2009年06月30日

Meier, "Why Political Philosophy?"

Meier, Heinrich. "Why Political Philosophy?" Review of Metaphysics. 56 (2002): 385-407.

マイアーは、アリストパネスの喜劇『雲』を、ソクラテスに対する「友人からの警告」(p.387)と捉え、そこから政治哲学を不可避たらしめる4つの要因を引き出す。第一に政治的対象の正確な認識(総体としての人間性と正しさへの問い)、第二に哲学的生の政治的正当化(友愛の政治、無制限的な哲学的懐疑と社会秩序の対立)、第三にその合理的根拠(政治神学と政治哲学、啓示と理性の相克)、そして最後に哲学者の自己認識(反省、批判)の場としての政治哲学、である。哲学者はまずもって政治哲学者たらねばならない、平たく言えばそういうことである。したがって、固有の意味における政治哲学は「ソクラテス的転回」に全く回収されることになる。
The notions of the sublime, the noble, or the beautiful, which are bound up with philosophy, must be questioned with regard to their dependence on the political, moral, and religious opinions within the political community that the philosophers seek to transcend, no less than must be the desire for devotion to truth or the will to certainty, each of which is in danger, in its own way, of fostering a new dogmatism or a self-forgetfulness of philosophy. (pp.391-392)
無節操なエロスに引き摺られて、忘我的に哲学的探求を行うことは、結果的に自らの足元をも危うくしてしまう。『クリトン』で国法に対峙したソクラテスが従容として死に就いたのも、このようなパラドクスのひとつの表われであったとするのは言いすぎであろうか。ただ、その自己認識の過程が具体的にいかなる形をとるのか。このことによっても新手のドクマティズムや忘我状態に陥る可能性が左右されることを付け加えておかねばならない。

ここでの哲学者像がシュトラウス的なものであることは間違いない。(マキアヴェッリから歴史主義・相対主義に至る過程は彼の議論そのものである) そのように言えてしまうのは、われわれが日頃見知りする(政治)哲学者からは明らかに異質だからである。特に、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、フレーゲの名前を、シュトラウス=マイアーの意味での(政治)哲学者ではなく、「ソクラテス以前の哲学者」として呼ぶところからも容易に推察できよう。(p.401) ただ、ハイデガーはともかく、ヴィトゲンシュタインやフレーゲは(この意味での)政治哲学者ではないとしても、第一存在・原因の探求を旨とする自然主義者としてもなかなかイメージしにくい。ましてや、自然主義者について全体や人間本性といった哲学的に極めてナイーブな言葉づかいがされるのであれば尚更である。さらに、マイアーはルソーの『孤独な散歩者の夢想』の「第五の散歩」を取り上げて、「政治哲学の傑作」(p.407)と評する。(マイアーの処女論文がルソーの『人間不平等起源論』についての註釈である) マイアーの言う政治哲学者とはまさしく「ソクラテス的転回」を経た哲学者、肝心ではあるものの、われわれの直観に反して、固有の領域を欠いた生き方そのものであることが理解できるだろう。
The perfect happiness he achieved in his rêveries solitaires Rousseau describes as a state of continuous, fulfilled, timeless present, a state in which the soul finds a solid enough base on which it can rest itself entirely and on which it can gather its whole being. "What does one enjoy in such a situation?" Rousseau asks. "Nothing external to oneself, nothing besides oneself and one’s own existence; as long as this state lasts, one is sufficient unto oneself, like God." (p.406)
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H・マイアー(1953-)は現在、独ジーメンス財団理事(1985-)ならびにシカゴで特別招へい教授(John U. Nef Committee on Social Thought、2006-)。ここで取り上げた論文も、シカゴでの教授就任講演(2000)がネタ元。フライブルクでDr. phil.(1985)。ドイツ語版シュトラウス全集の編集責任者としても知られる。Wikiによれば、若い頃に極右系学生新聞の編集者を務めていた経験があり、財団理事の地位もドイツ「保守革命」の名付け親であるA・モーラー(1920-2003)から引き継いだ。また、シュミットの『レヴァイアタン』に初めて註解をほどこしたのもマイアーのDie Lehre Carl Schmitts(1994)らしい。
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2009年06月28日

デリダ『言葉にのって』

J・デリダ(林好雄ほか訳)(2001)『言葉にのって―哲学的スナップショット』ちくま学芸文庫

デリダによるデリダ101。続きを読む
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Frazer, "Esotericism Ancient and Modern."

Frazer, Michael L. "Esotericism Ancient and Modern: Strauss Contra Straussianism on the Art of Political-Philosophical Writing." Political Theory. 34.1 (2006): 33-61.

フレイザーはイェールでのスミスの指導学生(プリンストンでPhD)。現在はハーバードで助教(政治思想)。博論のテーマはスミス、ヒュームらの共感理論の今日的意義。(ちなみにOxford UPから近日出版予定) そのほか、ロールズやニーチェについての論文あり。
http://www.gov.harvard.edu/faculty/mfrazer

特に後半に向けてアクロバティックな印象を受けるが、それなりの説得力はあり、シュトラウスのエソテリシズムについても有益なヒントを与えてくれる。フレイザーは従来の額面どおりのエソテリシズム解釈について、それ自体が実はエソテリックな教説に過ぎないという可能性を看過しているとして議論を開始する。しかもそれは、ローゼンが主張するような古代から近代へと立ち戻る形での解釈では(ありえ)ないと言う。

まず、テクスト上でのエソテリシズムの定式化とシュトラウス自身による実際の叙述とのズレが指摘される。そこで本論の大枠は、前者をエクソテリックな主張とし、後者をシュトラウスの真の立場とすることとなる。また、定式化についても、迫害を根拠とした(啓蒙主義的近代に特徴的な、条件的)エソテリシズムと社会への配慮を根拠とした(古代に特徴的な、無条件的)エソテリシズムをそれぞれ区別する。この区別自体はフレイザーのオリジナルではないが、ここから、シュトラウスのエソテリシズムが必ずしも古代のみを対象とした技法ではないことが理解できるであろう。その立論からも明らかなように、フレイザーはシュトラウスが自らの叙述にもエソテリシズムを使用したと考えている。しかし、それは定式化とは異なった形で、である。
Strauss's goal thus seems neither to be for the philosophers to enlighten all of humanity by reshaping society (註・近代の条件的エソテリシズム), nor for the philosophers to forever hide their secret teachings from all but a chosen few (註・古代の無条件的エソテリシズム). Instead, he seems to be inviting anyone who is willing to make the effort to become one of the philosophers. (p.48)
しかし、この行為自身、読者からは一切隠されていないことに注意しよう。行間を読むとは、無から有を作り出すことではなく、あくまで読者の側での視点の変更を迫るものである。

この時点では、定式化されたエソテリシズムと実践されたエソテリシズムは一旦切断されている。これが再び接続されるのは、エクソテリックな教説としてエリート主義的な無条件的エソテリシズムが持ち出され、教育的動機からの定式化されたエソテリシズムと一致させられるときである。したがって、このエクソテリックな教説は潜在的な哲学者(この場合、誰もが候補となりうる)をリクルートする仕掛けとしてのみ理解されることになる。しかし、ここで問題が発生する。すなわち、定式化されたエソテリシズムの第一もしくは第二の根拠との内在的連関を欠いたままで(もしくは、第二の根拠をエクソテリックな教説に留めたままで)教育的動機を提示することに果たして意味があるのかという問題である。フレイザーはもちろんこの点について無頓着なわけではない。
Yet while a concern for education may be essential for esoteric writers both ancient and modern, one would be consistent in rejecting both the ancient and modern models of esotericism and still writing esoterically out of a concern for education. (p.51-52)
シュトラウス=フレイザーのエソテリシズムは、ただ潜在的哲学者をリクルートする方途として用いられるだけではなく、そこに含まれる仕掛けによってだましだましこれらの卵たちを養育する役割を担う(LAMの「ルクレティウスについての覚書」を参照)。この役割は明らかに定式化を越えた実践によって示されている部分であろう。
Rather than bombard initiates with teachings that they will only find "repulsive and depressing," esotericism provides a method for slowly luring them to search for "those hidden treasures which disclose themselves only after very long, never easy, but always pleasant work" (PAW, 37). Esoteric communication, moreover, has the pedagogic advantage of forcing students think for themselves, to consider whether a philosopher's reasoning at any given time is sound and reveals his true teaching or is merely exoteric. (p.50)
この点に関して、長谷部教授の「学問の自由と責務」(『憲法諸相と改憲論』敬文堂、2007、p.211)は先のザッカートの議論を取り上げ批判しているが、このフレイザーの立論もってすれば反論となるであろうか。(更に言えば、古代と近代のエソテリシズムの区別を受け入れるならば、第一の動機について教育的動機のほかに啓蒙と言う動機が接続されることを忘れてはならない) ここで、われわれは教育的動機においても複数の側面があることに気付かされる。ひとつは潜在的哲学者のリクルートであり、定式化された第一・第二の動機と不可分の関係にある。次に、いわゆる「にがよもぎ」に対する糖衣の役割であり、これによって哲学的生を魅惑的に見せることができる。そして最後に、ごく技術的な意味で解釈学的技法の習得があり、上記引用の下線部に対応する。ザッカートに非があるとすれば、この区別を曖昧なままで残したからではなかろうか。
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2009年06月23日

Rorty, "Marxists, Straussians, and Pragmatists." / Caesar, "American Context of Leo Strauss's Natural Right and History."

Rorty, Richard. "Marxists, Straussians, and Pragmatists." Raritan. Fall 1998: 128-136.

英インディペンデント紙の追悼記事がローティのシカゴでの経験に言及していたので、何かあるのかなと探していたらこの古い書評を発見。とはいっても、プラグマティズム(デューイ)による改良主義を擁護し、マルキシズム(労働者的視点)もシュトラウシアニズム(政治家的視点)も社会問題への実際的なアプローチを欠いたディレッタントな議論だと批判しているだけ。思い出話は特にない。ただ、2人のマルキシスト(ロイドとフェルプス)についてはその資料的価値を認め、まだ好意的。対象となった著作は以下の通り。

* Lloyd, Brian. Left Out: Pragmatism, Exceptionalism and the Poverty of American Marxism, 1890-1922. Baltimore: Johns Hopkins UP, 1997.
* Phelps, Christopher. Young Sidney Hook: Marxist and Pragmatist. Ithaca: Cornell UP, 1997.
* Ceasar, James. Reconstructing America: Symbol of America in Modern Thought. New Haven: Yale UP, 1997.

Caesar, James W. "American Context of Leo Strauss's Natural Right and History." Perspectives on Political Science. 37.2 (2008): 69-74.

ローティの書評で槍玉に挙げられていた当の本人のシュトラウス論。ヴァージニア大教授(アメリカ政治、政治思想)。どちらかといえばジャッファ(西海岸シュトラウシアン)に近いのだろうか。
http://www.virginia.edu/politics/staff/scholars/ceaser.html

前半(p.69-72L)は、NRH(というよりも自然と歴史を巡るシュトラウスの考察)が提示する表向きの(surface)結論によって、いかようにシュトラウス学派が形成されているかを論じる。要するに、アメリカの東西両派は哲学と政治を軸に対立し、さらに大西洋を挟んで欧州では「神学−政治問題」に重点が置かれる。後者について、シーザーはTanguayのみ言及しているが、Meier、Shepherd、Green、Orr、Lillaなどはどうなるのだろう? ただそれらを「表向き」と呼ぶわりには、シーザー自らの立場は曖昧。
Healthy American prejudices, perhaps sanctioned by a higher power, keep America's relativists blithely "generous" and generously protect them from the results of their own theoretical positions. More likely, then, the principal practical consequence of these ideas in America will be a certain kind of listlessness and an unwillingness to defend liberalism. Listlessness, especially against communism, became a major theme of Strauss's writing, although he avoids this subject in Natural Right and History. Nature can serve as an antidote to listlessness, as indeed it has done over the past half century. (p.71R)

A judgment about the proper conclusions to draw from Natural Right and History for America would involve engaging in a complex process of first working "down" from higher levels of thought to American political thought and next working "up" from elements of American political thought to higher levels of thought. The results we should expect from such an analysis would come not so much as specific formulas but as new ways of thinking about the issues. This kind of project still remains to be carried out. We have not yet begun to tap the richness of this book for American political thought. (p.72L)
後半("STRAUSS ON THE PROGRESSIVES AND THEIR HEIR")では、NRHが誕生するコンテクストを明らかにするため、20世紀初頭のプログレッシヴィズム全盛期とシュトラウスがアメリカへと移住する30年代後半の思想状況が対比される。当初徹底的に否定されたはずの哲学における自然概念(自然権思想)が、ナチズムやスターリニズムを目の当たりにして、(見かけ上の)再評価へと向かう。
The questioning of natural right that went on in America after the 1930s had a very different tone to it than when Dewey wrote in the full flush of pragmatism's youth, a couple of decades earlier. By the late 1930s many of those who contributed to this earlier crusade were openly experiencing what looked like a case of buyer's regret and searching for a new solution. If written in 1920, Natural Right and History would have been easily dismissed as representing an outmoded way of thought that was clearly in the process of being overcome. But written at midcentury, when there was "a renewed interest in natural right," it had to be dealt with in an entirely different way. (p.73R)
20世紀前半のアメリカの思想状況をもう少し勉強しなくてはならないが、シーザーの独り相撲の感がどうしても抜け切れなかった。ただ、先の講演にもあったように、シュトラウスが実践を理論に先立つと理解していたのであれば、自然権思想や近代リベラリズムとしてわれわれが今日認識している概念を必ずしもホッブズやロックに求める必要はない。(なぜリベラリズムが英米で維持され、ドイツでは失敗したのか) しかし、それでもなお、古典的な自然概念は本質的な部分を占めている。ここから、なぜシュトラウスが西洋政治哲学の読み替えへと進んでいったのかが理解できるであろう。
Strauss uses the genetic method for a very different purpose. He too goes back before the emergence of philosophy, but in order to reveal the concept of nature in all its fullness and richness. One of the great achievements of Natural Right and History is its demystification of the classical concept of nature. It is difficult today even to imagine how the best American minds at this time had simplified and distorted the classical view, creating cartoon Platos and action figure Aristotles. Strauss presents the human and political aspects of nature in a practical or empirical way, openly inviting a comparison on empirical grounds between the classical account of nature and the supposedly more scientific modern versions. He specifically offers an account of premodern nominalism as an alternative to pragmatic nominalism. The strange voice that called for a reflection on eternity turns out to be not so strange after all, but remarkably down-to-earth. (p.73L)
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Two Unpublished Lectures by Leo Strauss

07年にReview of Politicsにて公刊された、第二次大戦中の二つの講演(講義)。導入としてタルコフによる短文がつけられている。

Strauss, Leo. "What Can We Learn from Political Theory?" Review of Politics. 69.4 (2007): 515-529.

42年7月(夏学期)にニュースクールのゼミで行われた講義。したがって、「政治哲学とは何か」よりも10年以上遡る。

講義はおなじみの政治理論(political theory)と政治哲学(political philosophy)の区別から始まる。ここは、「政治哲学とは何か」の序盤部と基本的に相違無い。シュトラウスは実践的な指針のために政治哲学から何かを学べるとは考えていない。こういった文脈で、チャーチルのK.M.T.(Keep Muddling Through)・ポリシーに言及したりされているが、興味深いのは、めずらしく戦後の外交政策(ごくごく一般的な見解だが)について触れていることである。その部分を抜書きしてみると、
...that this war has to be won, that the only guarantee for somewhat longer peace-period after the war is won, is a sincere Anglo-Saxon-Russian entente, that the Anglo-Saxon nations and the other nations interested in, or dependent on, Anglo-Saxon preponderance must not disarm nor relax in their armed vigilance, that you cannot throw power out of the window without facing the danger of the first gangster coming along taking it up, that the existence of civil liberties all over the world depends on Anglo-Saxon preponderance---to know these broad essentials of the situation, one does not need a single lesson in political philosophy. In fact, people adhering to fundamentally different political philosophies have reached these same conclusions. (p.518)
これをどのように受け取るかは人によって多少の違いがあるだろうが、せいぜいが政治的リアリズム(典型的にはケナンのそれ)といったところであろう。それよりもまず、哲学と政治の分離が明確に前提とされていることに注意しなければならない。シュトラウスは政治哲学は実践的行為に常に遅れる、とも述べている。(ちなみに、この引用のすぐ上で、もともとRommelと並んでTojo[東条]と書かれてあったのが、Japanese Generalsに訂正された箇所がある。戦時下の日本の権力構造にも最低限の知識があったのか、それとも単に現場の指揮官の名前を一人も知らなかったのか。多分、後者だろう。) 政治哲学が実践の導きとならないのであれば、いかなる役割を果たすのか。シュトラウスは以下のように述べる。
If for no other purpose, at least in order to defend a reasonable policy against overgenerous or utopian thought, we would need a genuine political philosophy reminding us of the limits set to all human hopes and wishes. In other words, even if it were true that man does not need political philosophy absolutely speaking, he does need political philosophy as soon as reasonable political action is endangered by a erroneous political thinking. (p.520)
あらゆる政治的知識は実践において生み出され、政治哲学は常に弁証的に働く。しかし、それでも尚、哲学が生み出した唯一の政治的概念がある。それが、自然法ないし自然的正である。ここからは再びおなじみの話が続く。すなわち、古典的な最善政体(哲人王による一人支配)とは良識ある人々(decent people)にとって現実とは隔絶された、あくまで願望や祈念の対象であり、拙速にこれを実現しようとしたり、一種の予言と考えるのは全くの誤りである、というもの。それは現実政体を判定する基準にとどまり、そして、このことは具体的にわれわれの正義と法の関係の考察へと導く。
...there is common, ordinary civil justice which consists in obedience to the law of the land and just administration of that law; that justice is not concerned with the justice of the law itself; it is for this reason a very imperfect justice, for every law, every legal order is bound to be only imperfectly just; therefore, justice must be supplemented by equity which is the correction of legal justice in the direction of perfect justice; the equitable order, or, as we might prefer to say, the order of charity is the utopian order; ...common justice must be "completed," corrected by considerations of equity or charity---it can never be supplanted by them, although all decent men would wish, or pray, that it could. (p.522)
法の支配を土台とし、プラスアルファとしてエクイティが用いられるというイギリスの立憲体制そのままだが、これは古代の実現可能な(最善政体とは異なる)理想体制、つまりは混合政体とも通じている。エクイティが補助的役割にとどまるのは、地上においては法に拠らない支配は常に僭主政治に堕してしまうからである。

マキアヴェッリ以降にこのような古代のユートピアニズムが根本的な変化に曝されたとシュトラウスが考えているのは周知の通りである。近代特有のユートピアニズムは古代のそれと露骨なマキアヴェッリズムの妥協において成立している。その特徴のひとつが、エコノミズム(名誉から利益へ、教育から制度へ)であり、もうひとつが人知の限界を無視した理想と現実の超越論的一致である。したがって、シュトラウスの考える現代の政治哲学の役割とは以下のようになる。
...there was a tradition of political philosophy whose adherents were in agreement as regards the fundamentals, the tradition founded by Socrates, Plato, and Aristotle, which was transformed, but not broken under the influence of the biblical virtues of mercy and humility, and which still supplies us with the most needed guidance as regards the fundamentals... / This tradition is menaced today by a spurious utopianism... The foremost duty of political philosophy today seems to be to counteract this modern utopianism. / But to describe the service which political philosophy can render, not merely today, but at all times, one would have to say that political philosophy teaches us how terribly difficult it is to secure those minimums of decency, humanity, justice, which have been taken for granted, and are still being taken for granted in the few free countries. By enlightening us about the value of those apparently negligible achievements, it teaches us not to expect too much from the future. In the last analysis, political philosophy is nothing other than looking philosophically at things political---philosophically, i.e., sub specie aeternitatis. (p.527)
言うまでもなく、ここでは哲学者の政治的節度にのみ関心が向けられており、いわゆる哲学的政治には一切言及されていない。その他注意すべきは、ここで言及されるファンダメンタルズの地位であろう。これらは後年、イデアの名の下に根本問題(「神学‐政治問題」等)やその主たる選択肢として多少なりとも定式化されるが、それでも一定の曖昧さを免れていないことは先のスミスの議論からも明らかである。そのため、シュルツのようにシュトラウスの懐疑はquestion-raisingよりもquestion-beggingであると非難されても仕方がないといえよう。ただ、以下の言明からは、今日的な環境問題についてシュトラウスが取ったであろう姿勢を少なからず窺うこともできる。
...the question is whether the price which had to be paid for these conquests was not, in some cases, too high, in other words, whether it is not still true that man can indeed expel nature with a hayfork, but that nature will always come back with a vengeance. By erecting the proud edifice of modern civilization, and by living within that comfortable building for some generations, many people seem to have forgotten the natural foundations, not dependent on human will and not changeable, which are buried deep in the ground and which set a limit to the possible height of the building. (p.528)
これまで、幾度となく指摘してきたことだが、シュトラウスが自然に固執するのはそれが人知に対して絶対的な限界を提示するからである。哲学者は自然法ないし自然的正(後々、これらの表現は厳密に区別されるようになる)の存在を発見したが、もし彼らがその内容を完璧に知悉していると言おうものなら、シュトラウスはそれを不正と断ずるであろう。政治哲学者はそういった限界のソクラテス的認識と共に誕生するのである。

ちなみに、以下の結語からはニーチェの影響も見え隠れする。(この場合は、生が有限であるがゆえの「運命愛」だが)
It is hard to face these facts without becoming cynical, but it is not impossible. The philosophers advise us to love fate, stern fate. The Bible promises us God's mercy. But the comfort which comes from God is as little pleasant to the flesh as is the love of fate. For the flesh, which is weak, wants tangible comfort. That tangible comfort---a man-made eternal peace and happiness---non datur. We have to choose between philosophy and the Bible. (pp.528-529)
哲学が永遠の相の下に生の有限性をペシミスティックに突きつけるのに対して、聖書は慰めを与える。ニーチェならば迷わず前者を選ぶであろうが、シュトラウスはあくまでそれらを選択肢として提示する。

Strauss, Leo. "Re-education of Axis Countries concerning the Jews." Review of Politics. 69.4 (2007): 530-538.

同じくニュースクールの、43年11月7日に催されたユダヤ人問題に関するカンファレンスの定期会合での一般講演。上の講義と同じく、シュトラウスにしてはプラクティカルな議論を行っている。テーマはタイトルの通り。まとめれば以下のようになる。

戦後ドイツがナチの教義に代えて、リベラル・デモクラシーを採択すべきことについては、シュトラウスには一切の曖昧さがない。(p.532) ただ、ワイマールの挫折が常にその後の行く末について大きな疑念を投げかける。しかし、同時にドイツ人を再教育するのはドイツ人でしかないともシュトラウスは論じる。(p.533) その延長線上で、反ユダヤ主義に関する議論がなされるわけだが、ここでもシュトラウスは楽観的な期待を遮る。物質的補償についての一通りの議論がなされた後、話は再び担い手の問題へと立ち戻る。
Only Germans can educate the Germans concerning the Jews / But which Germans? I do not believe that the liberal Germans could do it. Liberalism never carried a decisive weight in Germany. And now, after the extinction of the middle class, the traditional bearer of liberalism, the chances of liberalism are probably still smaller than they ever were. (p.536)
ここにもドイツのリベラルな伝統に対する疑念がありありと見てとれる。ならば、誰が担い手たるべきなのか。シュトラウスが最終的に可能性を見出すのは、伝統的にナチスもしくは反ユダヤ主義と距離を置いてきたカトリックと一部のプロテスタント聖職者および知識人である。
It is perfectly possible that the so-called neo-paganism of the Nazis has brought about a rapprochement between Christians as Christians and Jews as Jews even in Germany... If the war and the defeat of the Nazis lead to a reawakening of Christian faith and manners in Germany, it is not impossible, I believe, that the leaders of German Catholicism and Protestantism will make some efforts towards the re-education of the Germans concerning the Jews. (pp.537-538)
戦後ドイツの民衆レベルにおける精神的復興については正直疎いので、詳しいコメントはできないが、常識的な範囲で言えば、シュトラウスの心配は杞憂に終わったと見てよいのだろう。(無論、反ユダヤ主義が根絶されたわけではないが)
But I would be unfair to those Germans who did not waver in their decent attitude, if I did not report to you a remark which a German made to me the other day. He advised me to tell you his conviction that the mass of the Germans are simply ashamed of what has bee done to Jews in Germany and in the name of Germany; and that, after the war, Germany will be the most pro-Jewish country in the would. (p.538)
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2009年06月20日

Schultz, "Mr. Smith Does Not Go to Washington."

Schultz, Bart. "Mr. Smith Does Not Go to Washington." Philosophy of Social Sciences. 37.3 (2007): 366-386.

書評。シュルツはシカゴ大で哲学専攻のsenior lecturer。シジウィックや功利主義に関する著作あり。
http://philosophy.uchicago.edu/faculty/schultz.html

批判の眼目は、たとえスミスの解釈を踏まえたとしても(つまりは、D.C.に行かずとも)、従来の反動的なシュトラウス像は変わらないよ、というもの。何を今さらとつっこまれそうだけれども、長めに抜書き。
Ironically, his Strauss appears as very much a creature of his time, of twentieth century struggles with Zionism and Jewish identity, of cold war thinking about Nazism and Communism. Sadly, his Strauss appears to have unwittingly generated a confederacy of political dunces who have been more than willing to squander his intellectual legacy for short-term political gain. (p.370)

...Smith's maneuvers...ultimately seem evasive about the very truth that his book goes far to confirm --- namely, that Strauss's works have been overwhelmingly an attraction... for warmongering rightwingers... Hazardous as it is to try to make sense of politics in such intellectual terms, it will surely strike many of Smith's non-Straussian readers that his Strauss still looks like a political and philosophical reactionary, a deeply elitist theorist with very little appeal for anyone seriously concerned to advance a genuinely critical public sphere, meaningful democracy, global, cosmopolitan justice (including justice for women, gays, and lesbians), sane environmentalism, or other causes associated with critics of neoconservatism. (p.371)
シュトラウスの思想がネオコンの外交政策に一種の霊感を与えたことはもはや事実として否めない。そして、ここに挙げられている今日的諸問題について、シュトラウスの思想から積極的に得られるものはほとんどないということも確かであろう。しかし、スミスの意図がタカ派の政治的冒険主義に対する警めにあるのだから、彼のシュトラウス解釈に対する無批判はその正当性を認めることになろう。その上で、シュルツのように自らの政治信条にそぐわない人々をネオコンと同列に論じ、その内に有意義な差異を認めないのは少々乱暴ではなかろうか。
Thus, for all of Smith's disclaimers about there being an "essential" Strauss, he comes pretty close to finding one: "The core of Strauss's thought is the famous 'theologico-political problem,' a problem, he said, that 'remained the theme of my studies' from very early on" (p.373)
スミスは何も、読み手の関心とニーズがそれぞれ異なり、どれもこれもが正当だと論じているわけではない。(それはシュトラウスが何よりも嫌った価値相対主義につながる姿勢であろう) 彼は、(シュトラウスが読み解く)プラトン対話篇と同様、いかなる関心を抱いてテクストを読み始めても、最終的には「神学-政治問題」という重要な一点に帰着すると論じているのであって、シュルツの応答は正鵠を射ていない。
"There are no ultimate answers in the Straussian universe; rather, there is marked disagreement even among the greatest authorities over their answers to the fundamental problems. All that is required in facing these problems is an open mind and a willingness to listen and weigh the alternatives." (RLS, pp.105-06)... / Still, Smith's account leaves it something of a puzzle how the demand for an "open mind" is to be spelled out, and whether Strauss is really providing much of an alternative. (p.375)

"... Judaism would thus come to serve the same function as a Platonic noble lie or a Machiavellian civil religion intended to ensure a sense of Jewish pride and self-respect, but void of truth content or redemptive grace." "This essay," he gracefully admits, "does not even attempt to answer the question of which of these alternatives may be correct." (RLS, pp. 63-64) / That last sentence applies to the entire book---Smith does not show why one should not opt for intellectual probity. Neither did Strauss. (p.377)
エソテリシズムについては少数派ながらもザッカートのようにシュトラウス自身による使用を否定する解釈がある。したがって、シュルツのこの批判についてはそもそも評価しにくい。ただ、シュトラウスのエソテリシズムが近代の知的誠実さに悖り、政治的に悪用されうるという見方がある一方で、それが決して建前と本音をただいたずらに使い分けるような無責任な態度ではないことを確認しておくべきだろう。シュトラウスのテクストでは、語られるべきことは堂々と語られている。しかし、それを看過してしまうか否かは読者の注意力次第なのである。
That bit of probity more or less says it all, or rather, concedes it all, to those critics who have noted the perverse role the Straussians have almost always played in the culture wars. Smith, like Tanguay and so many others, time and again innocently owns up to the very points that the responsible critics of Straussianism have criticized, though he, again like the others, scarcely recognizes the force of the criticisms. (p.378)
文化闘争におけるシュトラウス主義者の役割については特に異議は無い。ただ、シュルツが一度ならず用いる“perverse”という語がどうも引っかかって仕方がない。(この言葉は、後にレオン・キャスに対しても投げかけられる、p.380)
How different is this, really, from Peter Singer's claims in The President of Good and Evil: Questioning the Ethics of George W. Bush (Singer, 2004, p.220): Strauss held "that there is one kind of truth for the masses, and another for the philosophers---that is, for those in the know." (p.379)
エソテリシズムの教育的役割について論じるのであれば、政治と哲学の抜き差しならぬ関係を加味する必要がある。哲学的なエリート主義がそのまま政治の世界に翻訳されるわけではない。
Rather than trying to diminish the role of religion or encourage clear, critical thinking about such things as was, terrorism, racism, torture, etc., the "political action of philosophy---to the extent that philosophy admits of a public side---consists in various fishing expeditions for new or potential philosophers. ...For the rest, it is sufficient to satisfy the city that philosophers are not atheists, that they revere the gods the city worships, and the they are good citizens." (RLS, p.150) (p.379)
ただ、シュトラウスの描く哲学と政治の関係がゼロサム的である以上、例えば、マルクスの史的唯物論を反駁できても、彼から有意義な批判理論を取り出すことはやはり難しいであろう。そこに世界観的限界があるともいえる。
Evidently, for Strauss, the philosopher is and must be alienated; this is a necessary condition rather than a tragedy. But, while "resisting the 'collective egoisms’ bred of politics and attachments to one's own city, the philosopher is necessarily attracted to people of a certain sort, namely those in possession of a well-ordered soul." Alas, as Smith also concedes, when asked what a well-ordered soul actually is, "Strauss's answer ... seems to be 'we know one when we see it’" (RLS, p.149). In this way, it is plain that Strauss and the Straussians often sound more like the absolutist Plato than the skeptical one, that Isaiah Berlin was right to complain that they "believe in absolute good and evil, right and wrong, directly perceived by means of a kind of a priori vision, a metaphysical eye" (Berlin, 1991, p. 32). And it is clear enough that speaking truth to power, cheerfully dying for one's philosophizing, is not the model here. Something much more comfortable for academics is being offered up.
秩序付けられた魂は、あくまで哲学的探求に伴う副産物であって、その探求が絶対的真理に到達できるかどうかは全く別物である。そして、絶対的な善悪の観念はシュトラウスにとっても人間理性による認識の埒外にある。
...there is no indication here whatsoever that the Straussian school might be able to learn something from work in gender and gay studies, even from the brilliant work of Sir Kenneth Dover, Martha Nussbaum, Froma Zeitlin, Eva Keuls, or Michel Foucault on Greek sexuality. No mention, either, of the vital work on critical race theory or postcolonialism that has done so much to unmask both ancient and modern forms of racism and prejudice, including the bigotries of Strauss's hero, Churchill. Such developments in intellectual probity, which have succeeded in sowing doubt after doubt about the supposed "permanencies of human nature," have almost invariably met with disapproval from academic Straussians, when paper training the "qualified sons." They are much too busy struggling to keep "awake the recollection of the immense loss sustained by mankind" (RLS, p.155) to acknowledge the mixed blessings of Aristotle on butterfly minds and barbarians. The anti-feminist rant is a virtual trademark of Straussianism, of whatever form. (p.380)

And perhaps even more puzzlingly, for those with limited familiarity with the Straussian debates, there is, despite all the talk about "philosophy" and "reason," very little genuine engagement here with the type of philosophical argument (or dialectical "leading") characteristic of academic philosophy departments, which Smith seems rather to disdain... There is more about this in five pages of Donald Davidson's Truth and Predication (Davidson, 2005) than in the whole of Smith's book, which simply repeats over and again that the "doctrine of the Ideas is presented by Strauss not as a body of moral absolutes immune to criticism, but as a set of permanent questions or problems that each person must think through for themselves." (RLS, p.105). If one wants to argue the case against relativism, one is much better served by Paul Boghossian's diminutive Fear of Knowledge (Boghossian, 2006) than by Strauss's entire canon. (p.381)

Fortunately, we are free to opt for those better versions of cosmopolitanism that seem a lot more relevant to a world teeming with different identities and threatened by global problems, a world that obviously has far more evils than it can long endure. If it is "against nature" to resist collective suicide, nature needs help. (p.384)
「哲学者とは誰か?」という問いに対するシュトラウスの答えに、現代哲学に携わる人間なら押しなべて首を傾げるだろう。平たく言えば、シュトラウス(とシュトラウス学派)などいくら読んでも時間の無駄、ということ。(ただ、チャーチルに関しては、その人種主義的偏向だけを取り上げるのであれば、歴史的人物の多くは評伝など読む価値がなくなるのでは?)
In fact, Smith's contempt for and ignorance of contemporary philosophy might be construed as a genuinely Straussian attitude---Strauss himself was not at all averse to academic politics (which as Smith acknowledges, he seems to have deemed the ultimate politics), and to wielding his influence in decidedly antiphilosophical ways, as when he conspired to keep Karl Popper out of the American academy. (p.380-381)
フェーゲリンと結託して、ポパーをアメリカの学術・教育機関から締め出そうとした件について。詳しくは、Jarvie, Ian, and Sandra Pralong, eds. Popper's Open Society After Fifty Years: the Continuing Relevance of Karl Popper. London: Routledge, 1999.

特に後半の外在的批判について、できればスミスの反応を見てみたい。
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2009年06月18日

福武「社会科学と価値判断」 / 三笘「福武直とWertfreiheitの意味」

福武直(1975)「社会科学と価値判断(1949)」『福武直著作集 第一巻』東京大学出版会, 197-327.

福武はまず「価値判断排除」にまつわるヴェーバーの主要文献ならびに学会報告、そして、その立場をめぐって発生した二つの論争―ウェーバーの「客観性論文」に端を発する旧論争(1904-)と存在論的価値の客観性を主張するゴットル派との間でかわされた新論争(1935-)―を概観する。その中で、「価値判断排除」の立場が、似而非論者らに濫用されることによって、もたらした悲劇的結末が以下のように語られている。
価値判断の排除は、その抽象性の故に不毛となると共に、この排除自体が全体性なる価値判断に化するのである。…「価値判断排除」は、時代的状況の故に(引用者注・シュモラーを総帥とする講壇社会主義者に対して)その勝利を確保したが、それが峻烈なウェーバーの論理的分析と誠実無比な彼の人格に根ざす知的廉直を離れるとき、その帰結は概ねこのようなものであった。その亜流に於いては、「価値判断排除」が、ウェーバーの排した中立的全体的なものになり、更にいつかは、この全体にひそむ内実を隠蔽する道具にまで成下ったのである。そしてこれは、ナチスの足場として利用されると共に、それに対する抵抗を示しえなかったのであった。(p.304)
ちなみに、ゴットルの主張はディルタイやハイデガーにその哲学的根拠を求めておりなかなか興味深い。彼は嘗てヴェーバーの追随者であったが、ヴェーバーが「神々の闘争」と表現した個人主義的な世界観対立(観念論的価値判断ideologische Werturteile)を、そっくりそのまま社会形成体soziales Gebildeとして包括し、存在論的価値判断ontoligische Werturteileを主張するに至った。(pp.310-311) この後、福武は「価値判断排除」に対する典型的な7つの批判を列挙する。(pp.312-317)

@ 「価値判断排除」の要求の相対性⇔真理の価値という(論証不可能な)必然的前提
A 社会科学における「主体と客体」の一致(ヴェーバーの自然科学主義的偏向)⇔「価値判断排除」要求を退ける決定的根拠とはならない
B 非社会科学的な現実逃避(現実に対する傍観的無関心)⇔ひとつの人格における経験的認識と実践的価値判断の区別と共存の両立
C 「価値判断排除」要求のブルジョア自由主義的偏見⇔無党派的な客観性
D 方法論的可能性と事実的可能性の不一致(要求の実際的な困難さ)⇔Du kannst, denn du sollst!
E 材料選択における不可避的な価値判断の隠蔽⇔ヴェーバーによる自覚、悪用に対する自省
F 前提としての世界観の不可避性(ヴェーバーにおける自由主義・個人主義・民主主義)⇔科学者の主体的態度としての「価値判断排除」要求、自らに都合の悪い事実をも認める知的廉直という徳

@のために、ヴェーバーはこの要求を「時代の要請」や「宿命」としてしか語りえなかった。CとFについては、先の折原解説(〈自己責任〉と〈責任倫理〉に堪えうる個人、p.200)からも疑いを差し挟めないであろう。Eも良く言われることであるが、「価値判断排除」を決定的に不可能ならしめる批判ではない。福武は、これらすべての批判に対してヴェーバーを擁護するわけであるが、他方でその適用範囲を科学者の主体的態度に限定する。そして、ヴェーバーの厳格すぎる禁欲的態度を超克することを試みるのである。具体的には、「マンハイムの「相関主義」による「没価値的イデオロギー論」の超克であり」(p.439)、ヴェーバーが「曖昧模糊」たるままに止めた、存在の根底的なるものの性格(「存在拘束性」Seinsverbundenheitの問題)を彼は問いなおそうとする。(p.318-319) この点について、福武は以下のように論じている。
ウェーバーの根本的立場は、マルクスのように資本主義の中に「自己疎外」を認め「人間の解放」を求める立場と異り、資本主義社会の「合理化」を理解する立場であった。しかるにわれわれは、この「理解」を超えて、それを「批判」し、「変革」する立場に進まねばならない。かくして、「価値判断排除」は、ここに見捨てられる。(p.321)
明らかにマルクスに偏向したこの姿勢が、彼が口を極めて批判した「価値判断排除」の悪用と結局どれほどの違いがあるのか、理解に苦しむところであろう。(p.325を参照) 特に「価値判断排除」を科学者の主体的態度に限定する解釈について、かつての教え子である徳永恂がその解説で批判している。彼は、このような解釈がヴェーバーにおける倫理と科学の緊張構造を失わせしめ、その結果福武が「倫理主義的一元化」(科学者の主体的態度としての消極的一元化)に陥っていると指摘する。戦後、Wertfreiheitに「価値判断排除」という消極的な訳語を充てるようになったのも、この指摘と無関係ではないとも言う。福武は、自らの理想として「広義のヒューマニズムとデモクラシー」への進歩という「最低綱領」(p.324)を掲げたが、その方途として「マルクスによってすべてを割り切ること」なく「マルクス的な立場に立つ」(p.325)ことを選んだのは、時代性とはいえやはり疑問といわざるを得ない。むしろ、折原が「客観性論文」の解説で論じたように、近代化の運命の中で「〈自己責任性〉と〈責任倫理性〉に堪えうる個人」を生み出す方が、福武の理想により近づけるのではなかろうか。このようなマルクス主義的一元化の観点から、もう少し詳細な批判を行ったのが以下の三笘論文である。

三笘利幸(2008)「福武直とWertfreiheitの意味―科学と実践のはざまで(宮澤誠一教授退職記念号)」『教養研究(九州国際大学)』14(2・3), 55-75.

三笘(みとま)は上掲の著作集第一巻に収められた諸論文をベースに、戦中戦後にかけての福武の学術的な軌跡を追い、その一貫しつつも矮小化されたWertfreiheit解釈を批判する。

戦中に関する記述で、特に興味深かったのは以下の部分。
福武は「没価値性判断」(注・戦前はこのような訳語を充てていた)を、科学が「経験的事実を確定する」ことに限定して(注・つまりは科学者の主体的態度に限定する、ということ)解釈した。さらに彼のマルクス主義という立場のアプリオリな「優越性」が加わることによって、国策という「実践的要求」に直截関わる調査にも自己撞着を起こすことなく向かうことができたのだろう。すなわち、時局に流されず、マルクス主義の立場を堅持しながら、「没価値判断性」にしたがって調査を行っていけば、その調査がどこからの依頼であれ、それとは独立に「真理」を探求することができる、こういう確信が福武にはあったのではなかろうか。いやむしろ、福武はみずからが身を投じた調査が、国策にかかわるものであることを十分承知し、それを逆手にとろうとしたのかもしれない。つまり、科学によって実践を教導するという福武のもくろみをまさに実践にうつすために、あえて興亜院や大東亜省といった日本の中国あるいはアジア侵略の国策機関の調査にかかわり、そこで「真理」をあきらかにしてその誤りを正すということをねらったとも考えられる。(強調は原文どおり、pp.65-66)
たとえそのような目論見が隠れていたとしても、このようなWertfreiheit解釈は、彼の事実報告が結局ゆがんだ国策のために利用される可能性に無反省になる大きな要因ではなかったか、と著者は付け加える。ただ、戦後の「価値判断排除」と比較したときに、基本首尾一貫しつつも、微妙な姿勢の変化が垣間見られることになる。
戦中期には「実践的要求」から科学の独立とみずからの立場を守るため、科学の大前提として「没価値性判断」を保持するというところに力点を置いた。それが、戦後になると依然「科学者の理想」として「価値判断排除」を大前提としながらも、みずからの立場を実践的・政策的課題へと積極的に関わらせるために「価値判断排除」論は最終的に「見捨てられるもの」とした。戦中から戦後に一貫した福武の思想ではあるが、その力点の移動をみれば、福武にとって「没価値判断性」「価値判断排除」が、彼の「科学の独立」と「科学による実践の教導」とを切り結ぶ位置にあったことがよりはっきり浮かび上がってくるだろう。この科学と政治(政策)という福武の志向を二つながらに成立させるためにこそ、「価値判断排除」は「科学者の理想」でありながら「見捨てられる」という一見パラドクシカルな意義付けをされることになったのである。(強調は原文どおり、p.69)
意地悪な言い方をすれば、首尾一貫していたといいつつも、戦中に(保身を兼ねて)都合よく利用し、戦後自らのマルクス的立場のために切り捨てたとも見えなくもない。いずれにせよ、彼がヴェーバーのWertfreiheitの意味を矮小化したというのは確かだろう。加えて、価値相対主義として福武に批判された「神々の争い」としてのカオスは、その本質において〈自己責任性〉と〈責任倫理性〉に親和的なリベラル民主主義というコスモスを要請しているという、折原‐三笘の立場に一層の説得力があると言わなければならない。
posted by ta at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』ほか

ヴェーバー(富永祐治・立野保男訳/折原浩補訳)(1998)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」(1904)』岩波文庫
---(木本幸造監訳)(1980)『改訂版 社会学・経済学における「価値自由」の意味(1918)』日本評論社
---(尾高邦雄訳)(1936, 80)『職業としての学問(1919)』岩波文庫


これらを総合すると概ねこうなる。(特になんてことはないわけだが…)

価値自由

結局、価値自由自体の基礎付けが不可能であるがために、講演では凄みを利かして「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」としか語りえない。
(注・教壇上の予言に対して)このことからわれわれは、いたずらに待ちこがれているだけではなにごともなされないという教訓を引きだそう、そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」に―人間関係のうえでもまた職業のうえでも―従おう。このことは、もし各人がそれぞれの人生をあやつっている守護神(ダイモン)をみいだしてそれに従うならば、容易にまた簡単におこなわれうるのである。(『学問』、p.74)
魔術から解放された近代合理主義が、その根底ではひとつの信仰によって支えられていることを忘れるべきではないだろう。ちなみに、「客観性論文」の折原解説は親切すぎるくらい親切。

ヴェーバー(清水幾太郎訳)(1972)『社会学の根本問題(1922)』岩波文庫

また図にしようと思ったが、面倒なのでやめた…。
キーワードは、方法論的個人主義と意味の主観性。
posted by ta at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

ネタニヤフ

"Netanyahu endorses Palestinian independence"
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/06/14/AR2009061400741.html

Erekat said Netanyahu's plan was unacceptable since it effectively imposes a solution on the core issues of the conflict.

"Netanyahu's speech closed the door to permanent status negotiations," he said. "We ask the world not to be fooled by his use of the term Palestinian state because he qualified it. He declared Jerusalem the capital of Israel, said refugees would not be negotiated and that settlements would remain."
速報で配信されてきたので何事かと思いきや、総論賛成、各論反対では、リップサービスにすらなっていない。たとえ気に食わなくとも、オバマの呼びかけを無下にはできないといったところか。
posted by ta at 05:33| Comment(0) | TrackBack(0) | たわごと一般 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月11日

橋爪『「心」はあるのか』

橋爪大三郎(2003)『「心」はあるのか (シリーズ・人間学@)』ちくま新書

「心の哲学」ならぬ「心の社会学」。ただし、著者があとがきで指摘するように、本書で言う「心」が現代哲学が対象とする心(mind)と位相を異にする「日本ローカルな問題」であることに注意する必要があろう。そこで用いられる方法は言語ゲームである。ゆえに著者は自らの専門を「言語派社会学」と呼称する。具体的には、心の非実在性を前提として言語ゲームから表出する二次的現象に心のあり方を求めるやり方である。
「心」は非対称なので、「心」を取り出すと自分の独自性が言えたような気になりますが、実はそれだけでは無内容です。それは誰でも、同じようにできるからです。「心」とは、「心」そのものとしては答えられないのではないか。むしろ、そういう問いを生み出した社会的文脈や社会的背景を理解していくときに、別の問い(たとえば、社会学)のなかに回収して答えられるしかないのではないか、というのが私の予想であり、提案です。(p.183)
試みとして一理あるし、物理主義云々といったような哲学的に込み入った話よりも正直実感がもてる。詳細は『言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』(勁草書房、1985)にて。
posted by ta at 21:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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