2009年01月11日

大江『性的人間』

大江健三郎(1968)『性的人間』新潮文庫

性関係の著作を続けたので、次にたまたま家にあった大江の著作を読んでみた。いわゆる実存主義を思想的背景に持った作品である。サルトルの名が出てくるのは、最後の『共同生活』だけだが、最も露骨に実存主義的表現が散見されるのは『セヴンティーン』だと思う。「自意識」としての対自存在・実存。その自意識が撒き散らす「無」。猫に表象される即自存在。見られる者と見る者の間で錯綜する「まなざし」。ただ、サルトルは共産主義者であったが、主人公の少年は《右》少年である。彼は劣等感に苛まされて他者のまなざしにおびえる実存を、神秘的とも言える体験を通してニセモノの即自存在、他者にまなざしを向ける存在へと転換させた。実存はいかなる政治的・道徳的価値判断、すなわち本質に先行するが、それは裏を返せば、左右のそのいずれの政治的ラディカリズム(もしくは極端論主義)にも転びうる決意性や神秘性といったような危うさを持つということなのだろう。すなわち、大江の政治的人間と性的人間の対極性の図式においては、『セヴンティーン』での《右》少年と『性的人間』での痴漢少年はコインの両面なのである。ならば、巻末で解説者が述べるように、「『セヴンティーン』の片端な航行とは対照的に、[『性的人間』]がなんの支障もなく世に出て…いわばうまく受入れられてしまった」(p.233)という状況の奇妙さにも合点がいく。1960年前後の日本社会が性的人間の時代であり、政治的人間の頽廃が疑問なしに受入れられている、という大江の時代認識は、右だけではなく、左に対する痛烈な批判の表明でもある。左右の極端論主義は、人間が対自存在としての実存的あり方から逃れられない限り、どこまで行ってもニセモノの政治性しか生み出さず、自己満足の領域を出ることはない。そこから逃れる唯一の手段は、まさに『性的人間』の痴漢少年が辿ったような(自演自作の)英雄的死、すなわち自己破滅的行為でしかないのである。少年は、自らの痴漢体験(彼が《厳粛な綱渡り》と呼ぶ)を詩にすること当初計画していたが、それでは結果的に満足を得ることはできなかったであろう。彼がJと老人に出会って、痴漢クラブの救助専門の係りとして時間を共にしたことは、そのことを確信するのに決定的な意味を持ったはずである。しかし、彼は二度目の大冒険の決行直前にJと老人に、必要がなかったにもかかわらず、会いにきた。彼は会いに来ざるをえなかった。そこに、やはり無に怯える人間の実存の弱さを垣間見るのではなかろうか。
posted by ta at 20:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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