2010年02月11日

鈴木『日本語と外国語』

鈴木孝夫(1990)『日本語と外国語』岩波新書

外国語学習ではそれぞれの文化的背景を同時に学ばなければ、実践において時に致命的なミスを犯すことになる。こういったことは、「国際化」や「国際交流」などの風潮と相俟って、多くに人々にとっては既に常識だろう。(もちろん、今は猫も杓子も「グローバル」である。けれども、「地球〜」とか「グローバル〜」の語を冠した公的施設は、企業名を別として、なかなか見当たらない。確かに語呂は良くない気がするが。そういえば、「世界〜」というのも割合少ないように思える。) ただ、後半で展開される「漢字の知られざる働き」には学ぶところが多かった。「表音文字としての日本語」の限界(貧弱な音節構造と抽象的な意味構造)とそれを補う漢字の機能(音訓の二重読み)から、日本人の識字率の高さを説明できるというのはなかなか刺激的で、このような背景があるからこそ日本の英語教育は記述偏重になってしまうのではないか、と考えさせられる。とにかく、日本人は英語の発音が苦手だ。その点、多少おかしなイントネーションでも、(音素の種類と音節構造の単純さから)外国人が話す日本語は理解できてしまうので、なんとなく損をした気分になる(これは日本人の謙虚さと寛容さがなせる業なのかもしれないが)。
ことばというものは、出来上がり固形化した作品、ギリシャ語でのエルゴンとしての面をもちながら、同時に深いところでは絶えず認識対象に働きかけ、動的に新しくそれを掴みなおそうとする挑戦を止めない、一種の精神的な活動力(エネルゲイア)でもあるという側面を併せもつために、ある時は広く、ある時は狭くも使われるといったような、いわば伸縮自在の、末広がりで底なしに開いた構造をしていると考えられる。(p.62-63)
ことばをめぐる世代間闘争(?)が止むことがないのも、この性質のためであろう(このように言ってしまうと、その時代の単なる誤用にすぎないものが、なにかしら高尚な働きによるものと錯覚してしまうかも)。
…音声とは聴覚が利用する記号素材であって、当然のことながら、それは人間の耳の持つ弁別(識別)能力に左右される。ところが、耳は目に比べてはなはだしく性能の劣る感覚器官なので、あまり細かな情報の差異を区別することは難しい。(p.196)
本当に目(視覚)は功罪両方を併せ持つ。もちろん、包丁のようにそれ自体に悪気はないのだが、「百聞は一見に如かず」などという際にも、「だからこそ判断は慎重に」と一言付け加えたくなる。目というものがなければ、世界の差別の多くが姿を消すのではないか、そんなことも考えてしまう(もちろん、目だけではなく身体ひいては周りの環境の総体性を考慮に入れなければならないので、このような仮定はそもそも無意味である)。

蛇足だが、岩波にしては、本書の結論は保守派の喜びそうなものである。しかし、筆者の主張がイデオロギーや心情を排した、言語の機能的(機械的)側面に着目したものであることには注意が必要だろう。(p.35, 135)
posted by ta at 16:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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