2009年02月19日

「政治哲学とは何か?」をどう読むか?(2)

今回は、18ページの実証主義から。
In about the last decade of the 19th century, social science positivism reached its final form by realizing or decreeing that there is a fundamental difference between facts and values, and that only factual judgments are within the competence of science: scientific social science is incompetent to pronounce value judgments, and must avoid value judgment altogether. (WIPP, p.18)
これがシュトラウスによる実証主義批判の要旨である。[彼のヴェーバー批判をより詳しく見るには『自然権と歴史』の第二章に当たらねばならないが、確かにヴェーバー研究に従事している人びとにとっては、なんと乱暴な、ということになるのだろう。彼がいわゆる「鉄の檻」に近代合理主義の病理を看取していたのならば尚更である。]
I have never met any scientific social scientist who apart from being dedicated to truth and integrity was not also wholeheartedly devoted to democracy. When he says that democracy is a value which is not evidently superior to the opposite value, he does not mean that he is impressed by the alternatives which in themselves are equally attractive. His “ethical neutrality” is so far from being nihilism or a road to nihilism that it is not more than an alibi for thoughtlessness and vulgarity... Social science positivism fosters not so much nihilism as conformism and philistinism. (p.20)
彼一流の皮肉である。以下、実証主義批判に関わって四つの点が述べられる。
The greatest representative of social science positivism, Max Weber, has postulated the insolubility of all value conflicts, because his soul craved a universe in which failure, that bustard of forceful sinning accompanied by still more forceful faith, instead of felicity and serenity, was to be the mark of human nobility. (p.23)
本論文で、唯一(だと思うが…)ヴェーバーが名指しされる箇所である。後半部分に見られるように、その批判はかなり辛らつである。
(3) The belief that scientific knowledge, i.e., the kind of knowledge possessed or aspired to by modern science, is the highest form of human knowledge, implies a depreciation of pre-scientific knowledge. (同)
シュトラウスのフッサール的、パスカル的側面が最も顕著に見られる箇所である。
Scientific concern with political facts, relations of political facts, recurrent relations of political facts, or laws of political behavior, requires isolation of the phenomena which it is studying. But if this isolation is not to lead to irrelevant or misleading results, one must see the phenomena in question within the whole to which they belong, and one must clarify that whole, i.e., the whole political or politico-social order. (p.24)
ここでも、「分節化された全体」というシュトラウスの一貫した認識論が反映されている。実際、69年には当のイーストン自身がポスト行動主義的政治学を宣言せざるをえなかったことからも、彼の批判もさほど特異なものとみなすことはできないであろう。
(4) Positivism necessarily transforms itself into historicism. (p.25)
前半部で最も目を引くのが、この実証主義から歴史主義への変容であろう。シュトラウスのロジックはこうである。まず、実証研究において西洋中心主義に陥らないために、社会科学者は異文化研究にも取り組まざるをえなくなる。しかし、それだけでは不十分で、シュトラウスによれば、方法論的にも例の歴史的理解を実践しなければならないという。
...social science must attempt to understand those cultures as they understand or understood themselves... Historical understanding becomes the basis of a truly empirical science of society. (同)
ただ、今回はこの歴史的理解が裏目に出てしまう。
But if one considers the infinity of the task of historical understanding, one begins to wonder whether historical understanding does not take the place of the scientific study of society. (同)
[シュトラウスの文章ではこの手の反語表現をよく目にするのだが、どうも苦手だ…。ただ、石崎氏の訳では、「歴史的理解が社会の科学的理解にとって代わることなどないのではないかと怪しく思い始める」となっているが、反語である以上これは逆だろう。社会科学者はその途方もない課題の大きさから、社会の科学的理解が歴史的理解にとって代わられてしまうのではないかと思い始めるのである。]
If one does not relapse into the decayed Platonism which is underlying the notion of timeless values, one must conceive of the values embodied in a given social science as dependent on the society to which the social science in question belongs, i.e., on history... Reflection on social science as a historical phenomenon leads to the relativization of social science and ultimately of modern science generally. (p.26)
さらには、科学的、客観的な結論と思われたものが、実は最初の主観的な問いかけ、課題設定に依拠していることが判明すると、社会科学そのものの歴史性、相対性の認識に導かれることになる。ここに、政治哲学は歴史主義という恐るべき敵に直面する。[歴史主義の文脈では、ハイデガーの名前が暗示され、ニーチェが論文末尾で論じられる以外は一切個人名が登場しない。このことは、『自然権と歴史』でも同じことである。これは、アメリカの学的伝統に対する配慮なのだろうか。]

シュトラウスは歴史主義の四つの特徴を挙げる。@事実と価値の区別の破棄、A唯一真正な思考様式としての近代科学の否定、B歴史過程の進歩的・合理的性格の否定、C進化論的テーゼの否定、である。
Historicism rejects the question of the good society, of the good society, because of the essentially historical character of society and of human thought: there is no essential necessity for raising the question of the good society; this question is not in principle coeval with man; its very possibility is the outcome of a mysterious dispensation of fate. (同)
ここで、下線部の「端的に善き社会」ということの意味を具体的に想像してしまっては理解を誤る。何もプラトン的理想国家の話をしているわけではない。あくまでもシュトラウスが投げかけるのは、当時の認識論的主潮に対する批判である。すなわち、善き社会についての問いすら発する必要はないと断定するような立場に対して向けられているのである。この歴史主義者の姿勢は、問いの根底にある人間性の永久的属性の軽蔑に起因している。
He looks down on the permanencies in question because of their objective, common, superficial and rudimentary character: to become relevant, they would have to be completed, and their completion is no longer common but historical. (p.26-27)
石崎氏は、“rudimentary”を「原基的」と訳しているが、これではニュアンスが伝わりにくいだろう。先の実証主義批判にもあったように、シュトラウスが非難するのは善悪の初歩的な区別までをも抹殺してしまうような認識論的態度である。[もちろん、善悪の「なぜ」を論理的に説明しようとする試みをシュトラウスが否定しているわけではない。むしろ、その善悪の「なぜ」が運命と決断によって根本的に無意味な問いと受け止められてしまうことを彼は恐れるのである。その意味では、本引用箇所の後半部分も誤解せぬよう気をつけなければならない。シュトラウスは歴史主義者に対して、善悪の基準が超歴史的に完成されうると主張しているわけではない。そのように捉えてしまっては、本稿での哲学の定義と矛盾する。哲学はせいぜいが「探求」である。政治家にとっても共通善は議論の対象以上のものではない。もとより、唯一普遍の基準など人間の手に届きうるはずがないのである。ソクラテスが智を神のみに委ねたように、われわれには愛智しか許されていない。しかし、だからといって、われわれは共通善の探求をあきらめ、重大な問題について歴史と決断に身をゆだねることがあってはならないのである。不毛に思えても、倦むことなく探求と議論を続けなければならない。シュトラウスが説くのはそういうことである。]
The biggest event of 1933 would rather seem to have proved, if such proof was necessary, that man cannot abandon the question of the good society, and that he cannot free himself from the responsibility for answering it by deferring to History or to any other power different from his own reason. (p.27)
先に述べたシュトラウスの意図を理解すれば、この箇所もすんなりと飲み込めるのではなかろうか。なによりも下線部に注目してほしい。「もしそのような証拠が必要であるならば」と、仮定法で書かれている。ここにシュトラウスの強い思いを読み取るべきであろう。われわれは善き社会への問いを決して放棄することはできない。そして、自らの理性によってその問いに答える責任からも逃れることはできない。だが、本来このような事実は、ナチズムの体験を経ずとも、われわれの人間としての基本的な属性、つまりは常識によって知解されうるものなのである。実証主義と(急進的)歴史主義はそのような常識の前提となる生活世界とわれわれの関係をゆがめてしまった。だからこそ、批判されねばならなかったのである。[もう一度念を押しておけば、シュトラウスは皆が皆、誠実に善き社会に向かって努力するのが自然である、などと馬鹿げたことを主張しているのではない。悪がこの世に存在することは、小学生でも知っていることである。無論、何が悪であるかは一律普遍に決まることではない。それは、ノモイによって千差万別であろう。だが、悪を悪として善と区別するためには、言い方を変えれば、「善とはなにか」、「悪とはなにか」という問いを投げかけるためには、われわれはその認識の内に一定の分節化を必要とする。そして、この分節化を全く放棄しようとすることは、単純に思考停止を意味するのである。現代のわれわれにとっては、あまりに実感の湧かない話に思えるが、シュトラウスにとっては、まさしく1933年にそれが起こったのである。大多数のドイツ人が思考停止状態に陥ってしまった。そして、それを思想的に支えたのが、なによりもニーチェとハイデガーであった。]
posted by ta at 20:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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