2009年03月20日

シュミット『政治的なものの概念』『パルチザンの理論』

C・シュミット(田中浩/原田武雄訳)(1970)『政治的なものの概念(第二版、1932)』未来社
同(新田邦夫訳)(1995)『パルチザンの理論―政治的なものの概念についての中間所見(1963)』ちくま学芸文庫


いろいろ批判も多い友敵関係であるが、シュミットが政治的なものの概念を実存レベルから抉り出す視点にはやはり洞察の鋭さが窺われる(ホッブズ解釈の賜物ではあるのだが)。なかでも、「敵とは、他者・異質者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質者であるということだけで足りる」(p.16)というのはその端的な表現であろう。シュミットに倣って正邪の観念をひとまず脇におけば、人間の複数性を実存レベルで規定するのは心身両面にわたる異質性・他者性である。無論、ヒトとしての類似性を指摘することもできるだろうが、それもこのモノとしての異質性という前提がなければそもそも生まれてこない。そしてまた、「敵という概念が意味をもち続けるかぎりは、戦争が現実的可能性として存在し続けなければならない」(p.26)とするのもここから導き出される論理的帰結である。なぜなら、他者性・異質性を根源的に解消するには、対立する他者の抹殺でしかないからだ。もちろん、ここでは「公敵であって、ひろい意味における私仇ではない」(p.19)という限定付きではあるが。しかし、問題となるのは、シュミットが「具体的・存在論的な意味において解釈すべき」(p.17)と説くことからも明らかなように、その存在論的規定から具体的な事態をも説明しようとすることであろう。ある対立的状況が友・敵の結束を生じせしめたからといって、その他すべての価値的・道徳的要素が後景に退くわけではない。シュトラウスによる批判の要諦もここに存する。ただ、シュミットの側でもその自由主義批判は価値判断から自由ではありえない。既に明らかにされているように、彼の思想の背景にはカトリック的価値観が貫かれている。『政治的なものの概念』における絶対的な国家主権の回復という試みもそれを前提としてはじめて整合的に理解しうるのであり、『パルチザンの理論』におけるラウム理論や「ヨーロッパ公法」の主張も同様である。ちなみに、『パルチザンの理論』においては、毛沢東の戦略思想について論じられるくだりが印象に残った。
毛の根底に存する発想法は、明白であり強力である。戦争はその意味を敵対関係の中にもつ。戦争は政治の継続であるからして、政治もまた少なくとも可能性によればつねに敵対関係の要素を含んでいる。そして、平和が戦争の可能性をそれ自身の中に含んでいるとすれば―まったく残念ながらこのことは、経験に照らしてみて事実であるが―平和もまた潜在的な敵対関係の契機を含んでいる。…パルチザンから思惟を始める毛にとって、今日の平和は現実の敵対関係の現象形態にすぎない。(p.127-128)
政治的なものの存在論的規定からすれば、用いられるべきメルクマールは戦争か平和かではなく、やはり異質性と対立である。ならば、われわれが平和と呼ぶ現象も、根本的な対立の解消ではなく(それは形而上学の次元でのみ可能である)、あくまで妥協の末の棲み分けや忘却、一方的な強制によって生み出された付随物に過ぎない、ということになろう。
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