2009年04月01日

カミュ『異邦人』他

A・カミュ(窪田啓作訳)(1954)『異邦人(1942)』新潮文庫

言わずと知れたアルベール・カミュの古典的名作だが、訳者解説以外に何か得られるものはないかと思い、とりあえずCiNiiを漁ってみた。

村岡正明(1980)「カミュとニーチェ―『異邦人』と〈神の死〉」『城西人文研究』7: 171-186.

『異邦人』で比較的困難を覚えるのは、ムルソーが御用司祭を難詰し、母親と自らの死について内省する最終場面(窪田訳では125から127頁)ではなかろうか。村岡は『異邦人』の中のニーチェ的モメントを重視し、それを透かし絵として用いることでこの場面の内在的理解を促す。例えば、母親と自らの死についての内省において、“revivre”を窪田訳のように単に「生きかえる」ではなく、「くりかえし生きる」と「永遠回帰」のニュアンスを汲みいれて訳せば、ムルソーの生に対する愛惜(運命愛)を読み取ることができる。一応、その箇所の村岡訳を示しておこう。
「死を間近にしたママは、そこで自分が解放されるのを感じ、すべてをくりかえし生きる準備ができたのを感じたのにちがいなかった。そして、私もまたすべてをくりかえし生きる準備ができたのを感じた」(p.176)
次に、ムルソーの反キリスト教的姿勢がニーチェ的な〈神の死〉と関わりを持っていることは容易に見出せるとして、そのことが彼を「世界の優しい無関心」へと開かせるのはどういうわけだろうか。村岡は、この「無関心」(indifférence)をその語源である「差異がないこと」、「無差異」にまで立ち戻って解釈し、ニーチェのツァラトゥストラが味わう《倦怠》をこの部分に投射する。そのため、ムルソーの無関心とその底に横たわる等価値・無価値・無差異、つまりニヒリスティックな認識は、ニーチェと同じく新たな地平形成の前提(「能動的ニヒリズム」)として同一線上に位置付けられる。ただ、カミュには、ニーチェに見られた「みずから手を下して滅ぼす」という徹底的な積極性が存在しない。そもそも、「無差異」へと心を開くことは、能動的な決断が一切失われたモノの世界、「永遠に差異のない世界」を受入れることを意味する。それはヒトにとっては「死の世界」である。この一見矛盾する死生観(運命愛と死の共存、〈神の死〉の受動性を引き摺った能動性)に村岡はニーチェと異なったカミュ独特の思想を読み取る(〈蒼ざめたニーチェ〉としてのカミュ)。言い換えれば、カミュないし「ムルソーの外的偶然は、内的必然への変質を遂げ」(p.185)るのである。サルトル的アンガージュマンに対してカミュが消極的姿勢(形而上学的反抗)に終始し、安易な実存主義的決断を忌避したのも、背景にこのような死生観があったからこそと言えよう。

加藤宏幸・千葉裕平(1995)「アルベール・カミュの『異邦人』論―不条理な感情の生成過程および自然との関係」『Artes Liberales』57: 83-94.

学生(千葉)の卒論に指導教官(加藤)が手を加えて提出されたもの。加藤・千葉は最初に、カミュにおける不条理の定義をその広狭によって区別する。本論が依拠するのは、「世界の中で、人間が自分の存在に感じる違和感・断絶感=世界と人間のあいだの断絶・ずれ」という広義の不条理である。加藤・千葉に従えば、ムルソーが世界の断絶を意識し始めるのは、裁判において、事件の合理的な説明を求めようとする判事や検事らの世界(便宜的に「常識の世界」と呼ぼう)が、彼の中に違和感を生じせしめるときである。そして同時に、彼は世界の非合理性(こちらは「事実性の世界」とでも呼べるだろうか)に意識的に向き合うことを余儀なくされる。しかし、向き合うムルソー本人は一体何者であろうか?彼は判事らのように世界の合理的解釈を求めなかった。その意味で、「事実性の世界」に幾分近しき存在である。ゆえにムルソーは「常識の世界」では異邦人たらざるをえなかった。しかし、彼は依然として人間である。たとえ世界の合理性に無関心であっても、彼は判事や検事らと本質的に変わるところがない対自存在なのである。そうである以上、いくら近しき存在といえども、ムルソーも人間として「事実性の世界」と根源的に対立する。彼はまた根源的に異邦人なのである。カミュの言う「不条理への反抗」が、「不条理を見つめ、かつそれに同意しないこと」(p.84)にあるのだとすれば、問題はむしろ、この「事実性の世界」の忘却・隠蔽にある。この観点からすれば、加藤・千葉の言う不条理以前のムルソーであっても、その難から逃れられていないのではなかろうか? ただ、彼の場合はその自然主義的態度がそうさせているのであるが。たとえば、結論部でわれわれは以下の論述を目にする。
人が明晰さを求めようとすれば、ついには世界の非合理性を前に、人間と世界の断絶、つまり不条理に直面しなければならない。しかしムルソーのように、世界の非合理性を無意識に認識し、明晰さを求めようとしなければ不条理に直面することはない。ムルソーは不条理に目覚めにくい人間であると言える。(p.93)
しかし、『異邦人』においてはムルソーこそが世界の非合理性に目覚めた唯一の登場人物であったはずだ。その他の人間は、彼らなりの世界の明晰性についてつゆほども疑いを抱かなかったと言えるだろう。マリーであっても、レイモンであっても、判事であっても、司祭であっても、然りである。ただ、ムルソーについて違っていたのは、太陽(自然)がときに自らに牙をむく、その経験にあったといえるだろう。それを、無意識的認識と呼んでいいものかどうかは正直わからない。カミュの言う明晰さへの欲求は実際には人びとが心の中に生み出した擬制である。本論では自然との調和と表現されるムルソーの自然主義も結局はそのようなものの一種ではなかったか。

既に述べたように、ムルソーに付きまとっていたのは二重の「異邦性」であった。ひとつは裁判の過程で認識する「常識の世界」に対する異邦性。もうひとつは太陽の疎遠さがもたらす「事実性の世界」に対する異邦性である。前者から導き出されるのは、あくまでも人間の不自然性の認識である。自然主義的態度を身に付けたムルソーにとっては裁判上の出来事は、まさに別世界のことのように感じられた。ただ、本論ではこの両方の異邦性を明瞭に区別しないがゆえに、多少混乱が生じているように思える。
ムルソーは世界の非合理性を感じる。検事らが事件を無理矢理体系づけようとするので、彼は非合理性をより強く感じる。非合理な世界をだれも体系づけることはできない。彼は非合理な世界の中で人間が明晰を求めようとするのは愚かであることを知り、同時に自分という人間存在の不自然さを認識する。彼は世界から遠く離れてしまう。世界と自分の断絶から、不条理な感情が芽生える。(p.89)
この論述を以下の結論部のものと比べてみると良い。
ムルソーはこの裁判で、明晰を求めようとする人間の行為の愚かしさを知り、また事実とあまりにも掛け離れている検事の解釈に、裁判が自分の裁判であるとは思えず、世界と自分との断絶を意識する。つまり不条理な感情の出現である。(p.93)
前者では、明らかに「人間存在の不自然さ」から「事実性の世界」に対する不条理な感情を導出しているが、後者では「常識の世界」との断絶が、直ちにもうひとつの世界との断絶であるかのような言い回しになってしまっている。もちろん、後者は前者を受けてのまとめなのであるが、ただ、その後に、「しかしこれは、ムルソーにとっては本質的な不条理ではない。本質的な不条理は、むしろ裁判の後にムルソーが直面する、死についての不条理である」(同)と続くのを見ると、明らかに、裁判において生じた不条理の感情と死刑を臨んで抱かれた不条理の感情との間に質的差異が認められる。しかし、カミュにとって世界の非合理性・偶然性の形式はただ一つである。そのため、「偶然の積み重ねからなる世界と、必然的な死という運命を背負わされた人間、この両者の間の断絶にムルソーは本質的な不条理を感じる」(同)という言明は誤解を与えかねない。人為的にもたらされた確定的な死、すなわち死刑は、加藤・千葉が確認するように「事実性の世界」においては偶然の積み重ねによって生じた出来事である。したがってここでは、その確定的で逃れがたい死がムルソーを必然的な死という究極の事実性についての省察へと促した、とまず考えるべきであろう。なぜなら、断絶はこの世界における偶然性と必然性の間にあるのでは決してなく、それは、一方で偶然性の中に合理性を見出そうとし、他方で必然的な死について内省を強いられる人間が「事実性の世界」と対峙して、はじめて意識の前面に現れるものだからである。つまり、人間の必然的な死は、人間それ自体ではなく世界にこそ属している。広狭問わずカミュの不条理の定義と、「不条理への反抗」の意義は、まさにこの断絶の位置を正確に捉えてこそ、理解することができると言えよう。

古野千恵(2005)「『異邦人』における「太陽」」『Stella』24: 139-146.

先の論文ではちょうど「太陽」と「不条理」が主題とされたので、それぞれが単一の主題として扱われた論文も見ておこう。

本論のねらいは「身体的苦痛がムルソーをどのように精神的に追いつめるのか、そして彼はなぜ太陽を殺人の動機とするのかという問題をとりあげ、あわせて逮捕後のムルソーに認められる変化について」考察することである。ただ、短い論文であり、内容的には加藤・千葉論文における描写の域をさほど出ていないので、目新しい議論は特に見当たらなかった。簡潔にまとめるだけにしておこう。

*初期作品における「太陽」の両義性=「ゆたかに降りそそぐ光はあらゆる怨恨を奪いさり、キリスト教的な〈歴史〉がすべてではないことを…教えてくれる」(p.139-140)⇔「あらゆる存在を衰弱させ焼尽する凶暴かつ過酷なイメージ」(p.140)
*『異邦人』における「太陽」=愛へ誘う陽光と死の宿命を告げる陽光として形象化/母親の埋葬時[溶解や粘性という否定的イメージ]⇒マリーとの海水浴[爽快感]⇒マソンの別荘での冒頭[爽快感]⇒殺人前後[混乱と破壊をムルソーひとりに齎す身体的・精神的苦痛―母親の埋葬時と同じ―第1稿には殺人直前の苦痛の描写は存在せず]⇒裁判拘留中[間接的な脅威―判事ら法廷内のひとびとと共有された暑さ]⇒死刑判決後[太陽(昼)から夕暮れや夜へ―心の平静の取り戻し]

古野は最後に、カミュにとって「少年時に生きる意味を教えてくれた輝かしい〈太陽〉」は数々の戦争の悲惨(ナチズム、アルジェリア戦争、ソ連の強制収容所)を経て、「永遠に奪われてしまった」(p.145)と推論している。

松本陽正(2007)「アルベール・カミュにおける不条理について―『異邦人』を中心にして」『広島大学フランス文学研究』26: 30-44.

今度はカミュの「不条理(absurde)」について。その定義については、加藤・千葉論文で示されたとおり、「世界と人間との対峙(confrontation)から生じるもの」として位置付けられ(狭義の不条理)、「さらに一般的には、二つのものの比較・対立から生じるとし、『比較の両項間のずれが増大すればするほど、それだけ不条理性は大きくなる』」(p.33) (広義の不条理) とされる。

『異邦人』での具体的な「不条理」のイメージ化については、松本は殺人、裁判、そして最終章という各々の場面を取り上げて考察してゆく。内容的には、加藤・千葉論文で描かれた以上のものではないが、たとえば、小説がムルソーの1人称の視点で描かれていて、読者は巧妙にも不当な裁判に対する怒りを共有するように導かれていくこと(p.37)、『手帖』によればカミュにとって『異邦人』と『神話』は肯定へと向かうゼロ地点(出発点)であったこと(p.38)などは新たに得られる部分といえようか。

最後に、松本は「不条理の系列」に属するカミュの作品群の共通項をまとめている。一つは、究極の不条理としての死との対峙。二つめは、犯罪者、加害者に設定された主人公。三つめは、自己の生の肯定。そして、最後に神(々)への反抗である。

東浦弘樹(1997)「ムルソーとレエモン―カミュの『異邦人』をめぐって」『商學論究』44(4): 127-143.

東浦は、精神分析的見地から、ムルソーがレエモンへと同一化していく心的過程を考察し、アラブ人殺害へと至る道筋を説明する。ムルソーとは端的に言って無関心と愛想・親切の人である。東浦はこれを「他者との軋轢を避けるための無意識的な防衛手段」(p.129)と捉える。ならば、どうしてそのような彼がレエモンに過剰な親しみを示し、アラブ人殺害をいわば代行することになってしまうのか。

本論では二つの先行研究が紹介され、それらを受ける形で議論が展開される。ひとつは、ピション=リヴィエールとバランジェの「喪の禁圧および妄想型分裂病的メカニズムと不安の増大」[Pichon Riviére, Arminda A. de & W. Baranger (1959), 《Répression du deuil et intensifications des mécanismes et des angoisses schizo-paranoïdes, Notes sure L’Etranger de Camus》, Revue française de Psychanalyse, n.3, pp.409-420.]であり、もうひとつは、アラン・コストの「ムルソーのふたつの殺人」[Costes, Alain (1982), 《Le Double Meurtre de Mursault》, Cahiers Albert Camus 5, Albert Camus: æuvre fermée, æuvre ouverte?, Gallimard, pp.55-76.]である。

ピション=リヴィエールとバランジェの論文では、ムルソーの母親に対するサディズムと、両親の性行為という「原風景」的価から、「レエモンの計画に加担し、モール人女を母親にみたてることによって象徴的復讐を遂げようとしている」(p.133)と説かれる。しかし、東浦はこの説に対して疑問を付す。
…カミュの作品に親しみ、そこにみられる母親と息子の「奇妙な」関係を知る者には、ムルソーが母親を罵ったり暴力をふるったりしたということは、にわかに信じがたいことである。(p.132)
そして、「両親の性行為を目撃した子どもは攻撃者たる父親に憎悪を向けるのが通例であ」って、「かりに母親を憎むとしても、…二次的に憎むに過ぎない。」(p.133) 東浦は、ムルソーにとっての「原風景」的価値はむしろ養老院での母親の擬似的「婚約」によって呼び戻されたのではないかと考え、カミュ自身の少年期における体験に着目する。彼の母親は、彼が16歳の時に妻子ある男と恋愛関係を持ち、それに反対した母親の弟(つまりはカミュの叔父)がその愛人と殴り合うという事件をカミュは目の当たりにする。東浦は、この事件がカミュに与えた衝撃の甚大さを考慮し、初期作品に見られるような主人公の無関心さは、ムルソーと同じく事件を否認しようとする無意識的な防衛ではなかったかと論じる。

ここまでで、モール人女を母親と見立て象徴的復讐を遂げようとするムルソーの動機がとりあえずは説明される。では、物語の根幹にあるアラブ人の殺害はどうか。そこで参考にされるのが、もう一つの先行研究であるコストの論文である。彼は、「ムルソーの殺人を『二重の殺人』と定義し、アラブ人はまず姉の恋愛を妨害する弟として射殺され、つぎにカミュの母親を暴行した犯人として射殺されたと述べる。」(p.139) 東浦は第一の殺人に着目するわけだが、そこにはムルソーにとっての「レエモン/モール人女/殺害されたアラブ人」という関係に、カミュ自身の「母親の愛人/母親/母親の恋愛に干渉する叔父」という関係が投射されている。そのため、叔父に擬されたアラブ人を殺害する行為は、コストによれば「退行したエディプス的行為」ということになる。しかし、本来ならば、母親の愛人に擬されたレエモンこそがムルソー(カミュ)のライヴァルでなければならないのではないのか、という疑問は残る。なぜ、アラブ人が殺されねばならなかったのか。東浦はその理由として、母親を虐待した叔父へのカミュの間接的復讐をあげる。カミュの母親は彼を裏切った存在でありつつも、叔父の虐待の犠牲者であり、他方で叔父はカミュ自身の気持ちの代弁者である。母親と叔父、その矛盾する感情が初期作品では防衛的無関心として表れたが、『異邦人』に至ってはモール人女(=母親)とその兄弟(=叔父)両方に対する露骨な攻撃性へと転化する。そうだとすれば、『異邦人』におけるムルソーのレエモンとの同一化は結局、自分が母親(=モール人女)の正当な「愛人」であり、母親の愛を独占する権利があることを主張する役割を担ったのではないか、そう東浦は分析する。そこから、先に見たムルソー(=レエモン)の母親(=モール人女)に対する象徴的復讐もまた、母親を取り戻すための一種の懲罰であった、という推論が成り立つ。
ムルソー=息子がアラブ人=叔父に「エディプス的ライヴァル」をみとめ抹殺するというアラン・コストの説は、愛人をつくった母親を息子が罰し、許し、取り戻すという心的過程があってはじめて成立する。「叔父殺し」は母親への復讐と一対になっているのである。(p.141)
まとめれば、ムルソー(カミュ)をめぐっては二重の三角関係が成立することになる。

『異邦人』における二重の三角関係

カミュは最初の関係を、母親に対して象徴的復讐を果たすことにより解消し、次に、叔父に見立てたアラブ人を殺害することで、第二の関係を解消したのである。『異邦人』のラストシーンに見られるあの幸福感、「不条理への反抗」に見られるあの死についての達観は、まさに母親に対するこれらのわだかまりを解き放った末に得られたものであった。
posted by ta at 04:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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