2009年01月13日

レオ・シュトラウスは自然主義者であったのか?

(09.3.20四訂)
(09.2.9 三訂)
(09.1.29改訂)
前回のザッカート夫妻の解説を読んで、ここでもう一度、國分功一郎氏の『思想』論文(「自然主義者の運命―シュトラウス、ドゥルーズ―」)を検討してみたいと思う。夫妻の説明に従うならば、シュトラウスの哲学的政治においては、哲学者は政治や社会に積極的に関与しようとする人々ではない。彼らは良く言えば極めて自制的である(そこに、シュトラウスがなによりもソクラテス以前の哲学者とソクラテスを区別する意義があった。NRH, p.123)。(1) そうであるならば、國分氏が指摘するように、「シュトラウスの考える哲学はコンヴェンショナリズムに対しては武器にはならない」(國分, p.344)のは当然とも言える。というよりも、そもそも哲学者は積極的に理論を組み立てて自らの哲学を防衛する必要には迫られない。このような両者のシュトラウス解釈の違いはどこから出てくるのであろうか? 端的に言えば、それはシュトラウスを自然主義者と捉えるかどうかにかかっている。夫妻の解釈からすれば、シュトラウス(の哲学者)は自然主義者ではない。それは、典型的にソクラテス以前の哲学者を意味するからだ。では、なぜ、國分氏はシュトラウスを自然主義者と捉えるのであろうか?ごくごく形式的に答えるならば、一読すれば明らかなように、氏がシュトラウスのソクラテスについて沈黙してしまっているからである。そのことを示すように、論文には、『自然権と歴史』の第四章(以降)への言及が一切見当たらない。つまり、氏の視野に入ってくるのは形式的にはシュトラウスのルクレティウスまで、ということになる。では、なぜ第四章(以降)は考慮の対象外となってしまったのであろうか?論文の主旨は「自然の発見としての哲学」をテーマに、シュトラウスとドゥルーズという二人の自然主義者を『自然権と歴史』の第三章によって媒介させることにある。そして、政治社会(または神話、コンヴェンション)に対して両者の哲学が取りうる姿勢の違いを、明らかにすることであった。このことを前提とした場合に、氏はシュトラウスのソクラテスを鑑みる必要性を感じなかったのであろう。シュトラウスの考える自然的正を振りかざす哲学はコンヴェンショナリズムに対して原理上武器にはならない。それは、ソクラテスであっても変わらない。しかし、ここで奇妙なことに気付く。そもそも、シュトラウスはその無力さに気付いていなかったのであろうか?必ずしもそうではない。彼はあきらかにコンヴェンションに対する哲学の無力さを認識していた、いやむしろ確信していた、と言うべきだろう。そのことは、國分氏自身がシュトラウスのルクレティウスに言及することで証明してしまっている。(2) ルクレティウスの哲学者(自然主義者)の運命は、都市国家に受入れられず隠遁生活を送らねばならないことであった(NRH, p.83)。氏はこれがシュトラウスの創作であること確認している(國分, p.358)。ならば、哲学の無力さを痛感していながら、どうしてシュトラウスは無益な自然的正の議論を続けたのであろうか?この問いこそが、シュトラウスの哲学的意図をその根底から理解する鍵であるように思われる。

ここでは、ザッカート夫妻に倣って以下のような仮説を提示しておきたい。つまり、シュトラウスの『自然権と歴史』は不特定多数の読者ではなく、哲学者、より正確に言えば、潜在的哲学者に向けて書かれた著作であり、そこで彼は社会(都市国家)における哲学者のあるべき振る舞い方を説いている、という仮説である。古代の都市国家においては、その宗教的規範が正常に機能している場合、哲学者は、ルクレティウスがそう描かれたように、歯牙にもかけられず、反対に人びとの反感を買い、良くて隠遁生活、最悪の場合、殺されかねなかった。しかし、シュトラウスが青年時代を生きたドイツはそうではなかった。ニーチェがそれまでの哲学的伝統を打ち砕いたのち、第一次大戦の壊滅的敗北によって、人びとは閉じられた「世界の城壁」(NRH, p.112-113)が既に崩れ去っていることに気付く。そして、その深刻な精神的危機の中にあって、彼らは哲学に対して憤るどころか、逆にそれを欲したのである。シュトラウスの目にはハイデガーが映っていた。無論、ハイデガーの哲学が実際にどれほどの影響力を持ちえたのかは議論の余地があるだろう。しかし、シュトラウスは、哲学による政治社会への安易な干渉を許すそもそもの元凶となった、実証主義、歴史主義(実存主義)、相対主義に対して非常な危機感を覚えた。人びとは「城壁」を必要とする。しかし、それはそもそも哲学によって支えられるべき代物ではない。むしろ、「自然の発見としての哲学」はそれを破壊するものでさえある。しかし、近代啓蒙主義者はそのことを認めなかった。彼らは「城壁」を哲学によって支え、そのことによって新たな権威を生み出そうとした。そのために、彼らは哲学を、ソクラテスがそうしたのとは違った意味で、天上から引き摺り下ろしたのである。シュトラウスが自然的正を主張したのは、近代啓蒙の悪しき残滓を打払うことで、哲学を再び天上へと戻し、政治に対する哲学者の自覚と責任を取り戻させるためであった。彼は、都市国家との関係構築において、ソクラテスに倣った。アテナイによって涜神の罪で殺されたにも関わらず、である。そして、そのエッセンスが『自然権と歴史』の第四章において説かれているのである。シュトラウスはこの部分において、哲学者が「狂気」から「正気」、「節制」へと立ち戻ることを訴えた(NRH, p.123)。彼はその意味で自然主義者ではなく、政治哲学者であった。人間が本性的に社会的存在であり、それは自らの振舞いが原則、社会的に拘束されているという自己知を持った哲学者であった(NRH, p.129)。しかし、それでも、われわれはここにひとつの皮肉を見る。すなわち、彼が古代人への回帰を志すきっかけとなった原体験とは、先述したように「城壁」が失われた時代と場所の経験であった。そのため、彼は歴史主義を批判したにもかかわらず、その元となった経験および思想的地平そのものが歴史的状況に縛られていた言うこともできるからである。ただ、ここで一つだけ指摘しておきたい。政治哲学者としてシュトラウスを見た場合、果たして國分氏の言うような形でドゥルーズとの対照性を看取することができたであろうか?つまり、ポストモダニズムが近代啓蒙による「城壁」の肥大化を糾弾する態度の表明であるとするならば、シュトラウスとドゥルーズはむしろ同じコインの表と裏であるように思えて仕方がないのだ。

以上述べたことは、あくまで仮説にとどまるので、立証は別の機会に譲らねばならないが、ここでは、シュトラウス解釈の上で國分氏の論文に見られた誤りを指摘しておくにとどめたい。ひとつは、アリストテレスの『形而上学』において「愛知者=哲学者」と「神話愛好者」の区別のためにシュトラウス(とドゥルーズ)が参照している箇所について、「それらの箇所を単に総合するだけでは自然の発見としての哲学という考えは導き出せない」(國分, p.355)としている部分である。この言明はある意味正しい。しかし、それは独特の解釈を必要とする、という意味ではなく、西洋哲学史の教科書的解釈を必要とする、という意味においてである。アリストテレスが最初の哲学者としてタレスに言及したのは、「神話愛好者」との類似性を強調するためではなく、まず両者を区別するためであった。いわゆる、ミュトス(神話)からロゴス(論理・理性)へ、という一大転換のことである(デリダはこの区別をもちろん否定しなければならないだろうが)。もし、国分氏の言うとおりならば、シュトラウスはこの教科書的解釈をわざわざ否定する形で『形而上学』を参照し、その部分に独特の解釈を加えた上で、結局は教科書的解釈に立ち戻った、ということになる。これが果たしてテクストの自然な読み方であろうか? むしろ、この独特の解釈という独特の解釈を氏が付け加えたのは、シュトラウスの自然主義者としてのイメージをより強く印象付けたいという意識が先走りしたため、ということができまいか?

もうひとつは、シュトラウスのルクレティウス解釈に言及する部分である(國分, p.357-358)。氏はルクレティウスの苦々しい哲学的事実、すなわち「にがよもぎ」を、自然的正に基づいた社会は形成されえないという事実、つまりはコンヴェンショナリズム(360頁では偽の無限もしくは神話が権力者に利用されたという事実)に一致させているが、これは誤りである(LAM, p.83-5, 91-3などを参照)。ルクレティウスが教示する哲学的事実とは、氏も知るとおり、古代原子論であり、その著『物の本性について』の最大の目的は、シュトラウスによれば、「人々を宗教から解放すること」(LAM, p.131)であった。(2) その意味では、氏はシュトラウスのルクレティウス解釈において、哲学者のあきらめと偽の無限ではなく、哲学と政治(都市国家)の対立というテーゼを第一に読み取らねばならなかったのである。

あわせて、ともすると誤解を招きかねない表現も二つほど指摘しておこう。ひとつは、「自然を宇宙全体とか世界全体(「現象の総体」)といった意味で理解してはならない」(國分, p.341)という言明である。確かにシュトラウスは本文中の指摘された箇所でそのように語っている(NRH, p.82)。しかし、『自然権と歴史』83頁、注3において、「区別を表わすことば」としての自然以外に、「第一存在」としての「自然」にも言及していることについて注意が必要である。その際、彼はプラトン『法律』篇の二つの箇所を参照するよう読者に促している。ひとつは891c1-4であり、もうひとつは892c2-7である。前者は「第一存在」(すなわち「自然」)として火や水や土や空気を主張した人びとに言及する場面で、後者はそれらの物質の前に魂が存在することを主張した人びとについて語る場面である。このことから、「第一存在」としての「自然」はイオニア自然学に由来し、もうひとつの自然はソフィスト的アンティテーゼ(アンティポン、プロタゴラス)に由来するということができよう。

もうひとつは、本エントリの冒頭でも引用した「シュトラウスの考える哲学はコンヴェンショナリズムに対しては武器にならない」(國分, p.344)という部分である。もちろん誤りではないが、ただ、最初の哲学者がコンヴェンショナリストであったということを今一度確認しておくべきである。シュトラウスは古代世界における哲学と都市国家への関わり方について、大きく三つの立場を明らかにした。それらは、『自然権と歴史』第三章で扱われる、哲学的コンヴェンショナリズム通俗的コンヴェンショナリズム、そして第四章で取り上げられる、政治哲学者の立場である。シュトラウスによれば、ルクレティウスは哲学的コンヴェンショナリストであり、それはソクラテス以前の哲学者をモデルとする(NRH, p.115)。したがって、彼らが神々への言及なしに万物の「始原」あるいは「第一存在」の探求を始めた人びとであり、「区別を表わすことば」としての自然を発見した最初の哲学者であるがゆえに、彼らを自然主義者と呼ぶことについてはまったく差し支えない(というのは、シュトラウスはこのような呼び方をしていないからである)(NRH, p.82)。この哲学的コンヴェンショナリズムの堕落した形態が、通俗的コンヴェンショナリズムである。 シュトラウスはこれを「ソフィスト」に宛がう。ソフィストは自然主義者と異なり、そもそも哲学的真理への関心を示さない。彼らが関心を示すのは、内容に関わらず彼らの名誉を高めてくれる見せかけの知識である(NRH, p.116)。しかし、知識は哲学的知識である以上、見せかけの知識というものはそもそも形容矛盾である。したがって、彼らは早晩、単純な相対主義的立場に陥らざるをえない(NRH, p.117)。最後の政治哲学者の立場というのは、ザッカート夫妻の解説で十分に述べられたとおりである。シュトラウスによれば、それはソクラテスによって始められた(NRH, p.120)。ただ、自然主義者と政治哲学者の違いは、哲学的政治の有無にとどまるものではない。前者がその真偽を問わず何らかの哲学的教義を持っているのに対し、後者は確信に至りつく保証のない探求の生、つまりせいぜいがひとつの生き方を提示できるだけである(NRH, p.125)。

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(1) 以下、引用部分について『自然権と歴史』はNRH、『リベラリズム 古代と近代』はLAMと略す。
(2) ところで、シュトラウスはこの隠遁生活について事態を幾分抑制的に描いているともいえる。われわれはもちろんアテナイの民主政によって死刑を宣告されたソクラテスを知っている。また、古代社会において、いかに哲学者が珍奇な存在として扱われたか、アリストパネスの『雲』やプラトンが『テアイテトス』で語ったタレスの逸話(174a)などを考えれば明らかであろう。以後の歴史においても異端が正統派から迫害を受けた例は枚挙に遑がない。そして、シュトラウスにとっては哲学者こそが最大の異端であった。

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(09.2.9 追補)
ここまで、幾つかの点を指摘してきて、以下のような反論が提起されるかもしれない。すなわち、「國分氏は、シュトラウスが提示する自然主義者像をドゥルーズのそれと比較しただけであって、シュトラウス自身を自然主義者と捉えたわけではない。つまり、シュトラウスによって否定的に解釈された自然主義者の役割を批判的に吟味しているだけだ」、というものである。残念ながら、氏は「自然主義者シュトラウス」と言明してしまっている(國分, p.358)。自然主義者の検討を通じて彼の哲学観もその視野の収めているのである。氏のシュトラウス像は、ひょっとすると、「自然の発見としての哲学」にあまりに囚われすぎてしまったがゆえの産物かもしれない。誤解を恐れずにいえば、「自然の発見」と「哲学」の間にそもそもなんらかの因果関係が成立するわけではない。例えば、氏も引用している『自然権と歴史』の第三章、冒頭箇所を見てみよう。
Aristotle calls the first philosophers simply “men who discoursed on nature” and distinguishes them from the men who preceded them and “who discoursed on gods.” Philosophy as distinguished from myth came into being when nature was discovered, or the first philosopher was the first man who discovered nature. (NRH, p.82)
下線の単語(“when”)に特に注意して欲しいのだが、この箇所からせいぜい読み取れることは、「最初の哲学者が最初に自然を発見した人びと」、ということであって、「自然を発見したがゆえにその人びとが哲学者と呼ばれるようになった」とまでは解釈できない。つまり、「哲学」の定義と「自然の発見」の定義は根本的に区別されねばならない。したがって、その直前の箇所である、“The discovery of nature is the work of philosophy.” (NRH, p.81)から、氏は「哲学という営みは自然の発見を前提にしている」(國分, p.340-341)と推断しているが、これは行き過ぎた解釈なのである。氏も認めるとおり、「哲学」は、万物の「原理」、すなわち「ロゴス」の探求を原義とする。ここまで来れば、氏がなぜシュトラウスを自然主義者と呼んでしまったのかが理解できるであろう。つまり、氏は「哲学=自然の発見」という確信に囚われてしまったがために、「哲学者=自然主義者」という枠の外へ一歩たりとも出ることができなかったのである。(3) このことは、『自然権と歴史』の第四章に氏が言及の必要性を感じなかったことからも明らかだが、その深みには、先に指摘したシュトラウスの自然概念(「第一存在」としての「自然」)に対する十分とはいえない理解が存在している。

ただ、氏の論文が抱える問題は実はもっと根深い。それは、論文冒頭における、「哲学は必要だろうか?」(國分, p.339)という問いかけに端的に表れている。この問いかけは、シュトラウスの哲学観を理解する上では誤った導入になりかねない。そもそも、哲学は外部の目的のために為される営みではない。少なくとも、シュトラウスはそう考えている。彼は、近代における「哲学の政治化」(NRH, p.34)を痛烈に批判している。これは、彼の認識論的前提がこの現象を批判しうる立場に立つからこそ可能となるものであろう。それは、アリストテレス的な理論と実践の二元論である。シュトラウスが進歩史観を批判し、政治哲学の歴史的理解を重視し、古典的哲学への回帰を試みたのも、ここに理由がある。それを単に懐古趣味として切り捨て、その認識論の深みにメスを入れないままでは、本当に表層の理解に止まってしまうことになる。稚拙なものになるが、以下の図を見て欲しい。

理論と実践の二元論

近代以降の理論と実践の関係は、いずれもどちらか一方が他方を志向する関係にあった。近代政治哲学は理論(哲学)を実践(政治)に対する武器としたが、ニーチェやハイデガーは逆に実践(実存)から理論(独断論的形而上学)を糾弾した。この構図はそれ以降の現代(フランス)思想においても基本的には変わっていない。むしろ反ロゴスの立場はかえって哲学を先鋭化させているようにも思える。シュトラウスはこのような志向的関係そのものを問題視した。そのため、彼は古典古代に回帰せざるを得なかったのである。(4) したがって、彼が「政治哲学(political philosophy)」を語るとき、その都度、定義には十分な考慮を払わなければならない。われわれは彼の考える認識論的立場にそのままでは立てないからだ。(5)(6) その意味で、氏のドゥルーズとシュトラウスの比較はこの点を掘り起こすことなしに全く表面的な議論に終始してしまっている。下手をすれば、ドゥルーズ自身の見識にも疑いの目を向けさせてしまうことになりかねない。

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(3) それはドゥルーズとシュトラウスの比較を論文のテーマとして選択したこととも無関係ではないであろう。両者が比較される土俵は「自然」をめぐるものでしかないからだ。
(4) 古典古代においては、哲学はそれ自体が目的であるようなエロス的営みとして、外部の必要にかられてではなく、内部の抑え切れない衝動(欲望)によって始まった。しかし同時に、そのことと哲学者が外部の要請に応じることとは、全く整合的に両立しうる、ということに注意しなければならない。(ある意味、トラシュマコスとも倦むことなく対話を重ねたソクラテスは幾分寛容であったのかもしれない。ただ、その寛容さがアルキビアデスという不肖の弟子を生み出すことになった) 問題は、このように哲学を衝動に還元してしまうことは、かえって哲学そのものの存在意義を掘り崩す結果になりかねないことである。知る限りでは、スタンレー・ローゼンがそのような問題提起を行っている。
(5) フッサールに倣った、生活世界への還元もシュトラウスがわれわれに用意した一つの方法であると言えるかもしれない。
(6) これは、彼が移り住んだアメリカでも同様であっただろう。ギムナジウムにおけるギリシャ語とラテン語を土台とした教養教育に培われたエートスの違いと言えるかもしれない。
posted by ta at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 研究メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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