2009年06月11日

橋爪『「心」はあるのか』

橋爪大三郎(2003)『「心」はあるのか (シリーズ・人間学@)』ちくま新書

「心の哲学」ならぬ「心の社会学」。ただし、著者があとがきで指摘するように、本書で言う「心」が現代哲学が対象とする心(mind)と位相を異にする「日本ローカルな問題」であることに注意する必要があろう。そこで用いられる方法は言語ゲームである。ゆえに著者は自らの専門を「言語派社会学」と呼称する。具体的には、心の非実在性を前提として言語ゲームから表出する二次的現象に心のあり方を求めるやり方である。
「心」は非対称なので、「心」を取り出すと自分の独自性が言えたような気になりますが、実はそれだけでは無内容です。それは誰でも、同じようにできるからです。「心」とは、「心」そのものとしては答えられないのではないか。むしろ、そういう問いを生み出した社会的文脈や社会的背景を理解していくときに、別の問い(たとえば、社会学)のなかに回収して答えられるしかないのではないか、というのが私の予想であり、提案です。(p.183)
試みとして一理あるし、物理主義云々といったような哲学的に込み入った話よりも正直実感がもてる。詳細は『言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』(勁草書房、1985)にて。
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内村『基督信徒のなぐさめ』

内村鑑三(1939)『基督信徒のなぐさめ(1892)』岩波文庫

著者の無教会主義には大いに共感。それでいて Jesus(信仰)とJapan(愛国心)という2つのJを説く内村の神学‐政治観は、日本に特徴的なキリスト教受容のあり方として解されている。
「…彼の汝に尽くせしは汝より報を得んがためにあらず、汝をして内に顧みざらしめ汝の全心全力を以って汝の神と国に尽くさしめんがためなり、汝もし我に報いんとならばこの国この民に事へよ…」(p.26)
「第一高等中学校不敬事件(明治二十四年)」や非戦論を唱導したことから知られるように、その愛国心のあり方は無論国粋主義的なそれではない。
「如何にして愛国心を養成すべきや」とは余輩がしばしば耳にする問題なり…愛国心[は]自然に発達すべきものなり、義務として愛国を呼称するの国民は愛国心を失いつつある国民なり、…余は国を愛する人となりて、愛国を論ずるものとならざらんことを望むものなり。(p.29-30)
無教会主義の立場から、内村はプロテスタント諸派に同情的である。その際に用いられるメタファーは秀逸。
ああ幾干の無神論者は基督教信徒自身の製造に罹るや、余はかつて聞けり、無病の人をして清潔なる寝床の上に置きしかして彼は危険なる病に罹れる患者なれば今は病床の上にありと側より絶えず彼に告ぐれば無病健全なる人も直に真正の病人となると、人を神より遠からしめ神の教会を攻撃せしむるものは必しも悪鬼とその子供にあらざるなり。(p.42)

真正の信徒ありて教会あるなり、教会ありて信徒あるにあらず、信徒は自然に教会を作るものなり (p.48-49)
ただし、寛容を振りかざすことでかえって傲慢な態度をとる人びとには懐疑の目を向ける。
余は世に「リベラル」(寛大)なりと称する人が自己のごとく「リベラル」ならざる人を目して迷信と呼び狭隘と称して批難するを見たり、願くは神よ余に真正の「リベラル」なる心を与えて世を放逐せし教会をも寛宥するを得せしめよ。(p.55)
それでも、内村はなぜか仏教に対して単純な比較以上の厳しい言葉を時に投げかける。(当時の文化的背景に疎いのでその理由は分からないが)
基督もし名望法便を利用して民を教化せしならば如何、基督教は永遠まで人霊を救うの潜勢力を有する宗教にあらずして、仏教の今日あるがごとく早やすでに衰退時代に至りしならん、…法便を利用する浅薄なる仏教信徒と大差あることなし、基督は法便を退けて彼の信者たるものに単純正直の真価値を示せり (強調は引用者、p.67-68)

(注・自殺を否定する文脈で)基督教は貧者を慰むるに仏教のいわゆる「万物皆空」なる魔睡的の教義を以ってせず、基督教は世をあきらめずして世に勝たらしむものなり (強調は引用者、p.77)
本書は人間の生の究極的ななぐさめとは何か、という極めて困難な問いを現代の読者に突きつける。ただ、著者の言葉とて依然ルサンチマンから発する価値顛倒ではないのか、という穿った見方がどうしても抜けきれなかった。それらは、「事業に失敗せし時」「貧に迫りし時」において特に感じられた。
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小田垣『キリスト教の歴史』

小田垣雅也(1995)『キリスト教の歴史』講談社学術文庫

著者の神学的立場のベースとなるのは主体的問題としての信仰である。
イエスはしばしば「譬え」を用いて弟子たちに話された。…譬えとは一意的言語によって論理的認識としてはとらえられない真実を伝えようとする文学型式である。たとえばわれわれが放蕩息子の譬えを読む場合…疑問を持つかもしれない。しかしその疑問に対する論理的解答がその譬えの中に潜められているのではない。そうではなくて、われわれがその疑問を…疑問とすることによって或る態度を自分自身でとる時に、イエスがこの譬えによって表現しようとしたことが伝わるかも分らない。言いかえれば、譬えが伝えようとすることは直接に伝達することが可能であるような客観的真理ではなく、主体的な真理であるということである。そして信仰とは常に主体的問題である。(p.47-48)
主体的真理に基づく信仰とは、哲学的に翻訳すれば、非実在論となろう。しかし、この立場は絶対普遍な神概念とどのように両立しうるのだろうか? このジレンマは、筆者が19世紀ドイツの自由主義神学を説明するときに先鋭化する。(旧―シュトラウス、バウア、新―リッチェル、トレルチなど)
もっとも、トレルチ(の比較宗教学―引用者注)は種宗教の中にあってキリストの絶対性を必ずしも否定していない。キリスト教は言わば歴史的客観的に絶対的なのではなく、キリスト教徒の確信の問題として絶対的なのだと言う。しかしこのことは、言葉の率直な意味でキリスト教は唯一の絶対的な宗教ではないということであろう。すなわち古来から主張されつづけてきたように、キリスト教は天地の創造主なる神の唯一の啓示たるキリストを信ずる唯一絶対の宗教であるとする理解は崩れ去ったのである。(p.205)
しかし、著者にとって中世的伝統への回帰が解決策にならないことも確かである。歴史的に客観主義がもたらした数え切れない害悪を鑑みればこれは当然の成り行きであろう。
…個性とか位格、本質というような概念がギリシア哲学の概念であってキリスト教本来のものではないことは不当ではない。しかし概念上の一貫性を厳密に求めようとすると、それらの概念によって表現しようとした事柄そのものに紛糾をもたらすことはしばしば起る。概念は事柄そのものではないからである。だからわれわれは、三位一体論とキリスト論という定式化された教義とか、それに用いられた概念が何を意味するかを問題にすべきであって、その論理性ないし非論理性に捉われるべきではない。(p.68)
それでも尚、著者が近代の有神論、特にイギリスの理神論をその根源において無神論的であると喝破する姿勢には共感を禁じえない。その点では行過ぎた合理主義的ヒューマニズムに対抗する自然宗教の主張とて同罪である。(pp.178, 183) 例えば、デカルトの本有観念としての神概念について、
…この場合問題は、デカルトにとって神が存在証明の対象となっていることである。これは思考の前提とされている神とは根本的に違う。神をも人間が証明しようとする場合、思考の前提としての神は言わば退場する。近代哲学の有神論は、思考の方向が逆転された後、「下から」の人間の思考に捉えられた神になる。その意味で近代は、基本的には無神論的時代であると言える。このことは啓蒙時代以降のキリスト教を考えるに当って強調しすぎることはない。この問題をいかに対処するかということが、近代および現代のキリスト教の根本的なテーマとなるからである。(p.165-166)
ここから、著者は中世的伝統と啓蒙主義というゼロサム的構図を超えた次元を模索しようとする。その端緒となるのは、逆説としての啓示理解に基づいたキルケゴールの実存主義である。著者はさらにニーチェについても好意的に論じているが、キルケゴールと比べれば多少楽観的な印象は否めない。ただ、これらの実存思想が教会の束縛から個々人の信仰の主体性をとり戻し、客観主義という夾雑物を取り除くことになった(「本来的なキリスト教を引き出している面がある」、p.224)、という認識については理解しうる。

最終章で、筆者は人知の徹底的相対性というポストモダン的状況にあって、「いかに神を語れるか」をあらためて問う。
現代神学の古典時代、すなわちバルト、ブルトマン、ティリッヒの時代には、人々はまだ神を語っていた。たとえばバルトは神は絶対他者であると語った。ポスト・モダーンの時代は、それもまた相対的な人間の言葉にすぎないと考える。このような状況を受けて、現代、神の死の神学、解釈学的神学、解放の神学、プロセス神学、フェミニスト神学、脱構築的神学等、さまざまな試みがなされているが、これらの神学は、この人間の知識の徹底的相対性という状況にいかに正確に対応するかという規準によって、次第に整理されていくだろう。(p.252-253)
無論これらはいたっておおざっぱな言及に過ぎないが、同時に著者は「自己の信仰が多くの中の一つ、つまり相対的なものだということに甘んずるのは宗教の自殺である」(p.253)と断じている。そうであるからこそ、「自分の立場は絶対的でありながら、その絶対性についての主張を超える水準」(p.254)を追究しなければならない。西田の絶対矛盾的自己同一やハイデガーの無の哲学が直後に論及されるのもそのためである。
近代合理主義におけるような人間の自己中心主義は、宇宙の全体性から見れば一つの仮構であり、虚構であることは、キリスト教はもとより、およそ宗教というものの本質的自覚である。信仰と言い、覚と言っても、それは結局その事実を諒解することに他ならない。自分が社会の中心ではなく、人間が宇宙の中心ではないという自覚が信仰であると言える。してみると近代の人間中心主義の矛盾が露呈している現代は、その非宗教的相貌にもかかわらず、きわめて宗教的な時代であると言えるかもしれぬのである。(強調は引用者、p.255)
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