2009年05月31日

小牧『カント』

小牧治(1967)『カント(Century Books 人と思想15)』清水書院

今さらだけれども。

『純粋理性批判』
かわいそうなカント! この最後の著作のためにカントがささげた努力は、かれの残されたエネルギーを、いっそうすみやかに消耗させないではおかなかった。ああ、天は、いましばらくの力を、カントにかすことができないのだろうか。カントのために、また人類の思想のために。(p.103)
これほど熱烈な思い入れが可能なのも、小牧が戦中を生き抜いた人間だからだろう。
posted by ta at 20:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月30日

永井『これがニーチェだ』/三島『ニーチェ』

永井均(1998)『これがニーチェだ』講談社現代新書

掛け値なしに刺激的なニーチェ論。例のごとく、以下のような図にしてみた。(この時点で、哲学することを放棄しているようなものだけれど…) 第二、第三空間が点線なのは、「語りえないもの」だから。

永井均のニーチェ観
超人は、外的な理想を持たないということの外的な理想…[であり、]永遠回帰に耐えることができる強者であり、第二空間と第三空間のはざまに生息する、第三空間的理想の第二空間的形象である。(p.194)
…彼が「生に敵対する」と言うとき「社会に適合する」と読み、彼が「生を促進する」と言うとき「反社会的」と読むことさえできる。そう思ってみれば、…繊細なニーチェ的道徳も、人間が社会性によって傷つかないことを目指していることがわかるだろう。(p.49)
「『それはあってはならぬことである』『それはあってはならぬことであった』といった言い草は、ひとつの喜劇である…何であれ何らかの意味で有害で破壊的なものは取り除こうなどと思うならば、結局は生の源泉を滅ぼしてしまうことになるだろう」/これは究極の真理だと私は思うが、世界の中で人々に向かって語ることが社会的に意味のあるような主張ではない。(p.174)
ニーチェは、弟子たちはイエスを誤解した、と書いた。そしてイエスについて、彼は無罪だった、と。だが、そうなのだろうか。次に来る者は、弟子たちはニーチェを誤解した、と書かねばならない。そしてニーチェについて、彼だけは無罪だった、と。/この連鎖はおそらく、この運動全体に、はじめから有罪性が込められていることを物語っている。(p.164)
「あとがき」には信大時代の同僚として先に紹介した平木に謝辞が送られている。食い違う点も多かったことだろう。

三島憲一(1987)『ニーチェ』岩波新書

スタンダードな入門書。永井のニーチェ論と比較するとやはり弁明的に見えてしまう(特に第9章)。それゆえニーチェの矛盾に関する指摘も幾分鳴りをひそめる格好となっている(唯一と思しきものは177頁の「超人」についての一節)。ただ、永井が示す微細かつ厳密な哲学的思考(それ自体、極めて魅力的であるが)は、ニーチェの一見したところの高貴な粗暴さと無垢な遊び心にはそぐわないように思える。ニーチェはやはり感性の人である(哲学的直観の鋭さとは異なる意味で)。しばしばその源流に位置付けられながらも、哲学的脱構築という方法が不釣合いに見えてしまうのも彼ならではであろう。

[『反時代的考察』について]
ディルタイは誇らし気に〈歴史的啓蒙〉という言い方をするが、このように〈啓蒙された歴史主義〉とでもいうものは、主体である理性の光に照らされた現代の立場から、あたかも現代が〈歴史の頂点〉であるかのように、あらゆる歴史上の事柄を客体化し、解釈することである。いかなる歴史的対象もそれなりに尊重し、現代にとっての意義を顧慮することなくすべてを蒐集し、編纂し、それの置かれた固有の歴史的限定のなかに位置付け、いっさいの〈先入見〉を排除して、その時代のなかから解釈することがその任務となる。/この再生的営みによって現代人は過去の遺産を楽しむことができるわけであるが、これはしょせんは自分を楽しんでいるだけなのではないか、現代の尊大な自己満足、根拠もなく理性とその学問が幅をきかせている事態ではないのか、というのがニーチェのぶつけた疑問であった。(p.94)
彼ら市民階級は19世紀を19世紀たらしめている科学の〈力〉と経済の勢いによってのしあがってきたのだが、そうした〈力〉はしょせんは抽象的でアイデンティティの基盤にはならない。それゆえ、この〈抽象性〉になんらかの実体を与えようとして、まさにその科学と経済によって葬り去られようとしていたドイツ的な〈教養〉の伝統に、成功者の感覚で、…手を伸ばした。経済万能と伝統文化との素朴な一体感が横行する現代日本の状況とどこか似ていなくもないが、こうしたメッキ文化は、勤勉な労働によって全面的に覆いつくされた生活のなかで、その片隅に残された余韻としての文化でしかなく、生の分裂を乗り越える力を持っているわけがない。せいぜいがその分裂にある種の共同幻想の皮膜を張るだけであった。(強調は原文通り、p.102)
[〈永劫回帰〉と徹頭徹尾の認識について]
…こうした超人、支配種族の世界は、彼が克服しようとした近代的な現実のなかでは、つまり、アポロとディオニュソスが分裂している現実のなかでは、単なるパワーエリートでしかない。自己の欲望の満足をなりふりかまわず求める社会的強者でしかない。場合によれば、ナチスにつながるものもないとはいえない。この点ではニーチェ自身が自分を誤解したふしがある。というのも、こうした〈力への意志〉は、彼はあれほど再来を望んだソクラテス以前のギリシアの世界、生きることと美であることの一致した芸術的世界とはどう見ても無縁な、きわめて非ギリシア的なものだからである。一切の存在が認識のまなざしのなかで美に転化するというモチーフはかき消えて、残るのは、自然のなかの赤裸々な力の争いが社会の中でも起きているとする主張である。啓蒙の鬼子である道具的理性との癒着はここにはある。(p.177)
だが、この認識と肯定の決断をツァラトゥストラ=ニーチェのうちに産み出すものはまた〈力への意志〉をおいて他にはない。いかなる認識もまさにこの〈力への意志〉の所産だからである。いわば、〈力への意志〉が最高の自己集中によって自己の本来のありよう、つまり美的肯定の手段であることを認識し、支配と抑圧と操作のみをめざしていた自己のあり方を克服するのである。さきに〈力への意志〉が自己目的と化することを防ぐものとしての〈永劫回帰〉と言ったのはその意味である。/支配のための認識ではなく、徹頭徹尾認識と化することによって得られる認識こそが、そしてそのときの幸福こそが〈永劫回帰〉の体現であり、それによる祝福なのである。(強調は引用者、p.184)
表層(生成・仮象)としての認識(背後世界の否定)とその思想的帰着としての〈永劫回帰〉も〈力への意志〉の所産であるかぎり、ルサンチマンに起因するひとつのパースペクティヴでないとは言い切れない。この矛盾を避けるためには意志そのものが否定される必要がある、というのが永井の所論であった。したがって、肯定への決断は決して語られうるものではなく(加えてしばしば煽動的な言葉で)、ただ示されるものでなければならない。さらに、いかなる仮面の下にあっても〈力への意志〉を超越論的に「語る」ことは、それが歪んだ権力・革命思想に帰着する可能性を排除しえない。このことは更に彼の称揚する超人と単なるパワーエリートとの境目を曖昧にしてしまう(むしろ両者は従来的価値観へのあからさまな蔑視および「貴族的急進主義」(p.197-198)という点で一致する)。以上の三島の言明からは、そのような〈力の意志〉自体を超克するという視点は見出せない。それゆえ、彼の紹介するニーチェの「歪んでいない」理解(美と認識の一致)も一定の危うさを孕んでいるように思える(pp.214-217)。
posted by ta at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

平木「ニーチェにおける誠実性の問題」/山本「ニーチェにおける〈芸術家の誠実さ〉について」

平木幸二郎(2004)「ニーチェにおける誠実性の問題―ニヒリズムの問題をめぐって」『人文科学論集 人間情報学科編』38, 1-26.

以下メモ。

* 「正直な(ehrlich)嘘」=(自己に対する誠実+)他者に対する嘘=高貴な嘘(マキアヴェッリやイエズス会)
* 「不正直な(unehrlich)嘘」=自己に対する嘘+他者に対する誠実=ルサンチマン(虚構としてのキリスト教的な利他主義的道徳)

[シェーラー: 「事実の偽造」から「価値の偽造」へ]
@ 事実の偽装: 「自分の都合のよいように現実を歪めてとらえること」(p.6)
A 価値の偽装: ルサンチマン=「欲求と無能力との間の緊張を、「その欲求が目指しているものは実は価値のないものだ」ということによって弛緩させ、苦しみから逃れようとする心のあり方」(p.9)
ニーチェにとっての道徳・道徳的価値=「転倒された価値」=善人の「本能となった自己欺瞞」≠誠実さへの途上にある自己欺瞞
ニーチェが意味する誠実さ=「知的正直さ(intellektuelle Rechtschaffenheit)」・「知的良心(intellektuelles Gewissen)」⇔「他者への誠実さ」・道徳的「誠実さ」
「われわれに残された、ただ一つのわれわれの徳」(『善悪の彼岸』227)

* キリスト教的誠実性という出自⇒〈あらゆる真理への意志(「私は欺かれたくない」とする意志)は何を意味するか〉という自問⇒極限的ニヒリズム(p.14)

「真理」=「認識の事物への一致」という一般的意味=表象の確実性⇒デカルトのコギトと神の誠実さからカントの「物自体」と「擬人観」へ⇒物自体の否定⇒「真理は殺す。---その上、真理自身を殺す(真理がおのれの基盤が誤謬にあることを認識するかぎり)。」(原文引用、p.17)⇒ニヒリズムの極限=デカルトの懐疑自身を、懐疑にかける⇒「力への意志」、「認識[表象化]する我」に死んで「意志する自己」として生き返る⇒ニヒリズムの克服(p.18)

(擬人化する)認識=「生成する世界」(=「混沌たる感覚の没形式的な定式化不可能な世界」)を「存在するもの」からなる世界へと作り変えていくもの⇒存在の「遠近法的真理」(p.19)
「真理とは、それなくしてはある種の生命体が生きることのできないような種類の誤謬である。生にとっての価値が、究極的に決定する」(原文引用、p.20)

* 二重の真理概念=「存在するもの」・「恒常的なもの」としての「真理」⇔「生成するもの」・「生成」としての〈真理〉
「存在しているのはただ一つの世界であって、しかもこの世界は、虚偽で、残酷で、矛盾にみち、誘惑的で、意味をもたないのである。このような性質の世界が、真なる世界である。この実在、この〈真理〉に対して勝利をおさめるためには、すなわち生きるためには、われわれは嘘を必要とする」(引用、p.20)

⇒理性による生成の固定化としての「嘘」=「真理」⇔「事実というものは存在しない、あるのは解釈だけだ」(引用、p.21)⇒感覚、感官への信頼・感官の証言という事実のあるがままの解釈=〈真理〉

* 二重の嘘概念=自己保存を可能にする(理性的認識による)嘘と自己超越を可能にする(生成的芸術による)嘘

(認識論上の)嘘の三段階=@感覚の証言をもちいて「存在するもの」を作り上げる嘘=科学的真理など(⇒自己保存のために必要不可欠な嘘)、A@の「真理」を歪める事実の偽造(⇒弱い生を一時的に守るためのやむをえざる嘘)、B価値の偽造=キリスト教的世界観など(⇒生を傷つける嘘)

芸術が生み出す嘘=「生命感情の高揚と生命感情の刺激剤」としての嘘⇒われわれを生成へと差し向け、生成のうちに引き込む/芸術は「真理よりもいっそう〈神的〉な何ものか」(引用、p.23)

山本恵子(2006)「ニーチェにおける〈芸術家の誠実さ〉について」『美學』56(4), 27-40.

芸術家の誠実さについてもう少し。以下メモ。

Selbst=対象化されえない生の根本衝動・「身体(Leib)」>Ich=伝統的自我・「精神(Geist)」(pp.31-32)
「意識的生の全て」が「動物的根本諸機能の、とりわけ生の上昇の手段(栄養の・上昇の手段)」の完成に仕える

既存の諸価値の「否定」と「忘却」⇒創造行為としての「図式化」
徳の源泉としてのSelbst: 「命令的語り」としての「誠実さ=徳」の本質⇒力への意志

芸術家における誠実さの発生=「創られたもの」として自己を他者化し破壊し続け、「孤独」(⇔「市場」)へと回帰し続けること; 「固定化(Befestigen)」と「変転(Wechsel)」⇒独我論的??

「芸術家の条件。…陶酔(Reusch)、すなわち、高められた力の感情。それは諸事物を自分自身の充実(Fuelle)と完全性(Volkommenheit)の反射とする内的強要(die innere Noetigung)である」(引用、p.35)

ハイデガー: 「創造者の変種(Abart)」としての享受者(p.36)
芸術作品によって惹起される「陶酔」(≠解釈・批評)を通しての創造者と享受者の結合⇒Selbstの重層性: 個人の主体性の根源と人間一般に共通する無意識的根源(p.37)=他者に対する〈遠さ〉と〈近さ〉の共存(p.38)

「ニーチェにおいて既成道徳による他律性を否定して得られる個人の意義は、遠近法主義を多元的相対主義(すなわち自分の視点と他者の視点の差異がそれぞれの生の意義となること)においてではなく、生あるものすべてが共通して自己の内に保有するSelbstに従うことにおいて認められる。」(p.38)

ディオニソス的精神に基づいた一種の人類教のようなものをどうしても想起してしまう。だからこそ、ニーチェの発想は一方的に非西洋的パースペクティヴを提供するにとどまり、異文化(平たく言えば、イスラム)に受入れられることはかえって難しいのでは?
posted by ta at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月27日

意外や意外…でもないのか?

"California Supreme Court Upholds Same-Sex Marriage Ban"
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/05/26/AR2009052600363.html

保守系勢力もなかなかやるのね。そういえば、連邦最高裁判事に初のヒスパニック(系女性)が指名されたそうな。こちらはそれほど意外でもないけれど。

---------
Challengers to Proposition 8 contended that under the equal protection clause in the state's constitution, a majority of voters are not allowed to revoke equal rights intended for everybody.

Specifically, they argued, that kind of change is a "revision," not an "amendment." The distinction is important because revisions require two-thirds approval in the legislature and then a popular vote. Amendments can be approved by a popular vote only.

On Tuesday, the court held that Proposition 8 did not qualify as a revision. Among the reasons, the court noted that Proposition 8 does not -- with the limited exception of a "marriage designation" -- infringe on other aspects of a same-sex couple's constitutional right to establish an officially recognized and protected family relationship, or to equal protection of the laws.

The court also noted that there is no authority to support the claim that California voters cannot pass a measure that diminishes a state constitutional right, even if that right has been interpreted and applied in court. Previous amendments have done just that, the court noted.

ふーん…。
posted by ta at 10:04| Comment(0) | TrackBack(0) | たわごと一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月18日

Smith, Reading Leo Strauss. (2)

Smith, Reading Leo Strauss. (2)

Part Two: Athens
4. Leo Strauss’s Platonic Liberalism (pp.87-107)
5. Destruktion or Recovery?: On Strauss’s Critique of Heidegger (pp.108-130)
6. Tyranny Ancient and Modern (pp.131-155)
7. Strauss’s America (pp.156-183)
8. WWLSD; or, What Would Leo Strauss Do? (pp.184-201)

啓示の問題がエソテリシズムによってけりがつけられた後、議論は哲学の問題へと移行する。その目玉はなんと言っても、シュトラウスをソクラテス的な懐疑論者とする第四論文であろう。最初に問われるのは、反理想主義的な『国家』篇解釈だが、スミスによれば、「シュトラウスにとってメディア(伝達手段)がメッセージである」(p.90)。すなわち、彼は語られている内容以上に、語られている形式(対話)、その場面設定(対話の強制的性格)、登場人物の役割(ソクラテスがプラトンの唯一の代弁者ではない)などに関心を向ける。この解釈方法は一般普遍の原則の下で行われるのではなく、プラトンの各々の対話篇が存在の神秘的かつ複雑な多面性を説明する構成要素となっているという意味で「機会的(occasional)」とされる。シュトラウスが『国家』篇解釈によって呼び起こそうとするのは、キリスト教と近代の歴史意識によって覆い隠されてしまった臆見の世界(プラトンの洞窟)であり、哲学と都市(政治)の対立である。そこで読者は、両者の間を強引に架橋しようとする政治的理想主義の反自然性、つまり政治の限界を認識する。ただ、最も人びとを唖然とさせるのは根本問題としてのイデア論解釈であろう。スミスは、ソクラテスのディアレクティケーとともに、このようなイデア(もしくは存在)の非決定性からシュトラウスの懐疑主義的立場を引き出してくる。しかし、同時に何が永遠普遍の根本問題たるべきなのか(神学‐政治問題は間違いなくそのひとつであり、他には正義とは何かという問いが挙げられよう)、そしてハイデガーの存在理解を批判しつつ存在者たるわれわれが如何にして根本問題に接近しうるのか、という二つの問題点をも指摘する。[後者は上谷論文のテーマであった] プラトニック・リベラリズムとは一見形容矛盾のように思われるが、アリストテレスの混合政体と近代代議制の近似やソクラティック・メソッドの今日的用法[例えば、寺田俊郎(2001)「対話と真理―ソクラティック・ダイアローグの理論的前提」『待兼山論叢 哲学篇』35: 47-60.]など、近代以降の実践的生にとっても決して無縁な営みではない。

第五論文は、シュトラウスとハイデガーの思想的連関について。最初にフェリの議論が紹介されるが、先のエントリでも言及したように、彼の非難はシュトラウスの古代回帰がもたらす階級的コスモロジーの反リベラル、反民主主義的性格に向けられている。ただ、フェリの指摘にも関わらず、問題なのはシュトラウスがそのようなコスモロジーの影響を過小評価し過ぎているということにある。[したがって、適切な議論のあり方は、古典古代のコスモロジーを無批判的にシュトラウスの思想に帰すことではなく、そのような過小評価が果たして正当なものなのかどうかでなければならない。彼が自らの試みをあくまで暫定的かつ実験的と捉えた理由もここにある。例えば、『自然権と歴史』の序文において以下のように述べられている。
Now in this respect, which from Aristotle’s own point of view was the decisive one, the issue to have been decided in favor of the nonteleological conception of the universe... This means that people were forced to accept a fundamental, typically modern, dualism of a nonteleological natural science and a theological science of man. This is the position which the modern followers of Thomas Aquinas, among others, are forced to take, a position which presupposes a break with the comprehensive view of Aristotle as well as that of Thomas Aquinas himself. (NRH, p.8)
つまり、シュトラウスは自然的正の史的考察を始めるにあたって、機械論的(事実的)世界観と目的論的(価値的)人間観がいかにして両立しうるのかという難題を明確に見据えている] フェリの解釈において、もうひとつ問題となるのは、シュトラウスがハイデガーの形而上学批判をそのまま政治哲学に流用したという批判である。スミスからすれば、これも議論の本質を捉えそこなっている。なぜなら、シュトラウスはハイデガーが政治的生の固有性を度外視し、存在のゲームへと還元してしまったことを批判しているからである。人権概念の欠如という批判についても、シュトラウスの狙いがリベラル・デモクラシーそのものの否定ではなく、ワイマールの経験において示されたその深刻な危機(近代啓蒙への信頼の喪失)の指摘にあったことをまず理解しなければならない。その点では、というよりもその点でのみ、シュトラウスのハイデガー(ニーチェ)との共通点(ニヒリズムに対する危機意識とその克服)を見出すことができる。[もちろん、シュトラウスの古代回帰もそもそもがハイデガーに触発されたことを指摘しておかなければならない。ハイデガーが近代形而上学の伝統を破壊(Destruktion)し尽くしたことは、シュトラウスがその思惟にとって必要不可欠な出発点を回復(Recovery)するのに大いなる役割を果たした]

同論文では、先のエントリでも触れた啓示(政治)と哲学の対立について再度言及されている。啓示が第一義的に法的・政治的意味を持つのは、シュトラウスが啓示を政治的に絶対化し、回復せんがためではない。それは自然法(rightではなくlaw)とても同じことである。そもそも「預言者(啓示)[=立法者(政治)]=哲人王(自然法)」という発想は、彼の意図するところと完全に矛盾する。啓示と自然法の調和はキリスト教的(トマス的)伝統の産物であって、シュトラウスが回復しようとしている古典古代のあり方ではないからである。宗教の政治的起源とは、啓示が(少なくとも西洋では)法の典型的な基礎付けとして利用されてきたことを指す。近現代におけるその代表例は間違いなく合衆国憲法であろう。(無論、それはピューリタンの伝統に根付いたものだが) 身近な例で言えば、戦後日本が天皇制を維持することになった政治的理由を考えてみるとよい。シュトラウスが神学‐政治問題において説明するのはこれら全ての現象である。(ちなみに、J・グットマンはこのような律法の政治的解釈を断固として拒否した。『ユダヤ哲学』(合田正人訳、みすず書房、2000年)の428-429頁を参照。伝統主義者からすればシュトラウスは明らかに背信者である) 啓蒙以降の思想家が偽の神話を糾弾するのも結局は同様の対立に基づく。(靖国問題がなぜあれだけ騒がれなければならないかを考えてみるとよい) 政治(宗教)と哲学の対立は、近現代のライツ・トークにそのほとんどが覆い隠されてしまっているものの、その残滓は未だ十二分に窺うことができる。(このテーマは第七論文の冒頭付近で再び取り上げられる) シュトラウスの暫定的な処方箋は、啓示と哲学、世界の彼岸と此岸の間で中庸(臆見と真理の混じりあった生活世界たる自然の洞窟)を取り戻すことである。肝心なのは哲学者の身の処し方、「無知の知」という人知の限界を弁えた古典古代の哲学者の姿勢にある。そして、シュトラウスにとっての思想史研究と緻密なテクストの読解は、そのような姿勢を現代に甦らせる役割を果たす。

第六論文は、OTでのシュトラウスとコジェーヴの論争について。「哲学的政治」に一節が割かれ、またソクラテス的な懐疑論にも再び言及されている。そもそも、この論争において、哲学者が来るべき「普遍的で均質的な国家」のために権力者に阿ることを臆面も無く主張したのは、シュトラウスではなくコジェーヴの方であった。(ヘーゲル主義者である以上、むしろ当然と言うべきだろうが) その彼がフランスの戦後思想に多大な影響を与えたというのは、なんとも皮肉な話である。
By contrast Strauss regards the aim of philosophy as securing a certain “detachment” from the world... [The] alienation of the philosopher from the city is not a “tragedy” to be overcome, but the necessary condition for the existence of philosophy. “The conflict between philosophy and city,” Strauss writes in a deliberately provocative sentence, “is as little tragic as the death of Socrates.” (p.149)
第七論文では、表題どおりアメリカに対する姿勢について論じられる。スミスによれば、シュトラウスは『自然権と歴史』にエソテリックな技法を施すことで、注意深い読者の目をアメリカ建国精神の現実へと向けさせる。それは、ロックがプロパティ論を説いて近代リベラリズム(と資本主義)の基礎と為しえたのも、彼の先駆者たるホッブズ、さらにはマキアヴェッリが中世の自然法的伝統と断絶してくれていたおかげであって、その意味で、建国精神の真の代弁者はこの二人に他ならないという事実である。彼らから引き継いだラディカルな近代性のプロジェクトは公教的教義(リチャード・フッカーの引用)というオブラートに包まれ、「独立宣言」にあるような無垢で、半ば神秘的な文言へと昇華されていく。したがって、『自然権と歴史』に課された役目とはアメリカの読者に危機意識を喚起し、建国の理想への期待を少しでも取り戻させることにある、というのが通り一遍の理解であろう。しかし、スミスはこの理解に疑問を付す。むしろ、シュトラウス自身が典型的歴史という誤謬を犯すことで明らかにするのは、建国の理想が近代性の内側に止まり続けるかぎり幻想でしかなく、理想の確信は問題の解決ではなく問題そのものであるという事態である。ならば、彼が提示する治療法とは何であろうか。この問いに答えるのが最終論文である。ほとんど、これまでに論じられたテーマの繰り返しになるだろうが、一つは古典的なレジーム論によって示された確固たる立憲主義的枠組み(特に古典的な混合政体に近似する代議制)である。(スミスはこの点でシュトラウスを「術語が生み出される以前の制度論者(an institutionalist before the term was invented)」と呼んでいる) ただし、レジームは政治的制度のみならず、一国民の生活様式をも含意する。ここに数々の神話が一定の役割を果たす所以がある。ちなみに、このレジーム観はシュトラウスが抱く政治の優越性の観念(この点でシュミットやアレントに通じる)に結びついている。別言すれば、現代の多くの規範理論がそうであるように、実践的生を多少なりとも理論的生に従属させるのではなく、前者はそれ自体で固有の地位を有している。(そこに古典的なコスモロジーの役割を過小評価したシュトラウスの目論見、理論的生と実践的生の相互的独立、が存する) したがって、政治家の最上のテキストは、哲学書ではなく歴史書(戦史や自伝・評伝など)である。また、スミスによれば、制度論者としてのシュトラウスは国民の(国政への)直接参加や熟議などには否定的な態度を示す。(参加民主主義や討議デモクラシー) それは価値相対主義の今日的表現である(排他的な)多文化主義ついても同じである。あと、ジェントルマンの統治について、シュトラウスから唯一名指しで賞賛を受けた政治家がウィンストン・チャーチルであったことを指摘しておけば十分であろう。
posted by ta at 22:33| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月09日

Academic Earth

スミスのCVを探していると、こんな凄いサイトを発見。

http://academicearth.org/

YouTubeでも似たような事をやりはじめたそうな。
ttp://www.ideaxidea.com/archives/2009/02/academic_earth.html
ttp://www.ideaxidea.com/archives/2009/03/youtube_edu.html
posted by ta at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月08日

Smith, Reading Leo Strauss. (1)

Smith, Steven B. Reading Leo Strauss: Politics, Philosophy, Judaism. Chicago: U of Chicago P, 2006. (1)

Introduction: Why Strauss, Why Now? (pp.1-19)
Part One: Jerusalem
1. How Jewish Was Leo Strauss? (pp.23-42)
2. Gershom Scholem and Leo Strauss: Notes toward a German-Jewish Dialogue (pp.43-64)
3. Strauss’s Spinoza (pp.65-83)

第一から第五論文までが既刊論文、残りは書き下ろし。著者の意図は序文で明確に述べられている。
It was in part to register my own discontent with the mountain of nonsense written on this subject that I first conceived of this book. (ix)
謝辞には、マコーミック、タルコフ、リラの名が見られる。著者は1951年生まれ。PhDはシカゴ。現在はイェールで教鞭を執っている。過去にはヘーゲルについて、最近ではスピノザの『エチカ』について論じた著作がある。
http://www.yale.edu/polisci/people/ssmith.html

序章では、著者のシュトラウスに対する基本的姿勢が披露される。スミスは地理的区分で言う「東海岸シュトラウシアン」を自認しており、アリストテレス政治学よりもいわゆる「哲学的政治」をシュトラウスの思想的核心として捉える。

第一部は全体として、シュトラウスのユダヤ性を他のユダヤ思想家(マイモニデス、スピノザ、メンデルスゾーン、コーエン、ローゼンツヴァイク、ショーレム)との差異から浮き彫りにしていく。そこから見えてくるのは、哲学(ハスカラー、ユダヤ啓蒙主義)と啓示(ハシディズム、神秘主義)の対立こそが文明の原動力であるとし、正統主義への直截な回帰はもはや選択肢となりえないものの、自己の伝統に対する忠節や共感を忘れず、(コーエンの批判的観念論に倣って)メタ批判的立場を確保するという態度である。したがって、スミスはシュトラウスの考えるユダヤ性の核を「超自然的な啓示の真実性への確信」(p.42)と表現する。多文化主義的な向きがなきにしもあらずだが、シュトラウスによってそれ以上の厳密な理論化が行われているわけではない。(というよりかは、そのようなライツ・トークこそが啓蒙主義の産物である) ただ、彼がリベラリズムの可能性について、他の多くの同時代人と共に「ユダヤ人問題」を一つの試金石と捉えていたことは確かである。(イスラエル国のおかげで、現代ではほとんど死語になりつつあるが) スミスはエソテリシズムについて、シュトラウスが自らのテクストにおいても使用していると考えている。その根拠となっているのが、『手引き』に対する自身のエソテリックな注釈へのほのめかしである。(PAW, p.55-56) このような使用は、なによりもエソテリックな哲学的伝統の継承にその理由がある、とスミスは説く。(第一論文) 更に興味深かったのは、第二論文で描かれたショーレムの微妙な政治的スタンスであろうか。彼はシュトラウスと同じく近代理性主義に批判的で、19世紀に確立したユダヤ教学(Wissenschaft des Judentums)を嫌悪し、尚且つ自らをアナーキストと自認していたが、他方でアレントに抗して政治的シオニズムに共感を示し、修正主義を通じてメシアニズムが急進的政治運動と結びつくことには反対していた。(さらには、反律法主義が時代を経るにつれて宗教的ニヒリズムに堕してしまうというパラドクス) 第三論文で示される、哲学と啓示をめぐる基本的な図式はこうである。

theologico-political.jpg

したがって、シュトラウスにとって「ユダヤ人問題」こそが、神学(「ユダヤ人」)‐政治(「問題」)問題の端的な表現であったと言えよう。したがって、シュトラウスの『神学‐政治論』批判はこの軸に沿って行われる。観点は二つ。ユダヤ的観点からは、シュトラウスはスピノザを「マキアヴェッリの冷静な(hardheaded)弟子」(LAM, p.239、スミスは誤って引用している)とし、その汎神論にニーチェ的なひねり(すなわち、善悪の彼岸)を加味して批判する。そして、スピノザを政治的シオニズムの源流に位置付ける。(多くの人びとにとっては唖然とするような非難だろうが) 哲学的観点からは、スピノザの理性主義はそれ自体として自らを基礎付けることができない、というものである。これに対し、シュトラウスの立場は上図で示されている通りだが、スミスの解説はその対立において、哲学の側にどっぷり寄りかかるものである。(それが東海岸シュトラウシアンたるゆえんではあるが)
In fact Strauss’s peculiar conception of orthodoxy has nothing to do with the black hat Haredi community, but consist of a “Maimonidean” strategy that combines outward fidelity to the community of Israel with a private or “esoteric” commitment to philosophy and the life of free inquiry. To be sure, Strauss did not adopt this position in order to undermine Judaism, but to sustain it a form of political theology. This dual strategy allows one to maintain respect for, even love of, the tradition as prophylactic to the alternatives of atheism and assimilation, while denying orthodoxy any truth value. The doctrine of the double truth remains the only way of preserving the viability of Judaism in a post-Nietzschean world that demands intellectual probity at all cost. (p.82)
結局シュトラウスにとっての伝統主義(ユダヤ教特有の教義その他)とは誇大妄想(heroic delusion)であって、一種の高貴な嘘や市民宗教に過ぎない、というのがスミスの結論である。したがって、伝統主義の立場からすれば、シュトラウスこそが無神論者ということになろう。(間違いのないように言えば、人間理性の十全性を否定する無神論者である)

-----
PT(35.1)でスミスとドゥラリーのやりとりを発見。
posted by ta at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月06日

Hermann Cohen Gesellschaft

Hermann Cohen Gesellschaft
http://www.hermann-cohen-gesellschaft.org/

Critical idealism - North American Hermann Cohen Society
http://criticalidealism.blogspot.com/

知名度の割には欧米でもほとんど翻訳がない。
posted by ta at 10:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月05日

洋雑誌・研究者

Hebraic Political Studies
http://www.hpstudies.org/20/Issue.aspx

05年創刊の若い査読誌。日本で講読している研究機関はまだない。編集委員には知られた名前もちらほら。

-----
Nancy Levene
Associate Professor, Department of Religious Studies, IU
Ph.D., 2000, Harvard University
http://www.indiana.edu/~relstud/faculty/levene.shtml
* Spinoza's Revelation: Religion, Democracy, and Reason. Cambridge: Cambridge UP, 2004.
* "Ethics and Interpretation, or How to Study Spinoza's Tractatus Theologico-Politicus without Strauss." Journal of Jewish Thought and Philosophy. 10 (2000): 57-110.
* "Athens and Jerusalem: Myths and Mirrors in Strauss’s Vision of the West.” Hebraic Political Studies. 3.2 (2008): 113-155. http://www.hpstudies.org/20/article.aspx?articleid=87

Michael A. Rosenthal
Associate Professor, Department of Philosophy, UW
Ph.D., 1996, University of Chicago
http://www.phil.washington.edu/people_rosenthal.htm
http://faculty.washington.edu/rosentha/home.html
* "Spinoza's Dogmas of Universal Faith and the Problem of Religion." Philosophy and Theology. 13 (2001): 53-72.
* "Spinoza and the Crisis of Liberalism in Weimar Germany." Hebraic Political Studies. 3.1 (2008): 94-112. http://www.hpstudies.org/20/article.aspx?articleid=82

-----
Journal of Textual Reasoning
http://etext.lib.virginia.edu/journals/tr/

Society for Textual Reasoning (BU)
http://www.bu.edu/mzank/STR/general.html

もうひとつマイナーな雑誌を。ウェブ上で全文公開されている。
posted by ta at 23:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

Zuckert, Truth about Leo Strauss.(4)

Zuckert, Truth about Leo Strauss.(4)

Chapter Four: Man Who Gave Away the Secrets: On Esotericism (pp.115-154)

残りの二章は、数あるシュトラウス批判の中で猖獗を極めたテーマに関する応答である。(エソテリシズム、高貴な嘘、トラシュコマス主義[を含むエキセントリックな『国家』篇解釈]、マキアヴェリズム、シュミットの自由主義批判) 主として引き合いに出されるのはドゥラリーの本(Political Ideas of Leo Strauss, Leo Strauss and the American Right)であり、ザッカートが序章で述べたように、今日の通俗的なネタの大半が多かれ少なかれ彼女に帰すことができると言っても過言ではない。

ザッカートは、シュトラウスがその著述においてエソテリズムを用いたという主張を明確に否定する。それははあくまで古典的著作家の歴史的理解のための解釈学的手段であって、今日的用法ではないというのがその根拠だ。エソテリズムをエソテリックに伝承しようと思えば、堂々と暴露することは理に当たらない。このような立場はシュトラウス・シンパの間でも間違いなく少数派であろう。しかし、公言されている理由が何であれ、真理の探究をひた隠しにする哲学者像は人びとの猜疑心を掻き立てるに十分である。エソテリシズムの暴露は実際には、大衆操作のための高貴な嘘を覆い隠すためのおとりかもしれない。政策上の配慮と称して、真実を大衆の目から隠蔽することも正当化されているではないか。高貴な嘘と相俟って既存の社会秩序への配慮というエソテリシズムの効用の、これが通俗的な理解であろう。(ただ、ザッカートが挙げているエピソード[p.126]はシュトラウスをよりコミュニタリアンに近づける) シュトラウスは自らのエソテリシズムの使用について暗にほのめかすような表現を用いつつも、明言をすることはなかった。(ザッカートにしてみればその必要がなかったといえる) 残念ながら、その有無を判断するには、現状では状況証拠に頼るほかなく、読者の独断と偏見に依存しているように思える。

しかし、近代の「外」に通じる道をエソテリシズム(ファーラービーのプラトン)に見出したはずが、それをあえて暴露するとはいったいどういうことだろうか。ザッカートの説明によれば事情は以下のとおりである。シュトラウスが解釈する古典古代ではエソテリシズムは哲学と政治の間にあって絶縁体の役割を果たしていた(哲学と都市=宗教の対立)。近代啓蒙主義がこの絶縁体を腐食し尽くした結果、その反動として、ポスト啓蒙の時代に神が死に、哲学の不可能性が喧伝される。こういった精神状況にあって、古典古代において隠されてきた真理を明らかにすることこそが哲学と宗教を共に可能にする道であると、シュトラウスは考えたのである。その真理とは、哲学と宗教は本質的に異なり、哲学的探求は宗教(啓示)を決して反駁しえないということ、端的に言えば、哲学の限界である。限界の承認は不可能性の承認と等価ではない。それは価値相対主義という極論を排しつつ、同時に人間中心主義の迷妄を正すことを意図している。だが、現代のわれわれにとっては全体への探究が不可能であることは自明の事柄である。したがって、シュトラウスが古典古代のエソテリシズムの暴露によって明らかにしようとするのは、このような哲学の限界ではなく、プラトンのような古代の哲学者ですらその限界を認識していたというなによりも驚くべき事実なのである。であれば、通俗的なイデア論解釈や魂の不死性というプラトン的教説は公教的としてシュトラウスによって一蹴されてしまう。もちろん、彼のこのようなエキセントリックな解釈は大いに議論の余地があろう。ただ、それによって、近代の「外」、すなわち、哲学(と宗教)をポスト啓蒙の時代に可能しうる地平が発見される。

プラトンの高貴な嘘についても一言付しておく必要があろう。ザッカートの理解によれば、『国家』篇において言及される嘘とは、哲学の限界を知悉したプラトンにとって、完璧に自然に合致した社会生活というものが不可能であるがゆえに必要とされる嘘のことである。われわれの社会においては完璧な配分的正義が実現されているわけではない(各人の長所、自然的価値を寸分たがわず判断しうる存在、すなわち偶然を完璧に支配しうる存在をわれわれは神と呼ぶ)。ゆえに、あらゆる支配者(特に世襲的なそれ)はなんらかの神話、すなわちフィクションに寄りかかることなしには権力を維持することはできない。土着性の神話(myth of autochthony)についても同様である。プラトンが高貴な嘘によって指し示すのはまさしくこれらの事柄なのである。よくよく考えてみれば、嘘の実践を自らの著作において明らかにすることなど全く本末転倒であろう。プラトンの著作がなかば秘儀的にエリート知識人サークル内でのみ伝承されてきたという話は聞かない。当時の自由人ならばこの公刊された著作を読んで、その勧めに納得するよりも、身の回りの神的・自然的権威を疑い始めるというのが道理ではなかろうか。この論理に従えば、プラトンの『国家』篇は現代のわれわれから見れば理想国家建設の手引書であるが、当時の人びとからすれば暴露本に過ぎない。

本章の後半ではエソテリシズムの具体的な解釈がいくつか紹介されている。中でもスタンレー・ローゼンに多くの紙幅が割いているが、彼はシュトラウスがエソテリシズムを実践していると確信しており、その根拠を哲学の不可能性に求めている。それによれば、哲学と自然的正の復権というシュトラウスの主張は高貴な嘘でしかなく、その意味ではニーチェと地平を共有している。ただ、哲学的営為を「権力への意志」に還元してしまうことに対してはローゼンのシュトラウスは同意しない。したがって、シュトラウスは「隠れニーチェ主義者(a secret Nietzschean)」ではない。エソテリシズムの暴露については、ローゼンはそこにジレンマを見出している。シュトラウスには「政治的政治(political politics)」と「哲学的政治(philosophic politics)」という二つのプロジェクトが存在し、前者は現代のリベラリズムにジェントルマンの統治を対置するものであり(ちなみにローゼンはこれに対して批判的である)、後者は哲学の維持を目的とする。エソテリシズムは、この両方の政治に関わる。前者のアリストテレス的政治学を貫徹しようと考えれば、エソテリシズムは維持されなければならない(哲学的狂気に対する政治的節度)。しかし、シュトラウスは現実にエソテリシズムを暴露した。当然、それは哲学の維持に貢献するからであろう(哲学的政治)。先述したように、ローゼンによれば、シュトラウスの求める哲学の可能性自体が既に否定されていた。したがって、ローゼンの言うような哲学的政治はそもそも成立しえない。この論理の非一貫性はどこから来るのだろうか。ザッカートは彼の三つの誤ったシュトラウス解釈に着目する。まず、ローゼンは政治哲学を哲学的政治として、すなわち哲学が実践的生に接近する手段としてのみ位置付けている。その意味で、政治哲学は一種のプロパガンダに過ぎない。しかし、上谷の論文でも見たように、シュトラウスにとって政治哲学はディアレクティケーへの導入という重要な役割を果たしている。したがって、ローゼンの解釈は極めて皮相的である。第二に、ローゼンはシュトラウスの前哲学的世界、いわゆる生活世界への回帰を不可能であるとしている。ザッカートはこの点に関して、彼が出発点をゴールと取り違えていると批判する。すなわち、シュトラウスにとって前哲学的世界はあくまでディアレクティケーの起点にしか過ぎず、それはローゼンが想定するような哲学的脱構築によっては到達し得ない(半ばノスタルジックな)世界などではない。それは古代の哲学的伝統が発生する以前の臆見の世界である。したがって、根本問題というシュトラウス的イデアは事物の表面に、われわれの手が直接届きうる場所に内在するのではなく、われわれはそのために上昇せねばならない。だからこそ、最初は哲学ではなく、政治哲学なのである。第三に、これは上谷論文でも指摘されたことだが、哲学的探求はその不可能性を前提とした恣意的な決断によるものなのか、それとも可能性を前提とした哲学的エロスによるものなのか、という問題がある。ローゼンは前者に与し、ザッカートは後者の側に立ってこれを批判する。上谷も、哲学の可能性を暗黙の前提としつつ、後者に近い立場をとっていると考えて良いだろう。確かに、啓示というfactum brutumとシュトラウス哲学の到達点であるソクラテス的な無知の知(世界を完全には知解しえないという覚知)は哲学の確たる基礎付けを掘り崩してしまっている。しかし、それは彼が哲学を単なる意志もしくは信仰に(ニーチェとは違った意味で)還元しよう試みたからではなく、ポスト啓蒙の時代に哲学を可能にする方途を模索したからであるということを忘れてはならない。

Chapter Five: Leo Strauss - Teacher of Evil? (pp.155-194)

この章でも基調となるのはドゥラリーの批判である。まずは、On Tyranny(以下、OT)であるが、この書を独裁政治の勧めと捉える彼女のエソテリックな解釈に対し、ザッカートはテクストから読み取れる意図に沿って政治病理学として捉える。そこで主張される、シュトラウスの意図とは以下のようなものである。
The ultimate aim of Strauss’s book is to recapture the original understanding of the original and universal character of tyranny, so that we in our time can build on that base toward an understanding of the peculiarly modern and peculiarly dangerous forms of tyranny that we face. (p.159-160)
彼の念頭にはヒトラーのホロコースト、スターリンの強制収容所があることは言うまでもない。この点で、彼はハイデガーと関心を共有する。すなわち、技術とイデオロギーである。

次に槍玉に挙げられるのは、いわゆるトラシュマコス主義(正義=強者の利益)を寸分違わずにシュトラウスの立場とするドゥラリーの解釈である。これは、The City and Man(以下、CM)で登場するエキセントリックなプラトン解釈の一つと見なされるものだが、シュトラウスがトラシュマコスにより多くの関心を抱く理由、それはザッカートによれば、「いかなる登場人物もプラトンの唯一の代弁者ではありえない」(p.168)という解釈学的な確信である。プラトン的対話は臆見から知識へのディアレクティケーの中にある。したがって、個々の発言を常にその過程、つまりは話の筋から読み返すこと、シュトラウスの対話篇解釈はそのことを読者に要求する。では、トラシュマコスの貢献とは何か。ザッカートによれば、正義とは法への服従に存すること、そして、法に基づく支配も、法に基づかない支配(OTで論じられた僭主政治)と同様、恣意的統治(法=強者の利益)に陥る可能性を免れていない事実をソクラテスに突きつけたことにある。つまり、(プラトンの)ソクラテスは(プラトンの)トラシュマコスから難題(法の根拠となるはずの共通善の否定)を突きつけられたわけであり、それによって正義の問題の所在が明らかにされたのである。この時点で既に、ドゥラリーの解釈が(ザッカートからすれば)極めて皮相的なものであることが確認される。このようにトラシュマコスによって提起された正義の問題は、その直後グラウコンとアデイマントスによってより根源的な形で再提起されることになる。つまり、正義はそれ自体として望ましく快いものなのかどうか、という問いである。CMにおけるシュトラウスの結論は、哲学的探求こそ端的な人間的善であり、最も快い、というものであった。その意味で、哲学者こそが唯一の端的な正義の体現者かつ法の遵法者であり、富や権力、肉体的快楽を追い求めないがゆえに他者を決して害しない。しかしながら、ソクラテスは決してヨブではなかった。プラトンの描く彼の最期(もしくは死生観)を知る人間にとっては、彼が不幸であったとはとても言えまい。けれども、ここで知りたいのは哲学者における究極的な正と善の調和ではなく、まさしくわれわれ自身の問いである非哲学者にとっての正義、トラシュマコスの問いかけ(正義=強者の利益)に対する回答である。ザッカートによれば、シュトラウスは〈人間‐全体〉と〈市民‐社会〉という二重写しの関係において広義の道徳を捉え、それによって共通善を可能にする。すなわち、人間がその部分であるところの全体に対して開かれているのと同様に、ゾーン・ポリティコンたる市民がその部分であるところの社会に対して開かれているということだ。この場合、当然ながら社会は個人(トラシュマコス主義に対しては、いかなる強者)に先立って道徳的源泉として存在していなければならない。別言すれば、近代の契約論的社会観、その成れの果てである歴史主義的社会観は排除される。[このような全体と社会のアプリオリな措定は、形而上学的・民族主義的な全体主義の危うさを感じさせるかもしれないが、これまで幾度となく触れてきたように、シュトラウスにとっては、この二重写しが完璧な一枚絵となることはありえず、社会(実践的生)において正義は常になんらかの不自然さを伴わざるをえない。そこに政治の限界が存在するのであり、宗教的・形而上学的正統性を主張する支配者は常に猜疑の目にさらされるのである。]

次に問題とされるのはシュトラウスのマキアヴェッリズムである。この図式はまさしくドゥラリーの議論の根幹を為すものであるが、ザッカートによれば以下の三点に集約される。第一に、シュトラウスによるマキアヴェッリへの賛辞。第二に、マキアヴェッリのエソテリシズムの否定。第三に、反神学的的解釈の否定である。ザッカートはこれらの主張を逐一批判しながら、更には根本的な誤りをも指摘する。それは、ドゥラリーがシュトラウスの思想の中にマキアヴェッリズムと観照的生の可能性を同時に認めていることである。マキアヴェッリズムの前提条件が(ホッブズと同じく)古典的な理論的生の排除である以上、当然この主張は正当ではない。

本章の最後のテーマが、シュミットとの思想的連関についてである。ザッカートはシュミットの政治的なものについての周知の議論を以下の三点にまとめる。第一に、近代リベラリズムの失敗はワイマールにおいて明らかになった。第二に、その原因は政治的なものの否定に求めることができ、解決の道は強力な国家主権の回復にある。第三に、政治的なものの本質とは友敵関係であって、それは物理的闘争の可能性によって特徴付けられている。先のエントリでも見たように、まさしくシュミット批判によって近代の「外」への模索は緒に就いたのであるから、シュトラウスは第一の点に完全に同意している。次に、第二の点について。シュトラウスは政治的なものの復権という意味ではシュミットに同意するが、それはホッブズのように絶対的な国家主権の確立によってではなく、哲学的営み(観照的生)を可能にする(そして価値相対主義を排除しうる)アリストテレス的な混合政体を通じてである。最後の点について、ザッカートはシュトラウスの政治的なものを友敵関係によって規定することをきっぱりと否定する。これは、シュミットのリベラリズム批判が結局はリベラリズムの地平(価値相対主義という横軸)を脱しきれなかったのに対し、シュトラウスが公的精神や共通善への献身という縦軸(つまりは道徳的方向性)を導入したことによる。このような道徳性の根拠となるのは、アリストテレス的な人間理解(ゾーン・ポリティコン)である。われわれは実際に社会にあって、あらゆる行為が許されているわけではない。このような自由についての理解は偏狭さや不寛容性すら許容してしまうリベラルな寛容性に対する批判にもつながっている。[市民社会の自律性を前提とするリベラリズムが反ユダヤ主義に対する解決策となりえなかったという歴史的事実から、彼が制度よりも教育を重視したことが理解されうる。シュトラウスが非難されるとすれば、独自の規範的な理論構築を行わず、きわめて曖昧な形での大枠の議論に終始したことである。例えば、彼は自然な(この表現も極めて胡散臭く思われるだろうが)共同体のあり方を小規模な都市国家、いわゆる「閉じられた社会(a closed society)」に求めた。しかし、このことは必ずしもポパー的な批判的合理主義、「開かれた社会」と二者択一的関係にあることを意味しない。シュトラウスにとって「閉じられた社会」の対極は技術と俗物的イデオロギー(つまりはマルクス主義)によって支配された世界大の「末人」国家である。したがって、シュトラウスの視点からすれば、既存のいかなる主権国家も「閉じられた社会」に該当しうる。(もちろんポパーは共通善のような「全体主義的」概念を嫌悪するだろうが) ただ、ザッカートは、シュトラウスがコスモポリタニズムを端的に誤りと考えているわけではないとも考えており、それらは『自然権と歴史』(NRH, pp.148-149)や「ハイデガー実存主義への序説」(RCPR, p.43-46)等から察することができる。そして、シュトラウスの用いるレトリックも現代のアルキビアデス(トラシュマコス??)を安直な政治的冒険へと誘いうるものとして危険視されよう。ジェントルマンの統治や高貴な嘘など、露骨な卓越主義者(新アリストテレス主義者)や理想主義者が自らの物語をつむぎ出すには十分であるに違いない。]

最後にザッカート夫妻の経歴を。

Catherine Zuckert is Nancy Reeves Dreux Professor of Political Science at the University of Notre Dame. She also currently serves as Editor-in-Chief of The Review of Politics . B.A. Cornell University (1964); PhD University of Chicago (1970).
http://www.nd.edu/~czuckert/
http://politicalscience.nd.edu/faculty/profiles/catherine-zuckert/

Michael Zuckert (B.A., Cornell University; PhD, University of Chicago, 1974) is Nancy Reeves Dreux Professor, and Department Chair of Political Science at University of Notre Dame. Professor Zuckert teaches graduate and undergraduate courses in Political Philosophy and Theory, American Political Thought, American Constitutional Law, American Constitutional History, Constitutional Theory, and Philosophy of Law. His advising specialties are graduate programs in political science.
http://www.nd.edu/~mzuckert/
http://politicalscience.nd.edu/faculty/profiles/michael-zuckert/
posted by ta at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。