2009年02月13日

リラ『シュラクサイの誘惑』

M・リラ(佐藤貴史ほか訳)(2005)『シュラクサイの誘惑: 現代思想にみる無謀な精神(2001)』日本経済評論社

読んだ直後に感じたのは、日本で今後しばらくは、シュトラウスの思想が真摯な見直しの対象となることはないだろう、ということだ。それよりも、リラが「シュトラウス主義者」というレッテルを自ら否定したことで、せいぜいが弟子たちの間の内紛といった下世話な関心を誘うだけかもしれない。ましてや、そのような関心すら抱くことのない日本人は、本書を保守主義者のくだらない小言程度に思えて、斜に構えるだけであろう。読んでみればわかることだが、シュトラウスの著作は素朴で飾り気のない、注釈書となれば退屈なものばかりである。それがいったいどうして「悪の教師」などと祭り上げられてしまうのだろうか。素面で物事を考えることができる人ならば必ず疑問とするところであろう。ひとつは、やはり依然として現代が近代的思惟のぬかるみに足をとられているからかもしれない。政治哲学をシュトラウスに倣って考えられるようには、われわれはそもそも教育されてはいない。彼は言葉の真の意味でのポストモダン思想家であった。彼は近代的思惟の足元に深く張り巡らされた根をごっそり抉り出すことで、政治と哲学の関係についての真摯な再考を促した稀有な思想家だったのである。そして、彼の思想はそのような再考を試みようとするあらゆる人びとに開かれている。

内容のポイントについては訳者解説で中金氏が十二分に明らかにしてくれているので、特に付け加えたいと思うことはない。ただ、あえて言えば、本書に挙げられた思想家たちがいかに神学的、神秘主義的動機を背景として持っていたか、もしくはその思想に神秘的な響きを帯びていたか、ということだろう(リラによれば、それはデリダとて例外ではない)。けれども、よくよく考えればそれほど驚くべきことでもないのかもしれない。超越を「物自体」に認めようが、「存在」に認めようが、そこに神秘的な要素が入り込むのを阻止するすべは無い。実際、同時代人ではシュトラウスこそが哲学と啓示の本質的緊張関係を看取し、その阻止するすべを心得ていたのである。戦後になっても哲学と政治の関係という問題に向き合うことができなかったハイデガーから「かろうじてただ神のようなものだけがわれわれを救うことができる」(p.37)などという言葉を聞いたとすれば、シュトラウスはその無責任さにただただ辟易するのみであろう。章末尾で引用されたヤスパースの言葉は悲痛そのものだ。
「わたしたちのあいだでかつて哲学的衝動とでも呼びうる何かが共有されていたという前提のうえに立って、お願いします。あなたの無類の才能にたいして責任をとってください!あなたの才能を魔術に奉仕させるかわりに、どうか理性に、つまり人間の品位ともろもろの可能生の現実に奉仕させてください!」(p.55)
シュミットとシュトラウスには「政治的なもの」の包括性について合意があった。ただ、シュミットが隠れた神学的動機から「政治を実際に動かす真の力」(p.75)を人間の敵意と実存的決断に求めたのに対して、シュトラウスが見据えたのは人間本性にある素朴な善悪の判断であり、その背後にあるnoetic heterogeneityであった。そのような二人が『政治的なものの概念』をめぐって邂逅し、結果的にシュトラウスの命を救うことになったのは奇妙な運命としか言いようがない。

近代における、「ひとつの十字架から降りてきたばかりで、すぐにでも別の十字架にのぼろうとしている人間」の病理については、ゲルショム・ショーレムがベンヤミンに向けて発した次の警句に如実に表わされている。
「きみのほんとうの思考法ときみが自分の思考法だと言い張るもののあいだには、ひとを唖然とさせるほどの疎遠さ、無縁さがある。すなわち、きみは自分の洞察を唯物論的方法の厳密な適用によって獲得しているのではなく、それとはまったく無関係に、(あるいは)この方法の両義的なところや混信現象をもてあそぶことで獲得しているのだ。…仲間の弁証法家たちによって化けの皮をはがされ、きみが典型的な反革命家でありブルジョアであることが露見したその瞬間、唯物論者の方法に近づこうとしているきみの弁証法が当の唯物論者の弁証法でないことは、一点の曇りなく爆発的な勢いであからさまになってしまうことだろう。…ぼくが恐れているのは、この過ちが高くつく代償がきみの肩にかかってくることだ。…もちろんきみは、宗教と政治の混同の最後の犠牲者ではないにしろ、おそらくはそのもっとも不可解な犠牲者ではあるのだから。」(p.113-114)
コジェーヴについても、同じような病理を見出すことはそう難しくはないだろう。
「中国の革命は」、とコジェーヴはあるインタヴュアーにドライな調子で語っている、「ナポレオン法典の中国への導入よりほかのなにものでもないのです」。(p.140)
多くの有能なフランスの知性が彼のヘーゲル講義に集い、魅了されていった。レーモン・アロン、エリック・ヴェイユ、モーリス・メルロ=ポンティ、アンドレ・ブルトン、ジョルジュ・バタイユ、レーモン・クノー、ジャック・ラカン…。そして、ロジェ・カイヨワは彼を「一世代全体の心をつかんだ絶対的に非凡な知性」(p.140-141)とまで呼んでいる。

フーコーに至っては、その生涯を概観するとき、果たして彼が(ポスト)構造主義者なのか、実存主義者なのかまでわからなくなってしまう。しかし、人が倫理と政治を語るときに、それを審美的に、実存的に、つまりニーチェのように語ることで、いかに魔性の魅力に惹き込まれてしまうかは、ほんとうに計り知れない。
かれの生とかれの著作がこのうえもなく明瞭に示しているのは、ただひとつのことなのだ。すなわちそれは、おのれの内なるデーモンと格闘しつつ、ニーチェのひそみに酔い痴れる本質的に私的なひとりの思想家が、自分ではいかなる現実的関心を寄せず、それゆえいかなる現実的責任もとらない政治敵領域にこのデーモンを投影するとき、何が起こるかということである。(p.180)
ただ、リラがフーコーの初期作品の印象として、「道徳的主体それ自体が存在しない、われわれが自分の主体的自由と考えているものは言語と権力の効果にほかならない」(p.177)という構造主義に特徴的なテーゼを指摘するとき、これがシュトラウスの語るレジームを裏返しに暗示してしまっているのはなんとも皮肉である。

最後はデリダだが…、それこそリラにぼろかす叩かれているので、公平さと慎重を期すためにとりあえずは判断を延期しておこう。ただ、目を惹いたのは以下の箇所である。
かれら[=フランス知識人]が構造主義と脱構築を放棄したのは、哲学的な動機づけがあってのことではなかった。少なくともはじめはそうであった。つまりそれは道徳的な反発真に鼓舞されたことなのである。だがこの反発心には、かたや純粋哲学および政治哲学と、かたやコミットしたアンガージュマンとの区別を再確立するという健全至極な効果があった。今日のフランスでは、厳密な道徳哲学、認識論、心の哲学、さらに認知科学にさえ新鮮な関心がある。政治哲学の伝統も、古代であれ近代であれ、実に久方ぶりで熱心に研究されており、独創的な理論的仕事もいくつかあるが、それらは政治家や国家をもはや軽視しない若手のフランス人政治思想家たちの手になるものである。これらが明日には一変する、ということももちろんありうる。だがフランス人が構造主義の川を二度わたるところを想像することだけは難しい。(p.212-213)
現代思想の教科書もいくつか読んだが、正直これは初耳だった。また、次の段落で、「アメリカ人がデリダと脱構築に一貫して魅了されつづけてきたことは、フランス哲学に占める彼の地位とはなんの関係もない。それはよくて周辺的なものだからである」とリラは言っている。だとすれば、いまだ彼の新訳が当たり前のように出版されるわが国の状況は一体どう説明されるのだろうか?こればかりはさっぱり見当がつかない。
アメリカのどの書店でもポストモダニズム部門をひとめぐりしてみると心が千々乱れる経験をするのは不思議ではない。非リベラルで反啓蒙的な考えの最たるものを手に押し込まれ、笑みをたえてこう確言される。これはその考え方をとことん論理的に追求した結論ですから、かならずや民主的な約束の地へと連れていってくれるでしょう、そこでは神の子どもたちがみんなで手をつなぎ国歌を歌うのです、と。…それをかくも多くのアメリカ人がジャック・デリダの暗澹として近寄りがたい作品中に見出したとみえるなら、アメリカ人の自己満足の強さと、誰のどのような思想でもよく考えることができるアメリカ人の恐るべき能力の証拠となる。フランス人がわれわれアメリカ人をいまだに「大きな子供(レ・グラン・ザンファン)」と呼ぶのもゆえなしとはしない。(p.215-216)
かなり自嘲的だが、日本ではまだ冷静に受け止められているということだろうか?ただ、本書で紹介された六人の中でも、デリダがもっとも僭主政治から縁遠い知識人であることも確かである。いやかえってそれゆえに、彼の政治思想の内奥に潜むハイデガー的矛盾に対して、リラの批判は一層手厳しくなるのかもしれない。

終章で、リラはおおむね師のプラトン解釈に従っている。例えば哲人王にまつわる議論などはその最たるものである。
『国家』でソクラテスが哲人王なる途方もない思想を導入するのは、知識人と僭主の関係を考え悦にいる対話者たちを震撼させ、自己満足から覚醒させるためである。…哲人王とは一種の「理想」である。つまり、近代的な意味でいう思考の正当なる対象にして実現を期すべきしろものではなく、ソクラテスのいう「夢」、哲学的生活と政治の要求との一致など夢にもありえないことを思い起こさせるのに役立つもののことである。(p.240)
シュラクサイの誘惑は思考するひとの性別を問わず強いが、…人間の心のなかで、真理へのあこがれと「都市と家の正しい秩序づけ」に一役買いたいという欲望のあいだには、なんらかの関連があるということである。だがこの衝動がまさしく一個の衝動―無謀な情熱ともなりうる本能―であることがわかっていたプラトンは、その潜在的な破壊力に用心を怠ることなく、健全な知性と政治の生活のためにそれを統御するべくこころがけた。プラトン的な意味での哲学者を多くの近代知識人たちから根本的に区別するものは、心が観念をあつかうやり方にかんするこの至高の自覚である、といいたくもなる。そして二〇世紀の親僭主政治について考え、そこから何かを学ぶさいにも、同じ自覚を身につけておくのが賢明というものだろう。(p.243)
本書は、巷に溢れかえる思想書にうっとりするまえにぜひとも熟読して欲しい一冊である。
posted by ta at 22:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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