2009年06月07日

山脇『公共哲学とは何か』

山脇直司(2004)『公共哲学とは何か』ちくま新書

活私開公をスローガンに、前半は思想史的概説、後半は理論的に少し踏み込んで関係概念やイシューが俯瞰される。特に終章のテーマは著者の持論である「グローカルな公共哲学」。以下、抜書きとメモ。
結局のところこの運動(注・全共闘)は、戦後民主主義の否定者というより、戦後民主主義に甘えた鬼っ子が独り相撲を演じたという感じで、1970年代の新しい「民の公共性」運動の発展とあまり結びつくことなく終わったように思われます。(p.115)

ところで筆者は、日本で社会民主主義的な政党が伸びなかった大きな理由のひとつに、日本の野党におけるマルクス主義への無批判なスタンスがあったように思います。旧西ドイツの社民党は、1959年のバードゴーデスベルク宣言によって、マルクス主義と絶縁して新しい社会変革の論理を打ち出し、1970年代の長期政権を獲得したのに対し、日本の最大野党であった社会党では、依然マルクス主義の影響が根強く、そうしたドイツ社民党の働きを修正社会主義や改良主義と名付けて批判するありさまでした。(p.117)

実際のところ、「お粗末な左翼vsそれを叩く国家主義者」という、いまなお多くみられる図式は、国際的に通用しないへぼ試合以外の何物でもありません。そうした図式からは、かつて小楠が構想したような「国際社会における日本の役割」に関する積極的な展望など聞かれないでしょう。(p.126)
政治的な観点からすれば、保守党と社会民主主義政党(プラス独立系勢力)という健全な二大政党制を今日まで阻み続ける負の遺産。
とくに、フランスの一部でしか流行っていない思想を、あたかもドイツを含めたヨーロッパのメジャー思想と喧伝したり、単なる連想ゲームのような軽妙な思いつきの類をニュー・アカと称して売り出したりするような軽薄な傾向が顕著になりました。その結果、「思想のオタク化」が起こったのです。それに便乗して営利をむさぼった夜郎自大的な思想業界や思想評論家たちの無責任さは、日本の若者にゆがんだ知識を煽ったという点で、今日あらためて糾弾されてしかるべきでしょう。(pp.123-124)
著者のこういう言説はなかなか過激。今やネットの普及(匿名でなされる無責任な言辞には著者は価値を認めていないが、p.151)や市民講座の増加もあって、こういう内向きの思想受容は改善されてきているのだろうか。それとも、依然内輪で悦に浸っているだけだと批判されるのだろうか。

A・シュッツ(pp.130, 186)は過去に概説書で現象学的社会学者としてお目にかかったきりで詳しいことは何も知らなかった。ちなみに、シュトラウスと同い年。「生活世界」は実在する空間の存在論的基礎付けというよりは、個々人の超越論的視座の啓発というような側面があるために、「曖昧だ」という著者の批判はもっともなのかもしれない。
このような「公共的ルールにはめ込まれた市場経済」というリアリティを、主流派経済学の教科書が無視ないし軽視しているのは、実に奇妙なことです。いや、そうした市場経済のルールを無視した経済学教育は、社会の現実ではなく空想を教授している点で有害だといわざるをえません。(pp.180-181)
これには諸手を挙げて賛成。金融工学などもここで言われる空想のひとつだろう。

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パブリック・インテレクチャアルとしての自負心からか、web上での著者の発言はしばしば過激に。(リンクは少し古いけれども)

http://public-philosophy.net/archives/12
http://global-peace-public-network.hp.infoseek.co.jp/yamawaki1.htm

ネオコンとの思想的つながりという限定された観点からではあるが、シュトラウスを「古典的自然法を尊重する良質の伝統的保守主義者」として擁護しているのには少し驚いた。「民の公共」という著者の立場からすれば、本書で批判されていたウェーバーと同程度にシュトラウスの思想は縁遠いと思われるからだ。
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グラニエ『ニーチェ』/村井『ニーチェ』

J・グラニエ(須藤訓任訳)(1995)『ニーチェ(1982)』文庫クセジュ

ニーチェのための弁明書。とかく文末に感嘆符が多用される。特徴的なのは、ヘーゲルの位置付けだろう。グラニエは折に触れて、両者の思想的連環を確認する。キーワードは生成と弁証法的連鎖である。
ニーチェは二元論を替えるに、生成という理解方法をもってする。それは人工的に固定された対立関係をあらためて流動化し、絶えざる混淆によって現実的なものの動的な連続性を回復する。こうすることでニーチェは、ヘーゲルの考え方がもつのと類似した方向付けに自分がしたがっていることを意識しているし、…かれはヘーゲルの最も貴重な直観の一つ、つまり、硬直して惰性的な実体は存在しないのであり、いっさいは絶えざる変容であるという直観に対して賛同してもいるのである。…もし、テクストについて無知であるゆえにか、あるいはいたずらなコントラスト趣味に災いされてか、現実が生成する過程における否定の、より正確には、矛盾の、役割についてのニーチェとヘーゲルは一致しているということ、それゆえまた、「分割的悟性」がふけっている二元論を両者が共通して拒否しているということを黙過するならば、ニーチェ哲学に重大な毀損を被らせることになろう。(p.43)
訳者によれば、グラニエの念頭にあるのは、ドゥルーズのニーチェ読解(『ニーチェと哲学』)だそうだ。
…生成はまた、ニーチェの議論の運びがその基盤として弁証法的連鎖に助けを仰いでいることを明らかにするということ。この弁証法的連鎖は、その様式が疑いもなくヘーゲル的であることから、ある種の解釈者たちをまごつかせたものである。というのも、かれらは、ニーチェの考え方が総体的にみてヘーゲルのそれと対立するとはいっても、たとえば、弁証法や生成概念という点においては両者ははっきりと親和性をもち収斂するところがあるということを見ようとしないからである。(強調は原文どおり、p.70)
…僧侶の復讐意志がこしらえたその無を、ニヒリズムは神の死を宣言することによって暴き、哲学者の存在論的〈理想〉を覆すのであって、その限り、ニヒリズムはある種の明晰性を証している。とすればこの明晰性の動機が発見されねばならないだろう。遠くを捜すには及ばない、とニーチェは答える。それはまさに、〈道徳〉そのものの逆説的な内的運動のうちに見出されるのだ! と。その運動はきわめて正確に弁証法的な連鎖をなす。実際にここで問題となっているのは、「道徳の自己止揚Selbstaufhebung der Moral」(曙光序文四)である。(強調は原文どおり、p.74)
また、ニーチェは有益な誤謬という生のプラグマティズムの観点から〈節度〉の重要性をも説いているという。(p.83) そして、力への意思の概念的普遍化については、当然ながら「絶対的全体化という独断的価値を認めてはならない」(p.94)という留保が付け加わる。安易な政治的濫用(政治的ダーウィニズム)を戒めるためであろうが、しかし批判者の側からすれば、近代の平等主義に対する位階秩序の設定(デリダやドゥルーズなどの「軟弱な差異のアナーキズム」に対する批判、p.116)や「貴族主義的で強固に反国家的な社会組織形態」の擁護(p.119)に、どうしてもそれとよく似たにおいを嗅ぎ取ってしまうだろう。グラニエは、ニーチェが歴史においてこのような「大いなる政治」を現実化しようとは考えておらず、「哲学的思想の永遠の模範的一形象」(p.120)と捉えていたと論じているが、それならばニーチェが否定した独断論的形而上学と結局いかほどの相違があるのだろうか。

村井則夫(2008)『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』中公新書

同じ思想系でも、同時期に出版された堂目卓生著『アダム・スミス』(昨年度サントリー学芸賞)の陰に隠れてしまった感がある。本書は、語りえないものを語らなければならない(語りすぎている??)ニーチェのジレンマについてひとつの臨界点を描き出す。(自己同一的存在を前提としない生成についての語り[p.211ff.]や語り手そのものの永劫回帰[p.243]、「知恵」と「生」との間の嫉妬[p.270]など) 語られた内容よりも、エクリチュールの形態に着目することは、永井によって指摘された哲学的鈍感さを超えてニーチェを理解するとっかかりくらいは与えてくれるだろうか。(メニッポス的風刺あるいはメニッピアという周辺化されたジャンル[p.61]、永劫回帰の教師[pp.268-269]) 例えば、「序説」における綱渡り師と道化師のパロディ(pp.125-126)や三種の変化(駱駝、獅子、幼子)を「物語を否定する物語」として捉える議論(pp.141-142)、ツァラトゥストラと重力の魔(p.246)など。読み手の側は、矛盾だらけのニーチェの叙述において、いわば声にしえない声を聞き取らねばならないが、同時にそれをおおっぴらに喧伝することは許されない。(それでは単なる偶像崇拝に堕してしまう) しかし、それでもなお(未知の)未来には超人が座するわけであって、いかに同一化(本質化)を避けつつ、その決定的に非同一的な像を提示してゆけるのかはツァラトゥストラ(ニーチェ)にとって大きな苦悩となろう。(「形象不可能性の形象」pp.163-164) 本書で散見される諸々の絵画はおのずとそのようなロゴスの不自由さを指し示す。(「寓意化と擬人化」pp.176ff.) 内容としてはやや細かいが、『ツァラトゥストラ』の展開に沿って分析が進められていくので筋が追いやすく、部分部分の説明も平易なので、傍らにおいて原典に臨むのがよいのではなかろうか。
posted by ta at 20:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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