2008年08月03日

佐々木『近代政治思想の誕生』

佐々木毅(1981)『近代政治思想の誕生―16世紀における「政治」』岩波新書

2006年に復刊したもの。マキアヴェッリに端を発する、近代政治学への大転換期を個別の思想家を取り上げて描く。以下、まとめ。

T. クロード・ド・セセル(c1450-1520): 「ヨーロッパ政治思想の一つの範型。政治社会を一定の秩序やルールを共有する人間集団=政治共同体と考え、権力や支配をその枠内での一契機として捉える態度」(p.28); 所与の神的・自然法的・理性的全体(秩序)、つまりはフランス王国、という大きな枠組みがそもそもあって、王権いえどもその枠を侵し、僭主的に振舞うことは許されないが(王権に対する三つの拘束)、同時にそれは牢固な身分制的秩序をも含み、諸身分間でのプラトン的調和を達成することが求められる。ただし、伝統的な自然法秩序、それそのものの実効性に対しては懐疑の目を向け、近代政治思想の萌芽とも捉えられる、手段における経験主義、現実主義の立場(技術的改良)をとる。また、軍制に関して、傭兵制を批判し、貴族と平民からなる共和主義的(金ではなく、忠誠に基づく)軍隊を提案した(マキアヴェッリの軍制改革と比較せよ)。マキアヴェッリ以降の記述は、このセセルの思想を基準として展開されていく。

U. ニッコロ・マキアヴェッリ(1469-1527): セセルにおいては絶対的であった神的全体(治者と被治者の共同参加による秩序)は否定され、マキアヴェッリの神は運命と並んで、偶然的ファクター以外の何物でもなくなる。その上で、性悪説(野心と貪欲)に立ち、力(つまりは、被治者の側での恐怖)と法による秩序形成、人間の組織化を訴えた。更に、stato, principe, dominioという言葉に端的に表われるような「新たな政治学」、つまりは近代政治学の祖という位置付けがマキアヴェッリにおいてなされるが、これはセセルのpolitico, civileで表わされる伝統的(倫理学的)政治学との鮮やかな対照をなす。この対比は伝統的政治学が内政中心のアプローチ(秩序内部における諸身分の調和)をとっていたのに対して、マキアヴェッリが軍事・外交中心のアプローチに傾斜することにも現れている。これは、セセルのフランス王国がそれ自体で一つの共同体的秩序もしくは正義をなしていたのに対し、マキアヴェッリのフレンツェ共和国は、支配者たるフレンツェ市民と被支配者たる周辺領域(コンタード)民からなっていたために、statoはまさに、前者の後者に対する物理的支配(軍事・外交)の問題として考えなければならなかったからだ(1494年から続いたピサの反乱を考えてみよ)。しかし、その意味では、この周辺領域の農民(=臣民)から構成される共和国軍の提案は極めて奇妙なものに映らざるを得ないだろう。ただ、マキアヴェッリはこの矛盾について正面から答えることはしていない。

セセルとの根本的な政治的思考様式の相違をとり上げて、著者はマキアヴェッリのそれが、「(セセルが前提としたような神的)共同体という外枠を全く欠いた…支配服従関係の世界」(p.50)と評する。しかし、自然法のような善悪の基準としてのキリスト教的秩序観が彼に存在しなかったのは当然だが、古典的な共和国理念まで人文主義者マキアヴェッリにおいては失われていたのだろうか? この疑問は、言い方を変えれば、マキアヴェッリにおける、statoとrepublicaの関係の問題に帰着する。以下に著者による理解をまとめておこう。一言でいえば、マキアヴェッリが行ったのは、stato優位の下でのrepublicaの手段としての改鋳である。まず、彼は人間の改造・教育、良きエートスの実現という伝統的共和国に課せられた使命を忘れない。しかし、それは市民の対外的平和や経済的余裕に発する「安逸」によるのではなく、窮迫と対外的危機によって市民が「必要に迫られる」形になって初めて実現・維持しうると考えた。そして、そのような形でのエートスの実現に適した共和国の類型を、ローマ共和政に求めている。彼は、自足的で「維持型」のスパルタ-ヴェネチア型貴族政と、非自足的で「拡大型」のローマ型民衆政を対比し、前者よりも内政上の弱点を抱える後者の類型を支持した。この判断が意味するところは2つある。この共和国が非自足的である以上、「不断に…外に向かって闘い、拡大す」(p.70)る他ない。これが、先ほどの議論にあったような良きエートスの実現・維持に貢献する。もうひとつのより重要な点が、アリストテレス主義との決別である。非自足的な共和国は、両者の対照的な人間観に加えて、ポリスにおける倫理的、知的卓越性の実現という目的にそもそもそぐわない。マキアヴェッリの共和国に必要とされるのは、「「善良さ[お人よしさ?]」と実践的有能さ(ヴィルトゥ)」(同項)であり、それらが支える共和国の「偉大さ」である。そして、人びとに対しては徳の実現よりも野心や貪欲さの矯正が重要となる。

しかし、この共和国の偉大さがマキアヴェッリが最終的に目標とするところではない。言い方を変えれば、彼にとって君主政であるか共和政であるかは副次的な、手段的な問題であるのだ。彼が「新しい政治学」、すなわちarte dello statoを主張したのは、なによりもstatoそれ自体の拡大によって政治的不安定の最中にあったイタリアを統一し、「平和と安全」(p.74)を回復するがためであった(その意味で、著者はマキアヴェッリをイタリア人文主義者の鬼子と呼ぶ。その他の見方にとしては『君主論』と『ディスコルシ』を参照)。ここに、statoとrepublicaの間の優劣が決定的に現れる。人びとが「安逸」の中に堕することを嫌った彼が、「平和と安全」を究極の目標とするのはなぜだろうか。非自足的で無限の拡大を続ける共和国の姿と統一イタリアという完結した像はある意味悖理ではないのか。これらの疑問はこのような位置関係を弁えれば一気に氷解する。さらに、セセルの王国においてはすべての身分が共同体の運営に際してそれ相応の役割を担ったのとは異なり、マキアヴェッリのstatoでは、その責務は支配者のみが負うものであって、被治者には私的、経済的活動の自由が許容される。その秩序は外面的・物理的なものにとどまり、人びとの内面に立ち入るような、宗教的・倫理的教化は必要とされないからである。これは、別の角度から見れば、マキアヴェッリの政治思想におけるリベラリズムの契機に他ならない(バーリンも、筋道は異なるものの、同じ結論に至っている。「マキアヴェッリの独創性」参照)。

前半だけで長くなりすぎたので、残りの部分については、転換の大まかな道筋を追うだけにしておく。

V. トマス・モア(1477-1535): モアについては、主著『ユートピア』のさまざまな解釈にも示されるとおり、人文主義者としての姿や、現実政治に向かう改革者としての姿など、その思想については大きなブレがある。ただ、後期にあって、ルター派や国内での宗教改革との対決は彼をセセルと同じく(神的秩序の実効性への懐疑という点でも)、伝統秩序擁護とその枠内での改革の立場へと走らせた。しかし、彼の断頭台での死が如実に語るように、セセルの時代では自明とされた、「一つの信仰、一つの法、一つの王」という確固たる枠組みは既にその基礎を失っていたのである。そして、それを更に徹底させたのが宗教改革に端を発する宗派間闘争であった。

W. カルヴァン(1509-1564)とその弟子たち: まず、カルヴァンにおいては、「真の宗教」の名の下に、世俗権力の(可視的)教会への従属・奉仕が論じられるが、それとは矛盾する霊的統治と肉的統治の区別の観点から、臣民には王権への絶対的服従が説かれ、神に反する命令を理由とする抵抗権は認められない。これに対して、その弟子である、ジョン・ノックスはこの服従論から決別する。彼の抵抗義務論は、世俗権力やあらゆる人的制度にたいして「真の宗教」を優越させ、カルヴァンでは認められなかった「下からの」ジューネーヴ・モデル実現を迫った。

「真の宗教」の絶対的優越は、セセルが前提とした王を頂点とした秩序体制を有名無実のものとし、宗派の分裂は「宗教の統一を前提にして正義を尊重するという政治の見方」(p.148)を成り立たせなくしてしまう。このことは、別の言い方をすれば、政治の固有の領域が失われてしまったことを意味する。以下に続く二人の思想家の試みは、まさにそういった政治の復権を目指したものであった。

X. ミシェル・ド・モンテーニュ(1533-1592): モンテーニュにとっては、対立する諸宗派は情勢が変化するたびにお互いに「その政治理論を交換し、極めて機会主義的に行動した」にすぎず、「全ての象徴が欲望と野心との仮面で」(p.164)あった。そして、王侯を取り巻く宮廷人らはその奉じる教義のためではなく、まさに彼ら自身の見かけの栄誉のために戦乱を助長している、と痛烈に批判する。そこで、彼は、その著『エセー』において栄誉や名声といった妄想ではなく、健康、清明、平安といった「実質的で、本質的な幸福」(p.168)を追求することの重要性を説く(マキアヴェッリと比較せよ)。ここから、アナーキーを齎す可能性のある改革、革新の試みに対して、習慣の重要性を説く、保守主義の精神が出てくるのである。モンテーニュは、カトリック教会を擁護したが、それはなんら神学的根拠に基づくものではなく、その外面的な機能に着目したものであった。また同時に、王権への服従を強調し、国民にとって最も優れた政体とは「国家を維持してきた政体」(p.173)であると主張した。ここで留意すべきは、モンテーニュの政体論には、セセルにあったような社会秩序の神聖性が全く消え去ってしまっていることである。その意味では、極めてマキアヴェッリに近いといえよう。更に、「正しいこと」と「有益なこと」の厳然な区別は、「モンテーニュのマキアヴェリズム」(p.176)と呼ばれ、マキアヴェッリがそうしたように、ここに付きまとう倫理的・道徳的リスクを、彼の言うところの「逞しい人」に負わせるのである。あと、付け加えておくべきは、彼が寛容政策を支持したことであり、その意図をなによりも残虐さの軽減においていたことは、現代における非基礎付け主義的倫理観に通じるところがあるだろう。

Y. ジャン・ボダン(1529/30-1596): 彼の主著『国家論』における2本の柱が、主権論と「正しい統治」である。彼は前者において、マキアヴェッリのstatoの概念に近い(逆に、セセルからは遠ざかる)、端的な支配服従関係を説き、その統治の善悪をカッコに入れた。そのため、アリストテレス的な複数の権力の抑制均衡の上に成立する混合政体を否定する。しかし、彼は「正しい統治」において、王権が自然法を軽視する暴君的形態に陥らないよう、主権の制限を同時に説くのである(親アリストテレス、反マキアヴェリズム)。ここに、一見すると矛盾する立場が現れる。この矛盾を解く鍵は、ボダンが「アナーキィはいかなる暴政よりも悪い」(p.201)とする態度である。彼はなによりも、平和と安全を保障する強力な主権の樹立を目指した。そして、そのことは臣民の抵抗権をも否定することにつながる。あと、特徴的であるのは宗教に対する視点であり、彼は「真の宗教」を神学的にではなく、政治的・社会的(若者に対する教会の教育的機能など)に捉え、極めて機能的・実際的な政策提言を行っている(モンテーニュとの近似、ただし、彼には国家をも包括した宇宙論的神学観があることも指摘される)。

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結局、恐ろしく長くなった。。。orz
posted by ta at 09:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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