2009年02月11日

「政治哲学とは何か?」をどう読むか?(1)

(2009.2.12 改訂)
今回は、代表論文「政治哲学とは何か?」を扱う。ネタ元はエルサレムのヘブライ大学における講演で、時期は1954から1955年にかけて。前回の「自然権と歴史的アプローチ」のネタ元の講演が1949年(Review of Politicsに載ったのが1950年、『自然権と歴史』の出版が1953年)であるので、これよりも数年後のものとなる。シュトラウスを読む際の注意事項は先に述べたとおりで、下手な先入見を捨て、まずは字面どおりに読む。テクストには所詮書き手の唯一の意図など見出せないとして、その最小限の努力をも怠ることはシュトラウスの場合には許されない。また、エソテリックな叙述を逐一疑って、行間を読もうとするのはその努力を十分尽くしてからの話である。玄人的に洗練された読みを端から目指そうとせず、外部の余計な評論をできる限り排して、素人的に読んでみてはどうだろうか。とにかく、速断は禁物である。(そのため、字面通りを大きく越えると思われる見解については[ ]で括った。)

まず、全体の構造を確認しておこう。一部どうしても主観的にならざるをえないが、とりあえず以下のようにテーマ毎に区切ってみる。

I. The Problem of Political Philosophy
* 政治哲学とはなにか?(p.9-18)
* 政治哲学の近現代的否定の形態である実証主義(p.18-25)
* 実証主義の必然的帰結としての(急進的)歴史主義(p.25-27)

II. The Classical Solution
* 古今の政治哲学における抽象と具体、対象化と友情(p.27-29)
* プラトンの『法律』、大胆と節制、哲学とポリス(p.29-33)
* レジームと最善政体、愛国者と党派的人間(p.33-36)
* 現代的批判@: 反民主主義的性質(p.36-38)
* 現代的批判A: 古典的自然哲学(宇宙論)という前提(p.38-40)

III. The Modern Solutions
* マキアヴェッリ(近代性の第一の波)(p.40-47)
* ホッブズ・ロック(p.47-50)
* ルソー・ドイツ観念論(近代性の第二の波と歴史の発見) (p.50-54)
* ニーチェとハイデガー(近代性の第三の波)(p.54-55)

政治哲学とはなにか、この問いを端から固定的に捉えてしまうと、この論文を読む意義はそもそもなくなってしまう。したがって、細心の注意が必要である。
All political action has then in itself a directedness towards knowledge of the good: of the good life, or of the good society. For the good society is the complete political good. (WIPP, p.10)
ここではまだ、善の知識を志向する、と言っている。われわれのあらゆる政治的行為をメタ次元で、事実として描写しているだけである。
If this directedness becomes explicit, if men make it their explicit goal to acquire knowledge of the good life and of the good society, political philosophy emerges... [P]olitical philosophy is a branch of philosophy. (同)
通常の政治的行為に対して、政治哲学は、善の知識の意識的な獲得を目的とする営みである。[ここでは、まだ「善の知識」の属性について一言も語られていないことに注意する必要がある。] ただ、政治「哲学」と言う以上、政治哲学は必然的に哲学の特徴を帯びることになる。では、「政治」は何を示すのか?
...“political” indicates both the subject matter and the function: political philosophy deals with political matters in a manner that is meant to be relevant for political life; therefore its subject must be identical with the goal, the ultimate goals of political action. (同)
「政治」は主題と機能を示している。主題とは、政治的な事柄であり、機能とは、政治的生にとって適切であると思われる仕方で、ということである。ここで、読む側にとって引っかかるのが後者である。政治的生にとって適切であると思われる仕方とは何を意味するのか?
Political philosophy is that branch of philosophy which is closest to political life, to non-philosophic life, to human life. Only in his Politics does Aristotle make use of oaths---the almost inevitable accompaniment of passionate speech. (同)
その疑問はここで一応解消するように思われる。アリストテレスが『政治学』においてのみ、(例えば「ゼウスにかけて」という)宗教的誓いを発するのは、ポリス的生に備わる宗教的要素への配慮のために他ならない。そして、前の文の関係詞以降では、明らかに哲学的(観想的)生と政治的(実践的)生の区別が示されている。すなわち、政治哲学は哲学的生の中でのポリス的生に最も近い一部門であって、後者にそもそも内在する営みではないのである。したがって、この後者に対して払われる配慮こそが、シュトラウスの言う政治哲学の機能的側面と言ってもよいだろう。[この時点で、既にわれわれが通常考える政治哲学の定義は通用していない。そのことを簡単に看過してしまうと、残るのは憶測から生まれる誤解だけである。]
Philosophy is essentially not possession of the truth, but quest for the truth. The distinctive trait of the philosopher is that “he knows that he knows nothing,”... It may be...that philosophy will never go beyond the stage of discussion or disruption and will never reach the stage of decision. This would not make philosophy futile. (p.11)
誤解しようの無い哲学の定義である。哲学は「真理の所有」ではなく、「真理の探究」である。所有は状態だが、探求は行為であるから、哲学は本来「哲学すること」である。そして、哲学者が唯一持ちうる知識は無知の知である(それなら、無知ではないではないか、という突っ込みはご勘弁)。しかし、哲学が真理の所有を約束されていないのなら、そもそもそのような営みなどシシュポスのなんとやらではないか、と素人なら必ず思うだろう。というよりも、そのように思って欲しいのである。シュトラウスは「哲学すること」は無益ではないという。なぜか?
For the clear grasp of a fundamental question requires understanding of the nature of the subject matter with which the question is concerned. Genuine knowledge of a fundamental question, thorough understanding of it, is better than blindness to it, or indifference to it, be that indifference or blindness accompanied by knowledge of the answers to a vast number of peripheral or ephemeral questions or not. (p.11)
その答え(すなわち、真理)は知らずとも、「真理の探究」への橋頭堡となる根本的な問題(例えば、「正義とはなにか?」)の完全な理解は可能であって、そのためには対象となる主題(例えば、ポリス)の本質的理解が不可欠となる。したがって、その理解は根本的な問題に対して全く無関心であるよりも断然ましということができよう。だから、無益ではないのである。
Political philosophy will then be the attempt to replace opinion about the nature of political things by knowledge of the nature of political things. Political things are by nature subject to approval and disapproval, to choice and rejection, to praise and blame. It is of their essence not to be neutral but to raise a claim to men’s obedience, allegiance, decision or judgment. One does not understand them as what they are, as political things, if one does not take seriously their explicit or implicit claim to be judged in terms of goodness or badness, or justice or injustice, i.e., if one does not measure them by some standard of goodness or justice. To judge soundly one must know the true standards. If political philosophy wishes to do justice to its subject matter, it must strive for genuine knowledge of these standards. Political philosophy is the attempt truly to know both the nature of political things and the right, or the good, political order. (p.11-12)
他の細かい部分を読み飛ばして、この部分(だけ)に惹きつけられた人間は、間違いなくシュトラウスを原理主義者だと呼ぶであろう。しかし、よくよく考えて欲しい。この箇所からは、哲学者がいかなる実践的態度を取るべきなのかは全く読み取ることはできない。「シュトラウス=原理主義者」と読んでしまう人間は、「政治的な事柄の本質を知り、善悪の真の判断基準を知るシュトラウスの哲学者は、それを非哲学者である大衆に必ず適用する」と勝手に推断しているのである。詭弁に聞こえるかもしれないが、哲学者の営みは、社会の残りの部分と没交渉の状態であっても成立する。例えば、正義や徳について内輪で侃諤しながら、アーミッシュのような生活を送ることも可能なのである。更に言えば、哲学が「真理の所有」ではないと明言されたはずなのに、この箇所では「本物の基準」や「正しい、善き政治的秩序」などという言葉が並んでいるのは、不思議だとは思わないだろうか。速断は禁物であるというのは、まさしくこういう意味においてである。[ちなみに、私見では、以下のような読み方を提示しておきたい。まず、最初と最後の文にある“attempt”からは、あくまで試み以上のものは読み取れない。そして、政治的事柄の非中立的な本質が言明された直後の文では、if節を含め単純な言い換えと理解することができよう。しかし、次の文では一気に語のトーンが変化する。気をつけて欲しいのは、それが端的に「真の基準を知らねばならない」と述べられてはいないということである。「正しい判断が下されるためには」という限定が付されている。同様に、次の文でも、if節に注意する必要がある。しかも、「願うならば(if...wishes to)」や「努力する(strive for)」といった言葉で語られているならば尚更である。]

以降、しばらく政治哲学と「政治」を冠したその他諸分野との区別が行われる。
“Political science” is an ambiguous term: it designates such investigations of political things as are guided by the model of natural science, and it designates the work which is being done by members of political science departments. As regards the former, or what we call “scientific” political science, it conceives of itself as the way towards genuine knowledge of political things. (p.13)
「政治学(political science)」について、二つの意味がここでは示される。一つは、「科学的」政治学である。よく知られたところで言えば、メリアムやイーストン、最近ではKKVなどを想起すれば十分だろう。問題は二番目の意味である。
The useful work done by the men called political scientists...consists of careful and judicious collections and analyses of politically relevant data. To understand the meaning of this work, we remind ourselves of our provisional definition of political philosophy. Political philosophy is the attempt to understand the nature of political things. Before one can even think of attempting to understand the nature of political things, one must know political things: one must possess political knowledge. (p.14)
まず、“politically relevant data”とあるが、これは先のような自然科学的データのことではない。それは、最後の下線が示す政治的知識である。知識というと、意見から知識への上昇という哲学の定義から、(政治的)真理と取り違えてしまいそうだが、続きを読むとそうではない。あと、二番目の下線からは、ここまでの政治哲学の定義が暫定的なものであったことが理解できるであろう。われわれは喉元まで出かかっているのをまだ我慢しなければならない。
At least every sane adult possesses political knowledge to some degree. Everyone knows something of taxes, police, law, jails, war, peace, armistice... At top of the ladder we find the great statesman who possesses political knowledge, political understanding, political wisdom, political skill in the highest degree: political science (politikē epistēmē) in the original meaning of term. (p.14)
ここでの政治的知識とは実践知であることがわかる。中でも、偉大な政治家が兼ね備える政治的知識や技量こそが、語の本来の意味での「ポリス的な学問(ポリティケー・エピステーメー)」である。[言うまでも無く、この意味での「政治学」はアリストテレスのそれを指している。]
It is of the essence of political life to be guided by a mixture of political knowledge and political opinion. Hence, all political life is accompanied by more or less coherent and more or less strenuous efforts to replace political opinion by political knowledge. (p.15)
政治的生はその政治的知識と政治的意見の混じりあったものによって導かれることを不可欠とする。そして、観想的生と同じく、政治的意見を政治的知識によって置き換えていく試みであることが述べられる。しかし、ここで「多少(more or less)」という限定詞に気をつけなければならない。その試みの首尾一貫性も熱心さも、哲学に比べれば限定的なのである。そこで気にすべきは、哲学者が業とする政治哲学と政治家が備えるべき政治的知識たる政治学の関係である。
These ways of acquiring political knowledge are no longer sufficient because we live in “dynamic mass societies,” i.e. in societies which are characterized by both immense complexity and rapid change... Under these conditions it becomes necessary that a number of men should devote themselves entirely to the task of collecting and digesting knowledge of political things. It is this activity which today is frequently called political science. (p.15)
最初の「これらの方法」とは、賢明な古老の話を聞くとか、優れた歴史家の書物を読むことなどを意味している。現代の「動的な大衆社会」においては、そのような方法がもはや十分ではなく、そのため、多くの人びとが政治的な事柄についての知識の収集・整理に従事している。彼らこそがわれわれが法学部等で目にする「政治学者(political scientists)」である。[したがって、彼らは必ずしも政治哲学者とは限らない。シュトラウスが自らを(政治)哲学者ではなく、(政治)哲学(史)の研究者と考えていたエピソードはよく知られている。そこには、無論謙遜の意味合いも含まれるだろうが、もとよりこの政治学者と政治哲学者の区別を前提としていたからであろう。]
Moreover, while even the most unscrupulous politician must constantly try to replace in his own mind political opinion by political knowledge in order to be successful, the scholarly student of political things will go beyond this by trying to state the results of his investigations in public without any concealment and without any partisanship: he will act the part of the enlightened and patriotic citizen who has no axe of his own to grind. Or, differently expressed, the scholarly quest for political knowledge is essentially animated by a moral impulse, the love of truth. (p.16)
政治的生は政治的意見を政治的知識に置き換えていく努力を伴うことは既に述べた。そして、最大限の注意を喚起するために、政治的知識(political knowledge)は(政治的事柄についての)哲学的知識と次元を異にするということを強調しておきたい。前者は、われわれの政治学者たちが書物やメディアで論じている事柄のことである。実際、“political knowledge”という言葉は、政治学が語られ始める以前では一切登場しない。その代わり、哲学的知識は “wisdom”や“universal knowledge”や“knowledge of the whole”、政治的事柄に関わる知識は、”knowledge of the nature of political things”と呼ばれるのである。また、最後を除く下線部であるが、ここから政治学者が政治家とは異なり、自らの研究成果を公共に還元する場合でも、どのような政治的党派精神も持たない愛国者だということが理解できるだろう。[もちろん、「われわれの」政治学者は決してそうではない。これは近代に特有の現象であるとシュトラウスが暗にほのめかしていると読むこともできる。また、ヴェーバーの価値自由を批判しておきながら、政治学者が党派的人間ではないとするのは矛盾ではないのか、という疑問もあるだろう。これに対しては、彼らは党派的人間ではないが、愛国的市民である、と答えておけば十分である。なお、党派的人間と愛国的市民の区別はのちに重要な局面で登場する。そのため、この政治学者の説明はしっかり頭の片隅に留めておく必要がある。] 更に、最後の下線部であるが、これは政治学者の研究の動機が、哲学者のそれと似通ったものであることを示している。[ただ、ここでは「道徳的衝動」と言われているので、純粋な哲学的エロスとは異なるとも読めないこともない。それでも、「真理への愛」と言い換えられているところを見ると、本質的な違いがあるとも言いにくい。もうひとつあいまいな点を指摘しておけば、語の本来の意味でのポリティケー・エピステーメーの説明がなされる際(p.14の最下部)、政治的知識のみならず、文字通り実践知たる知恵や技量もその中に含まれているような書き方をシュトラウスはしているが、もちろん政治学者が対象とする政治学にこれらの意味合いが含まれることはありえない。したがって、政治学者が提供できる知識は、政治家にとっては重要ではあるが、その全てではないことを確認しておく必要があろう。]
...the scholarly and the non-scholarly quest for political knowledge are identical in the decisive respect: their center of reference is the given political situation, and even in most cases the given political situation in the individual’s own country… It is only the Here and Now ceases to be the center of reference that a philosophic or scientific approach to politics can emerge. (p.16)
そろそろ、政治哲学(political philosophy)と政治学(political science, politikē epistēmē)が認識論上で接近してくる局面である。「学問的」、「非学問的」と呼ばれているのはそれぞれ、政治学者と政治家を指す。両者の間には先ほどのような違いはありつつも、彼らは大抵の場合、自らの国における所与の政治的状況を論究の中心とする。しかし、政治学者の論究だけはこのような比較優位の枠内に止まらない。それは、彼らが「いま・ここ」を超え出ていくからである。[巧妙にも、とは言わないが、この直前の文で、「政治家」は姿を消している。当たり前といえば、当たり前といえよう。] その時になって初めて、政治に関する哲学的もしくは科学的アプローチが登場してくるのである。[この「哲学的もしくは科学的」という言葉は、シュトラウスの哲学観を理解する上で、実は大変な重要性を持っている。政治学者は個別の政治的状況を抜け出て、普遍的な政治的知識への論究へと導かれる。それは「イラク戦争」と「戦争」そのものという認識論的違いと同じである。よって、このような超越が科学的アプローチと言えるのは、この個別と普遍のいずれの認識論的立場にあっても、政治的知識(political knowledge)が成立しうるからであろう。また、それが同時に哲学的アプローチとも呼べるのは、先に何度も述べられたように、哲学が「全体についての知識」を本質的に問うものだからである。よって、哲学と科学はこの普遍という認識論的場において、初めて連関することになる。したがって、ここではあくまでも政治学の立場から語られているがゆえに、「アプローチ」と呼ばれていることに注意しなければならない。ただ、もう一つ重要なことに気付かなければならない。それは、シュトラウスにおける「哲学」が普遍によってしか語られないということだ。何をいまさらと思われるかもしれないが、このことは彼が原則的にイデア論の立場に立っていることを如実に表わす。認識論上のイデア論とは、彼の言葉を使えば、“noetic heterogeneity”と表現される。上谷氏の表現を使えば、「質料に内在する形相」としての「現象学的イデア論」である。つまり、イデア論としては、それは類(genus)と種(species)による内なる分節を含んだ全体という認識論的前提となるが、“noetic”もしくは「現象学的」である以上は、それを探求し知解しようとする思惟、つまりはその思惟の主体が無ければならない。けれども、なぜ現象学的か。それは、シュトラウスにとって哲学は探求という「行為」でしかありえず、そうである以上、それは行為者としての哲学者を絶対的に必要とするからである。ただ、このような認識論的立場を徹底させることは、かえってシュトラウスを深刻なアイデンティティ・クライシスに陥らせかねないのではなかろうか。もし、全体が認識主体を前提としなければならないのであれば、自身以外の何ものにも依拠しない神の全能性は否定されてしまう。そうなると、ユダヤ教のような一神教は成立しえない。ザッカートは、シュトラウスが古代ギリシャに最終的に回帰したことで、哲学と啓示の争いについて、前者に軍配を上げていた。だが、果たして本当にそう言えるのだろうか?今後の課題としたい。ちなみに、初期のシュトラウスの思想から「預言者=哲学者=立法者」という図式を導き出して、彼を「原理主義者」呼ばわりした論文があったが、以上のことを踏まえるならば、あまりにも短絡的な議論であることが理解できるだろう。]
All knowledge of political things implies assumptions concerning the nature of political things; i.e., assumptions which concern not merely the given political situation, but political life or human life as such... One cannot see a policeman as a policeman without having made an assumption about law and government as such. The assumptions concerning the nature of political things, which are implied in all knowledge of political things, have the character of opinions. It is only when these assumptions are made the theme of critical and coherent analysis that a philosophic or scientific approach to politics emerges. (p.16)
最後の文に着目すれば、先ほどの引用と対になっていることが判る。しかし、先ほどの箇所が、「個別から普遍」への上昇であったのに対し、この箇所が述べているのは、主として「種から類」への上昇である。拙いもので申し訳ないが、以下の図を参照しながら読み進めて欲しい。

シュトラウスのイデア論
The cognitive status of political knowledge is not different from that of the knowledge possessed by the shepherd, the husband, the general, or the cook. Yet the pursuits of these types of man do not give rise to a pastoral, marital, military, or culinary philosophy because their ultimate goals are sufficiently clear and unambiguous... The goal of the general is victory, whereas the goal of the statesman is the common good. What victory means is not essentially controversial, but the meaning of the common good is essentially controversial. The ambiguity of the political goal is due to its comprehensive character. Thus temptation arises to treat politics as one compartment among many. But this temptation must be resisted if it is necessary to face our situation as human beings, i.e., the whole situation. (p.16-17)
ここから、多少「政治的知識(political knowledge)」の色合いに変化が生じてくる。政治的知識は、例えば羊飼いの持つ知識と認識論的な地位を異にする。これは、端的に言えば、政治的知識が先に述べたような上昇を重ねていくうちに、最終的に図の「??」に至らざるをえないからだ。「??」はここで共通善という名前を与えられる。そして、この共通善を目標とするのが政治家である。[厳密に読めば、哲学者や政治学者は出てこないが、先の二種類の上昇過程には少なくとも携わっている。] そして、共通善と政治は包括的な性格(the comprehensive character)を有している。[ここにはシュミットとの議論が反映されていると言えよう。] しかし、言うまでも無く、共通善の意味は常に論争の対象である。そして、逆説的だが、それはその包括的な性格に由来しているのである。ここで、もう一度、哲学の定義を思い起こして欲しい。それは全体についての「知識の所有」ではなく、「探求」でしかなかった。そのため、哲学ですら絶対に「議論の段階」を超えることができなかったのである。(p.11) にもかかわらず、政治家がその「議論の段階」を超え出ることができるとは思えない。したがって、包括的な性格を持つ共通善は、「知識」として政治家によって所有される類のものでは決してない。このことは誤解してはならない。 [ここから、幾つかの点を指摘しておかなければならない。第一に、シュトラウスは政治的共通善の内実を一元的に定めうるものとして主張したのでは無い。むしろ、それをしてしまえば、直ちに認識論上の矛盾に直面することになったであろう。つまり、共通善は現象学的なメタ概念(と言ってもいいのかどうかは正直自信がないが)でしかないのである。われわれは政治が共通善の追及の場であることを知っている。こう言ってしまうと、「そうではないだろう。政治は各々のアクターの私的利害が争われるアリーナだ」という声が聞こえてきそうである。しかし、「われわれ」の常識は果たしてそういう認識に基づいているだろうか?企業や官僚や政治家が自らの私的利害のために政治の場を利用したとき、「われわれ」はそれをあるまじき行為として憤るのではないのだろうか?今回の世界的金融危機に向けられた市井の人びとからの痛烈な批判は、その証左ではなかろうか?シュトラウスが恐れたのは、共通善を支持するこの認識論的前提を根本から葬り去るような実証主義(科学至上主義)と急進的歴史主義の波であった。そして、その追求を支える健全な政治的アリーナとリベラルデモクラシーを擁護したのである。したがって、政治的一元論対多元主義といった近代的図式からしかシュトラウスを捉えることができない論者は、その深みにある認識論的前提を全く理解できていないのである。第二に、われわれは先に偉大な政治家が本来的な意味でのポリティケー・エピステーメーを体現する人びとであることを確認した。しかし、ここで奇妙なことに気付く。観照的生に身を置きつつ、全体についての知識の探求に携わる哲学者とは異なり、政治家は政治的知識以外のものをも実は兼ね備えている。政治的理解や知恵、技量などがそれであるが、このことは政治のアリーナにおいては、政治家の方が哲学者よりも共通善の探求に優れていることを意味しないだろうか?もしくは、少なくとも両者の間にそれほど大きな優劣が見出されるとは思えない。哲学者の営為が、「探求」まででしかないのならば尚更である。しかし、上の引用箇所でも言われているように、政治的な共通善が本当に包括的な性格を持つのであれば、哲学者は最終的には政治哲学者にならざるを得ず、彼ら独自の観照的生は存在しないということになってしまわないだろうか?そうなってしまえば、極論だが、そもそも政治家と哲学者の区別をつける必要すらなくなってしまうのではないか?もし、観照的生が保証されるのであれば、政治的共通善の探求とは別のもので無ければならない。それは、共通善の包括的性格を再び超越するものでしかありえないのである。]
Originally political philosophy was identical with political science, and it was the all-embracing study of human affairs. Today, we find it cut into pieces which behave as if they were parts of a worm. In the first place, one has applied the distinction between philosophy and science to the study of human affairs, and accordingly one makes a distinction between non-philosophic political science and a non-scientific political philosophy... Furthermore, large segments of what formerly belonged to political philosophy or political science have become emancipated under the names of economics, sociology, and social psychology. (p.17)
この箇所は次の実証主義への導入と位置付けられる。ここまでの議論を踏まえれば、政治学は政治哲学のための理論的・科学的分析を、政治哲学はそれを元にした共通善の探求を担う、一種の補完的関係にあるといってもよいだろう。先の「科学的」政治学の批判を鑑みれば、政治哲学は、政治学と近代以降の社会科学諸分野の急激な科学化、暴走への一種の箍としても機能している。したがって、念のために述べておけば、「一致している(identical)」ということの意味は、両者が区分無く一体化している、というのではなく、近代のようにあえて明確に区分する必要性すらなかった、と読むべきである。[ヤスパースの「哲学的世界定位」を多少なりとも想起しないだろか。ここで経済学が挙げられているのは、現在の金融理論の暴走を考えるとき、皮肉としか言いようがない。]

[ここまで、わずか9頁である。かつて、長尾龍一氏が「シュトラウスは難解である。何度読んでも、歯が立たない印象がある。」と述べたことがある。* しかし、少なくとも円熟期の著作にあっては、シュトラウスの言葉は実に平易である。生活世界への還元を試み、繊細の精神を重視した人間としては、難解な哲学的・心理学的用語で論理をこねくり回すことは、かえって本末転倒と言わねばならないだろう。しかし、それでも注意深く読むことなしには、書かれた意味の理解ですら覚束なくなる。その原因を一つ挙げれば、彼の講演や論文が学術文献としては散文的すぎるということだろうか。このエントリの冒頭では、一応、全体の構造を整理しておいたが、いざ読み始めてみると、本来気をつけて読むべき箇所も、目立った抑揚なしにサラッと流されてしまっている。これでは、誤読するなという方が無理な注文である。われわれは冒頭付近で述べられた、政治哲学の「政治」が表わす「機能」の話を覚えているだろうか。哲学者の非哲学な社会に対する配慮は、実はエソテリシズムの根幹に関わるテーマでもある。それが、注意深く読まないことには、何のことなのかさっぱり理解できないままで終わってしまう。シュトラウスを読むには、玄人的な洗練された読み方はかえって邪魔になる。泥臭くても実直で素人的な読み方が要求されるのである。]

* 長尾龍一(1997)「レオ・シュトラウス伝覚え書き」『社会科学紀要』47, p.90.
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