2008年11月22日

佐々木『プラトンの呪縛』

佐々木毅(2000)『プラトンの呪縛 二十世紀の哲学と政治』講談社学術文庫

プラトン解釈の現代史をヴィヴィッドに描いてきた本書にとしては、最後の「警告者」プラトンの描写はどうも尻すぼみの感が拭えない(このことを感じてかどうかは知らないが、学術文庫版のあとがきにかえられた「プラトンと現代」においては、より突っ込んだ主張がなされている)。しかし、このことは、かえって、われわれのリベラル・デモクラシーに対する安逸な態度を暴露している、とも言えよう。それほど、「警告者」というイメージが、「おっせかいやきの隣人」程度に、現代人にとっては五月蝿く映る。そもそも「警告者」の任は、プラトン、ひいては徳論を中心に打ち立てられた古代の倫理学にのみ与えられた「特権」ではない。それは実に様々な姿を取りうる。素朴な自然人から、古代ギリシャ・ローマの自由市民(共和主義者)、質素・勤勉を体現したピューリタニズム、日本で言えば、丸山の描く気概に満ち溢れた武士的・貴族主義的エートスもそうである。しかし、プラトンがこれらの他の「警告者」から一線を画すとすれば、それはなによりも偉大なる師ソクラテスから受け継いだ、安逸な伝統墨守を打破するアイロニカルな懐疑的態度、エロスに導かれた愛智(求知)の実践、そしてその方法としてのディアレクティケーであろう。プラトンのソクラテス(ソクラテスのプラトン)は、それこそ本書で描かれていたように既に見極めた真理、もしくは「〜すべし」を単純に押し付けて終わる思想家では決してなかった。無論、『国家』や『政治家』といった対話篇が独善的なドグマの押し付けと捉えられうる危うさを持たない、というのは嘘である。しかし、他方で『エウテュプロン』や『テアイテトス』のように、「〜とは何か」という本質的な問いかけに対する窮極的な答えを提示することをせず、対話そのものにとしては未完成に終わっているものがあることにも注意する必要がある。このことは何を示すのであろうか。プラトンが独善的なドグマの押し付けを旨とする思想家であるならば、このような対話編を書くことこそ時間の無駄であり、更に言えば、古典文学の傑作とも言われる『饗宴』や、『ソクラテスの弁明』と『クリトン』において師の揺るぎない信念に基づいた生をそれこそ描く必要もなかったであろう。ここから、まずわれわれが学ばねばならぬことは、ディアレクティケーが常に成功裡に終わり、真理に至るわけではない、ということである。われわれが森羅万象あらゆる事象を知ることができないのはもちろんのこと、最も基本的な事柄(さしずめ、われわれ自身)についても実は何も知らないのだということを、まず自覚せねばならない。そのために、また、だからこそ、われわれは謙虚でなければならない。自らが決して知り得ない、触れ得ないものがあることを認め、敬虔でなければならないのである。プラトンの対話編は真理やドグマの書ではない。それは、人間的生についての指針である。そして、それが教える生きかたは紋切り型の「〜すべし」ではなく、豊かな可能性が潜む、まさにリベラル・デモクラシーがその根拠として必要とすべき生きかたであるとも言えよう。

余談だが、「プラトンと現代」において氏が、現代の政党に対して、その政治家(リーダーシップ)養成能力の衰えを指摘するとき、氏のある種の政治的野心を垣間見るのは穿った見方であろうかw
posted by ta at 05:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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