歩史観を批判し、政治哲学の歴史的理解を重視し、古典的哲学への回帰を試みたのも、ここに理由がある。それを単に懐古趣味として切り捨て、その認識論の深みにメスを入れないままでは、本当に表層の理解に止まってしまうことになる。稚拙なものになるが、以下の図を見て欲しい。

理論と実践の二元論

近代以降の理論と実践の関係は、いずれもどちらか一方が他方を志向する関係にあった。近代政治哲学は理論(哲学)を実践(政治)に対する武器としたが、ニーチェやハイデガーは逆に実践(実存)から理論(独断論的形而上学)を糾弾した。この構図はそれ以降の現代(フランス)思想においても基本的には変わっていない。むしろ反ロゴスの立場はかえって哲学を先鋭化させているようにも思える。シュトラウスはこのような志向的関係そのものを問題視した。そのため、彼は古典古代に回帰せざるを得なかったのである。(4) したがって、彼が「政治哲学(political philosophy)」を語るとき、その都度、定義には十分な考慮を払わなければならない。われわれは彼の考える認識論的立場にそのままでは立てないからだ。(5)(6) その意味で、氏のドゥルーズとシュトラウスの比較はこの点を掘り起こすことなしに全く表面的な議論に終始してしまっている。下手をすれば、ドゥルーズ自身の見識にも疑いの目を向けさせてしまうことになりかねない。

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(3) それはドゥルーズとシュトラウスの比較を論文のテーマとして選択したこととも無関係ではないであろう。両者が比較される土俵は「自然」をめぐるものでしかないからだ。
(4) 古典古代においては、哲学はそれ自体が目的であるようなエロス的営みとして、外部の必要にかられてではなく、内部の抑え切れない衝動(欲望)によって始まった。しかし同時に、そのことと哲学者が外部の要請に応じることとは、全く整合的に両立しうる、ということに注意しなければならない。(ある意味、トラシュマコスとも倦むことなく対話を重ねたソクラテスは幾分寛容であったのかもしれない。ただ、その寛容さがアルキビアデスという不肖の弟子を生み出すことになった) 問題は、このように哲学を衝動に還元してしまうことは、かえって哲学そのものの存在意義を掘り崩す結果になりかねないことである。知る限りでは、スタンレー・ローゼンがそのような問題提起を行っている。
(5) フッサールに倣った、生活世界への還元もシュトラウスがわれわれに用意した一つの方法であると言えるかもしれない。
(6) これは、彼が移り住んだアメリカでも同様であっただろう。ギムナジウムにおけるギリシャ語とラテン語を土台とした教養教育に培われたエートスの違いと言えるかもしれない。
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Zuckert, Truth about Leo Strauss(2)

Zuckert, Truth about Leo Strauss(2)

Chapter One: The Return of the Ancients: An Overview of the Straussian Project (pp.26-57)

第1章は、「古代人への回帰」として表現されるシュトラウスの哲学的プロジェクトを概観する。以下に注目すべき点をまとめておこう。
(引用部分について『自然権と歴史』はNRH、『僭主政治について』はOTと略し、ページはどちらも原書のそれである。)

【シュトラウスにおける(古代)哲学の本質】(pp. 36ff.)
まず、シュトラウスがマイモニデスとその師アル=ファーラービーへの回帰において注目したのは、教科書的な、そのアリストテレス解釈ではなく、プラトン解釈であった。すなわち、ファーラービーはプラトンのソクラテスに、アリストテレス的宇宙論や神的啓示にも依拠する必要のない生き方としての哲学本性的に最善であるような人間的生の唯一の形式としての哲学を見出していたのである。しかし、中世哲学への回帰は大変な困難を伴う。その最たるものが、いわゆる「忘れられた著述」の技法、すなわちエソテリシズム(秘教主義)である。そもそも、これらの哲学者が、哲学を預言者の思想の正当化にのみ用いたならば、このような特殊な技法を必要とはしなかったであろう。しかし、それは単に宗教的迫害を逃れるためだけに必要とされたわけでもなかった。一つは、既存の共同体的道徳に対して哲学的探求が本性的に持ちうる破壊的作用への配慮のためであり、もう一つは、潜在的哲学者に対するに教育的効果のためである。この内、前者からは、哲学者が政治的支配を欲し、「高貴な嘘」を用いて世論を操作しようとする哲人王当地は導き出しえないことを指摘しておくことは重要である。少なくとも、シュトラウスによれば、哲学者(愛知者)は最善の生の様式たる哲学的探求を捨て、政治的支配を欲することはないし、その時間的余裕すらなかった。(その意味で、哲学者の集団的利益は、まさしく「放っておかれる」ことである。NHR, p.143)また、(ソクラテス的)哲学は、生き方そのもの、知への探求それ自体であり、そしてまたせいぜいが「根源的かつ包括的な諸問題への自覚」(OT, p.196)でしかありえないゆえに、いかなるドクマティズムとも無縁であった(ソクラテスはただ自らが何も知らないことを知るのみである)。

【哲学者と支配との関係としての哲学的政治】(pp.49ff.)
もうひとつ特記しておくべきは、哲学者の政治的なものへの関わり方である。そもそもソクラテスがそれ以前の哲学者と区別されるのは、人が何よりもまず社会的・政治的存在である、という自己知をもつからであり、この自覚が彼を最初の政治哲学者にする。しかし、彼は既存の社会的・政治的秩序を自らの哲学的探求のための単なる必要条件や手段として捉えているわけではない。むしろ、ソクラテスは非哲学者に配慮し、哲学的活動にとっては最善であるような最大限の自由を許容する民主主義を最善体制とは見なさない。そして、哲学者は、最も哲学の可能性を左右する政治的共同体とその維持に必要な道徳規範を尊重する。だが、先述のように、哲学者は(一から創造することのできる言論上のポリスではなく)既存のポリスにおいては自ら支配を欲することはないし、その義務感を感じることもなければ、ほとんどの市民が彼を歯牙にもかけないために外部から強制されることもない。しかし、支配を欲しないからといって、愛国心から哲学者が公的活動を行うべきではないとする理由もない(現にソクラテスは、市民と積極的に交わり、志願して戦地にも赴いている)。哲学が孕むその破壊的作用から、哲学者は、ポリスとその支配者に働きかけて、自らの大義を擁護しなければならない(哲学的政治)。しかし、哲学的政治と支配への参加の間には「必然的な関係は一切存在しないのである」(OT, p.205)。

【シュトラウスのアリストテレス主義】(pp.54ff.)
ここまでで述べられたのは、われわれが通常使う意味での政治哲学ではない。シュトラウスが主張するのは、政治を基礎付けるための哲学ではなく、哲学を擁護するための政治なのである。では、前者の意味での政治哲学がシュトラウスにはなかったのかといえば、そうではない。まず、シュトラウスは(哲学的政治を離れても)現存のリベラル[立憲的]民主主義を否定することはない。ただし、彼はそれをホッブズやロックなど近代政治思想によってではなく、古典的政治学によって擁護するのである。より正確には、政治学についてのアリストテレス的理解によってである。古典的政治学の美点とは、ホッブズなどとは異なり、自然科学を道徳・政治哲学の基礎付けとして必要としない(理論と実践の分離)ところにある。人間は目的論的に行為する。そして、その自覚は適切な手段の選択にあたって人間を賢明にする。まさしく、この賢慮(prudence)の徳こそがいかなる理論的裏付けを必要としない実践哲学における根本原理なのである。このことは、彼が個々の政治的指導者の役割を重要視したことにも表れている(彼はある書簡でチャーチルの実践知を称揚している)。したがって、彼の(通常の意味での)政治哲学における最大の目的は、この賢慮に基づく政治的実践を、彼の時代において、諸々の誤った理論的基礎付けから擁護することにあった。言うまでもなく、それらは実証主義、歴史主義(実存主義)、相対主義である。シュトラウスにとっては、これらは近代啓蒙[合理]主義の成れの果てに映った。近代合理主義に対する自信は、ニーチェによって無残にも打ち砕かれた。ハイデガーはその危機に応答しようとしたが、結局彼が生み出したものは政治の固有の領域を軽視した存在論的形而上学でしかなかったのである。(したがって、シュトラウスの一連の政治哲学的主張は、主著『自然権と歴史』は言うまでもなく、真っ先に彼らに矛先が向けられていることを忘れてはならない)

これらのザッカート夫妻の説明に対し、以下の二つの点を指摘しておきたい。
第一に、哲学者の実践的役割についてである。哲学者の集団的利益は放っておかれることであり、したがって僭主政治のもとでは、彼らは地下に潜るか、他国へ逃げ出すか、という政治に対して極めて消極的な選択肢をまず尊重する。これを現代の文脈にあてはめて些か極端な話をするならば、哲学者の集団からは革命運動や地下抵抗組織が生まれる可能性はほとんどないということになる。しかし、これは明らかに現代人が好ましいと思うような知識人像ではないであろう。
第二に、上記の点と関係するが、夫妻の解釈に従えば、哲学についてのソクラテス的理解と政治学についてのアリストテレス的理解の結びつきは消去法的なものに過ぎないということになる(ただ、裏を返せば、哲学の政治に対する自制を考慮することで、他の選択肢も在りうるということが言える)。そして、何よりも実践的・倫理的意味を持つべき自然的正が、実際にはなんら正当な役割を果たすことができないということになるのではなかろうか(ただ、そもそもの批判が誰に向けられたものなのかを考慮すれば、かろうじて別の考えようもできるように思えるが…)。
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2009年01月12日

北森『聖書の読み方』

北森嘉蔵(1971)『聖書の読み方』講談社現代新書

著者は、聖書を読む際のさまざまな「コツ」を提示する。例えば、旧約と新約の関係は、お札の印刷模様とすかし模様の関係であることや、牧師や神学者による「ときあかし」を必要とする箇所があれば、そのような「ときあかし」抜きに聖書「そのもの」を読むだけがよい箇所もあること、などである。著者の神学のテーマは「神の苦難の愛」、「神の痛みの神学」である。それは、例えば、最後の晩餐の際にユダの裏切りを予告するキリストの言葉に表われている。キリストはユダを「わざわい」と断じる。「わざわい」とは「許されがたい存在であり、神の意志の外に脱落した存在であることを意味する」(p.144)。従って、キリストの十字架死は、神がそれらの外にいる存在をその愛の内に引き込もうとする時に必然的に伴う痛みの、歴史的具現化であるとされるのだ。キリスト教神学には疎いので、このいわゆる北森神学が、オーソドックスなものと比べて正確にどのような位置に立つものなのかはわからないが、神を一層人格に近づけ、神の全能性にも触れてしまいかねない「神の痛み」の概念は、ある程度ラディカルなものと捉えられるのかもしれない。
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2009年01月11日

大江『性的人間』

大江健三郎(1968)『性的人間』新潮文庫

性関係の著作を続けたので、次にたまたま家にあった大江の著作を読んでみた。いわゆる実存主義を思想的背景に持った作品である。サルトルの名が出てくるのは、最後の『共同生活』だけだが、最も露骨に実存主義的表現が散見されるのは『セヴンティーン』だと思う。「自意識」としての対自存在・実存。その自意識が撒き散らす「無」。猫に表象される即自存在。見られる者と見る者の間で錯綜する「まなざし」。ただ、サルトルは共産主義者であったが、主人公の少年は《右》少年である。彼は劣等感に苛まされて他者のまなざしにおびえる実存を、神秘的とも言える体験を通してニセモノの即自存在、他者にまなざしを向ける存在へと転換させた。実存はいかなる政治的・道徳的価値判断、すなわち本質に先行するが、それは裏を返せば、左右のそのいずれの政治的ラディカリズム(もしくは極端論主義)にも転びうる決意性や神秘性といったような危うさを持つということなのだろう。すなわち、大江の政治的人間と性的人間の対極性の図式においては、『セヴンティーン』での《右》少年と『性的人間』での痴漢少年はコインの両面なのである。ならば、巻末で解説者が述べるように、「『セヴンティーン』の片端な航行とは対照的に、[『性的人間』]がなんの支障もなく世に出て…いわばうまく受入れられてしまった」(p.233)という状況の奇妙さにも合点がいく。1960年前後の日本社会が性的人間の時代であり、政治的人間の頽廃が疑問なしに受入れられている、という大江の時代認識は、右だけではなく、左に対する痛烈な批判の表明でもある。左右の極端論主義は、人間が対自存在としての実存的あり方から逃れられない限り、どこまで行ってもニセモノの政治性しか生み出さず、自己満足の領域を出ることはない。そこから逃れる唯一の手段は、まさに『性的人間』の痴漢少年が辿ったような(自演自作の)英雄的死、すなわち自己破滅的行為でしかないのである。少年は、自らの痴漢体験(彼が《厳粛な綱渡り》と呼ぶ)を詩にすること当初計画していたが、それでは結果的に満足を得ることはできなかったであろう。彼がJと老人に出会って、痴漢クラブの救助専門の係りとして時間を共にしたことは、そのことを確信するのに決定的な意味を持ったはずである。しかし、彼は二度目の大冒険の決行直前にJと老人に、必要がなかったにもかかわらず、会いにきた。彼は会いに来ざるをえなかった。そこに、やはり無に怯える人間の実存の弱さを垣間見るのではなかろうか。
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2009年01月10日

デュシェ『オナニズムの歴史』/立花『アメリカ性革命報告』

D・J・デュシェ(金塚貞文訳)(1996)『オナニズムの歴史(1994)』文庫クセジュ
立花隆(1984)『アメリカ性革命報告(1979)』文春文庫

デュシェは、開巻劈頭、「われわれは、[性]行為の仕方から感じ方まで、生理=心理=社会学的環境によって条件付けられているのだ」(p.5)とポストモダン的(歴史主義的)言明を行う。しかし、訳者もあとがきで述べているように、この言明に自ら一貫して従っているとは言いがたい。訳者は、本書の近代における「性の解放・オナニズムの解放」が科学主義的視点(精神分析学や解剖学などの学問的発展)から描かれていることを指摘する。そこには、「オナニズムに対する見方・感じ方の歴史が、オナニズムそのものの歴史であるという自覚が」(p.147)今ひとつ足りないのである。だが、それは筆者が、性根の部分では啓蒙主義者であるからであろう。ゆえに、彼が「真理はすべからく、理性の光によってのみ理解されうるものでなければならない」(p.40)という言葉を発するとき、それは近代の百科全書派に向けられると共に、自らにも向けられているものと考えるべきである。ただ、考えてみれば、訳者が支持する歴史観も、剥いても剥いても一向に食べられそうにない玉葱のようなもので、その社会学的条件付けの解明が十分になされたという判断はいずれにせよ、これまた歴史的に制約されざるをえない常識に頼るほかないのではないだろうか。話は変わるが、「覗き趣味」についての描写(p.48ff.)は、以前の『魔女狩り』の話に通じていて興味深かった。ここでいう「覗き趣味」はいわゆる性癖としての覗きではなく、一種の集団恐慌に由来する。社会的にタブー視された行為(ここではマスターベーション)が「彼らを慄かせ、自分自身で恐がるために、見たと信じることを微に入り細に入り描写」(p.47)させる。挙句の果てにはいんちき病理学によって治療の名のもとに更なる覗きが繰り返される。彼らは恐れるからこそ多弁になる。その描写はもはや病的である。それが、いわゆる魔女狩りにおける魔女とされた女性と悪魔とのありもしない猥雑な行為の極めて細微な描写と二重写しになるのである。もちろん、純粋に性的な関心もあったのだろうけれど。立花の『アメリカ性革命報告』は逆にそちらの意味での覗き趣味といえるだろう。30年前の著作だと言うのに、フィスト(スカル)・ファッキング(特にゲイ同士の)や、社会的・政治的エリートと呼ばれる人々の異様な性描写には顔をしかめずにはいられなかった。当時の読者なら、解説者のようにきっと度肝を抜かれたに違いない。ちなみに、筆者はラディカル・フェミニズムとも言える、ウーマン・リブ運動には極めて手厳しい。「要するに、ウーマン・リブの根底にあるのは、女でありたくないという一語なの」(p.184)だそうだ。

(09.1.29追補)
『アメリカ性革命報告』の最後は、進行する性革命に対する以下のような警告で締めくくられる。本書の出版から30年を経て、果たして性やセックスに起因するような社会的な大変動は発生しただろうか。日本においては、逆に(流通に関して)法的規制やメディア側の自粛が強化されてきたように見えるが、それは健全なバランス感覚の表れと言っていいのだろうか? ちなみに以下の引用は、Marshall, Donald S, and Robert C. Suggus. eds. Human Sexual Behavior: Variations in the Ethnographic Spectrum. New York: Basic, 1971.から編者によるエピローグの要約である。
…法制度、あるいは社会道徳という形で成立している性の偽善性は、それなりの社会的経済的諸力がその背後にあってそれを成立せしめているのだから、その現実を無視して、性に対する社会的統制の枠を取り払ってしまうことは、社会の基礎的構造を不用意に変更することになりかねない…
性革命の表面的現象だけを見ていると、何やら性的好奇心をかきたてられるだけだが、それを社会全体のパースペクティブのなかで、かつ歴史の流れの中でとらえてみたときに、その結果として何が招来されるか、実は誰にもまだよくわかっていない社会・文化的大変動が現に進行しつつあるのだという大変な問題に気がつくのである。(p.268)
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2009年01月09日

Zuckert, Truth about Leo Strauss(1)

Zuckert, Catherine, and Michael Zuckert. Truth about Leo Strauss: Political Philosophy and American Democracy. Chicago: U of Chicago P, 2006.(1)

シュトラウス学派を扱った、同書の第6、7章は以前にまとめた。今回は、序章。

Introduction: Mr. Strauss Goes to Washington? (pp.1-24)

序章は、一般メディアにおけるシュトラウス像の変遷を描く。ザッカート夫妻はシュトラウスの弟子であって、当然シュトラウス擁護の立場に立つので、いわゆるネオコンやブッシュ政権とシュトラウスを結びつける記事に対しては極めて批判的である。夫妻の整理によれば、メディアにおけるシュトラウス像は2つの側面を持つ。一つはウィルソン的な(民主主義的拡大を旨とした)理想主義的側面。もう一つは、打って変わって、マキアヴェッリ的な権謀術策を弄する現実主義的側面である。一見相反するこの2つの特徴が奇妙なことに共存する。ネオコンとの関連で言えば、前者はいわゆるレジーム・チェンジの源泉となり、後者はエリート主義、トラシュマコス的正義観、エソテリシズムと「高貴な嘘」に基づく大衆操作の知的源泉となる。

シオニズムとイスラエルを扱った一部のものを除いて、具体的な政策提言に関わる著作を持たないシュトラウスがいかにして、近年のように現実政治と結びつけられるようになったのか、夫妻はまずその前史とも言える以下の二つの著作に言及する。
* Burnyeat, Miles. “Sphinx without a Secret.” Rev. of Studies in Platonic Political Philosophy, by Leo Strauss. New York Review of Books. 30 May 1985: 30-36.
シュトラウスの思想と現実政治との関係について初めて言及した書評記事
* Wood, Gordon. “Fundamentalists and the Constitution.” Rev. of American Founding: Politics, Statesmanship, and the Constitution, ed. Ralph A. Rossum and Gary L. McDowell, etc. New York Review of Books. 18 Feb. 1988: 33-40.
憲法研究におけるシュトラウスの弟子たちの少なからぬ影響力を指摘。ただ、ウッド自身はそれほどシュトラウスに批判的なわけではない。

これら80年代の記事は一般世論に対する影響力が小さかったが、90年代に入ってにわかに騒がしくなる。
* Staples, Brent. “Undemocratic Vistas: The Sinister Vogue of Leo Strauss.” New York Times. 28 Nov. 1994: A16.(本文リンク)
シュトラウスが当時の現状維持的保守エリートに影響を与える思想家とされ、その中でも政府内外の4人の人物が名指しされる。実際、内3人はシュトラウスとなんらの結びつきはなかったが、最後の一人であるA・ブルームの名前がかろうじて記事の信憑性を担保し、その後に続くシュトラウスへの関心の波を形作った。
* Bernstein, Richard. “Very Unlikely Villain (or Hero).” New York Times. 29 Jan. 1995: E4.(本文リンク)
この第一波はそうそう続かなかったが、それを事実上終結させたのがこのバーンスタインの論説。シュトラウスの思想と非民主主義的なエリート主義との関係を否定した。

そして、2000年に入り、イラク戦争後にシュトラウス・バッシングはピークに達する。氾濫する関連記事の中で、その最初期とものとされるのが以下の2つ。
* Atlas, James. “Leo-Cons; A Classicist’s Legacy: New Empire Builders.” New York Times. 4 May 2003: sec.4, 1.(本文リンク)
* Frachon, Alain, and Daniel Vernet. “Strategist and the Philosopher.” Trans. Mark K. Jensen. Le Monde. 19 Apr. 2003. 9 Jan. 2009 < http://www.informationclearinghouse.info/article2978.htm >. (仏語原文)

しかし、これら著名メディアでの論説に先立って、イラク戦争以前から反シュトラウス(反ネオコン)のプロパガンダを繰り広げたのが、数々の陰謀論で悪名高い、L・ラローシェ(LaRouche)と彼の率いる政治団体である。夫妻は、いわゆるラローシェ主義者(the LaRouchites)に名を連ねる人びとが発表した一連の主張において、先のFrachonとVernetによる論説に対する影響関係を認める。そして、ラローシェがそもそも極端な進歩主義者であるがゆえに、初期の政治的言明では、先述したシュトラウスの反理想主義的なプラトン解釈が痛烈な批判の対象となった。(これらの夫妻の記述は事実として正しいのかもしれないが、イラク戦争後の一連のシュトラウス・バッシングの起源をラローシェとその取り巻きに求めるのは、その陰謀論的な論評のいかがわしさと胡散臭さで、それら記事全体の信憑性を疑わしいものとするには、効果としては抜群だろう)

夫妻の遡及的追及はここでとどまらない。シュトラウスの思想の核心をマキアヴェッリ的現実主義と捉え、ネオコンに影響を与えた(とされる)ウィルソン的理想主義を純粋な公教的教義(つまりは、高貴な嘘)として切り捨てる立場について、一部のラローシェ主義者が明示的に参照している研究者を指摘する。それはもはや言うまでもなく、S・ドゥルリーである。夫妻は、具体的に以下の3つの著作に言及する(彼女にはもう一冊、コジェーヴを主題としてその関連でシュトラウスを論じた著書がある)。
* Drury, Shadia. Political Ideas of Leo Strauss. New York: St. Martin’s, 1988. (Up. ed. New York: Palgrave Macmillan, 2005)
* ---. Leo Strauss and the American Right. New York: St. Martin’s, 1997.
* ---. “Saving America.” 10 Sep. 2003. Evatt Foundation. 9 Jan. 2009. < http://evatt.labor.net.au/publications/papers/112.html >.

それぞれの中身については詳しく言及しないが、夫妻の表現を使えば、ドゥルリーのシュトラウスとはマキアヴェッリ主義者、ニーチェ主義者、無神論者、ニヒリストである。加えて夫妻は、イラク戦争後に執筆された3番目の著作では批判のトーンがより過激に変化していったことも指摘する。
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