2009年05月08日

Smith, Reading Leo Strauss. (1)

Smith, Steven B. Reading Leo Strauss: Politics, Philosophy, Judaism. Chicago: U of Chicago P, 2006. (1)

Introduction: Why Strauss, Why Now? (pp.1-19)
Part One: Jerusalem
1. How Jewish Was Leo Strauss? (pp.23-42)
2. Gershom Scholem and Leo Strauss: Notes toward a German-Jewish Dialogue (pp.43-64)
3. Strauss’s Spinoza (pp.65-83)

第一から第五論文までが既刊論文、残りは書き下ろし。著者の意図は序文で明確に述べられている。
It was in part to register my own discontent with the mountain of nonsense written on this subject that I first conceived of this book. (ix)
謝辞には、マコーミック、タルコフ、リラの名が見られる。著者は1951年生まれ。PhDはシカゴ。現在はイェールで教鞭を執っている。過去にはヘーゲルについて、最近ではスピノザの『エチカ』について論じた著作がある。
http://www.yale.edu/polisci/people/ssmith.html

序章では、著者のシュトラウスに対する基本的姿勢が披露される。スミスは地理的区分で言う「東海岸シュトラウシアン」を自認しており、アリストテレス政治学よりもいわゆる「哲学的政治」をシュトラウスの思想的核心として捉える。

第一部は全体として、シュトラウスのユダヤ性を他のユダヤ思想家(マイモニデス、スピノザ、メンデルスゾーン、コーエン、ローゼンツヴァイク、ショーレム)との差異から浮き彫りにしていく。そこから見えてくるのは、哲学(ハスカラー、ユダヤ啓蒙主義)と啓示(ハシディズム、神秘主義)の対立こそが文明の原動力であるとし、正統主義への直截な回帰はもはや選択肢となりえないものの、自己の伝統に対する忠節や共感を忘れず、(コーエンの批判的観念論に倣って)メタ批判的立場を確保するという態度である。したがって、スミスはシュトラウスの考えるユダヤ性の核を「超自然的な啓示の真実性への確信」(p.42)と表現する。多文化主義的な向きがなきにしもあらずだが、シュトラウスによってそれ以上の厳密な理論化が行われているわけではない。(というよりかは、そのようなライツ・トークこそが啓蒙主義の産物である) ただ、彼がリベラリズムの可能性について、他の多くの同時代人と共に「ユダヤ人問題」を一つの試金石と捉えていたことは確かである。(イスラエル国のおかげで、現代ではほとんど死語になりつつあるが) スミスはエソテリシズムについて、シュトラウスが自らのテクストにおいても使用していると考えている。その根拠となっているのが、『手引き』に対する自身のエソテリックな注釈へのほのめかしである。(PAW, p.55-56) このような使用は、なによりもエソテリックな哲学的伝統の継承にその理由がある、とスミスは説く。(第一論文) 更に興味深かったのは、第二論文で描かれたショーレムの微妙な政治的スタンスであろうか。彼はシュトラウスと同じく近代理性主義に批判的で、19世紀に確立したユダヤ教学(Wissenschaft des Judentums)を嫌悪し、尚且つ自らをアナーキストと自認していたが、他方でアレントに抗して政治的シオニズムに共感を示し、修正主義を通じてメシアニズムが急進的政治運動と結びつくことには反対していた。(さらには、反律法主義が時代を経るにつれて宗教的ニヒリズムに堕してしまうというパラドクス) 第三論文で示される、哲学と啓示をめぐる基本的な図式はこうである。

theologico-political.jpg

したがって、シュトラウスにとって「ユダヤ人問題」こそが、神学(「ユダヤ人」)‐政治(「問題」)問題の端的な表現であったと言えよう。したがって、シュトラウスの『神学‐政治論』批判はこの軸に沿って行われる。観点は二つ。ユダヤ的観点からは、シュトラウスはスピノザを「マキアヴェッリの冷静な(hardheaded)弟子」(LAM, p.239、スミスは誤って引用している)とし、その汎神論にニーチェ的なひねり(すなわち、善悪の彼岸)を加味して批判する。そして、スピノザを政治的シオニズムの源流に位置付ける。(多くの人びとにとっては唖然とするような非難だろうが) 哲学的観点からは、スピノザの理性主義はそれ自体として自らを基礎付けることができない、というものである。これに対し、シュトラウスの立場は上図で示されている通りだが、スミスの解説はその対立において、哲学の側にどっぷり寄りかかるものである。(それが東海岸シュトラウシアンたるゆえんではあるが)
In fact Strauss’s peculiar conception of orthodoxy has nothing to do with the black hat Haredi community, but consist of a “Maimonidean” strategy that combines outward fidelity to the community of Israel with a private or “esoteric” commitment to philosophy and the life of free inquiry. To be sure, Strauss did not adopt this position in order to undermine Judaism, but to sustain it a form of political theology. This dual strategy allows one to maintain respect for, even love of, the tradition as prophylactic to the alternatives of atheism and assimilation, while denying orthodoxy any truth value. The doctrine of the double truth remains the only way of preserving the viability of Judaism in a post-Nietzschean world that demands intellectual probity at all cost. (p.82)
結局シュトラウスにとっての伝統主義(ユダヤ教特有の教義その他)とは誇大妄想(heroic delusion)であって、一種の高貴な嘘や市民宗教に過ぎない、というのがスミスの結論である。したがって、伝統主義の立場からすれば、シュトラウスこそが無神論者ということになろう。(間違いのないように言えば、人間理性の十全性を否定する無神論者である)

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PT(35.1)でスミスとドゥラリーのやりとりを発見。
posted by ta at 23:58| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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