2009年04月02日

カミュ=サルトル『革命か反抗か』/サルトル『実存主義とは何か』『ユダヤ人』他

A・カミュ/J-P・サルトル(佐藤朔訳)(1969)『革命か反抗か―カミュ=サルトル論争(1952)』新潮文庫
J-P・サルトル(伊吹武彦/石崎晴己訳)(1955, 96)『実存主義とは何か(1946, 70)』人文書院


50年代初めに『現代』誌上で交わされた有名なサルトル=カミュ論争の邦訳。正直、読みにくかった箇所がちらほら。当時は論争上手なサルトルに軍配が上げられたそうだが、冷戦後に生きるわれわれにとっては、暴力を拒否し、生命に重きを置くカミュのほうに共感しやすいであろう。しかし、重要であるのは、彼らが向き合った哲学と実践にまつわるそもそものジレンマである。カミュは『反抗的人間』において、反抗者とは「単に主人に抗する奴隷であるばかりでなく、主人と奴隷との世界に抗する人間でもある」と論じたが、サルトルが正しく指摘するように、両者(奴隷と人間)の間にはやはり逃れがいたい矛盾が存在する。

個別具体の「状況」の中にあって、同時に自由人たれ、と説くサルトルの形而上学的立場は、既存の価値や決定論的思考を口実とする個人の欺瞞的態度を糾弾し、その行為に厳格な責任を課す(「個人の行為は全人類をアンガジェする」p.76)。他方、そのような自由を妨げる「状況」に対しては、政治的変革を求め労働者を社会主義革命へと駆り立てるのである。サルトルにとっては戦後のユダヤ人問題も、同様の観点から論じることが可能なテーマであった。

J-P・サルトル(安堂信也訳)(1956)『ユダヤ人(1954)』岩波新書

反ユダヤ主義に対する解決策が社会主義革命とは、今では話のオチにすらならないだろうが、「状況」に基づくユダヤ人の協同意識、正統でない(非本来的な)ユダヤ人の反ユダヤ主義というジレンマ、戦後自由主義体制下での同化主義の欺瞞性(ユダヤ人性の抹殺)、解決策であるはずのシオニズムがもたらしてしまう混乱と分裂、等々についてサルトルの考察はやはり鋭い。以下では、この問題についてもう少しばかり。

田所光男(1999)「フィンキェルクロート『想像のユダヤ人』における「見出された差異」―ジェノサイト後のフランスでのユダヤ人性の追及とサルトル」『言語文化論集』21(1): 111-125.

フィンキェルクロートという名前は初めて聞いた。なかなかの論争家らしい。近年では批判されることが多いそうだ。彼はその著『想像のユダヤ人』(Le Juif imaginaire, 1980)で、戦後生まれのユダヤ人が取りえた選択肢として以下の三つが存在したと語る。同化ユダヤ人たる「イスラエリット」(Israélite)、ユダヤ人性という差異を尊重する「ジュイフ」(Juif)、イスラエル国民たる「イスラエリヤン」(Israélien)である。彼はサルトルの影響を受けつつ、イスラエリットを拒否し、ジュイフすなわち「真正のユダヤ人」として生きることを選択する。しかし、戦後世代にあってはサルトルが描いたような二極化された構図は次第に後景へと退き、「『自分の感情を自分だけに向け、何よりも自分を好む』という自己主義が前面を覆って」、「無数の差別意識が社会空間に行き渡る」「自分は―社会」(la société du quont-á-soi)が非ユダヤ化を否応なく押し進めていた。その中で、ユダヤ人的差異はどのようにして見出されるのであろうか? フィンキェルクロートによれば、それは「アウシュヴィッツの子」という先の世代の悲劇によって生じた威信に求められる。田所は、このような非本質的な定義の仕方をサルトルのそれに重ね、両者の影響関係を指摘する。しかし、サルトルが『ユダヤ人』の終盤で描いた「具体的な自由主義」は諸々のユダヤ的本質を私的空間に押し止め、二次的なものとし、「人間の自由な[公的]参加によって共同性を実現することであり、そこではやはり一種の[普遍主義的・共和主義的]「同化」が目指されている。」(p.119) もし、フィンキェルクロートが「見出された差異」を求め徹底した差異主義に立つのであれば、このようなサルトルの姿勢といずれは齟齬をきたすことになろう。事実、田所が示すように、『想像のユダヤ人』における彼の狙いは、差異主義の擁護と展開ではなく、その超克にあった。無論、そうであるからといって、前世代の非本来的な同化主義に回帰する道はありえない。いずれにせよ、サルトルとの齟齬も彼にとっては織りこみ済みだったというわけだ。その詳細な議論については、本論の主題を越えるために、田所は次稿に預けている。ただ、フィンキェルクロートは後の著作『愛の智慧』(La sagesse de l’amour, 1984)で、レファレンスをサルトルからレヴィナスへと移して、以下のように述べる。
「自己であること、自己を見出すこと、外来の諸悪から自己を純化すること、このような願い以上に、おそらくもっと深くもっと決定的なものがある。それは、自分の自己から離脱する夢、自己自身への還帰という運命から逃れる夢である。」(p.122)
いわば主客の不断の逆転であり、そこから彼の自他関係理解もおのずと見えてこよう。

堀田新五郎(2003)「J. P.サルトルの他者論―『ユダヤ人問題についての考察』から」『奈良県立大学研究季報』14(2, 3): 119-128.

堀田の狙いは、しばしば価値相対主義(「まなざしの相克」)として批判されるサルトルの倫理観についてその普遍的基礎を探ることである。もちろん、状況の中で自由人たる人間は既存の価値に従うのではなく、不断の企投によって価値を創出する。ならば、その価値は具体的な善としては定義し得ないものであろう。ここから、必然的にわれわれはメタ倫理の模索へと導かれていく。そこで鍵となるのは、〈他者〉に潜む二つの契機である。
[注・『モラル・ノート』からの引用]「〈他者〉には、二つの意味がある。第一に、構成的な原初的〈他性〉としての〈他者〉。これは私に対して優先権を持つ。第二、〈他者〉によって私のうちに構成された他性としての他なるもの。これは他なるものとしての私以外ではない。あるいは、疎外されたものとしての同一者〈le même〉である。」ここで語られた第一の〈他者〉とは、各人を規定する大文字のまなざしを持つ構成的権力であり、第二の〈他者〉とは、私のうちに内面化された他性、すなわち石化された自己同一性としての地位・役割であろう。(p.123)
言うまでもなく『ユダヤ人』においては、この両者は反ユダヤ主義者と非本来的なユダヤ人として論じられた。サルトルによれば、被抑圧者が同時に抑圧者となる「他性の循環」がここから導出されるという。
抑圧社会における真の支配者が〈他者〉であるかぎり、抑圧者とは常に抑圧の移譲であり、各人は抑圧を伝え合わなければならない。これがサルトルの言う「他性の循環」である。したがって抑圧からの解放とは、抑圧者と被抑圧者の双方を、〈他者〉の秩序から解き放つこととなる。一人の奴隷が存在するかぎり、我々も一人として自由とはいえないからである。(p.124)
『ユダヤ人』最終章での「ユダヤ人問題とはわれわれの問題である」という主張は、このような〈他者〉認識があってこそ根拠を持ちうる。同時に、この「他性の循環」は『モラル・ノート』に記された悪の概念をも説明してくれる。「悪:主観的な客観性、あるいは、主観性の客観化」(p.120)、すなわち、「自由な対自の物化・即自化」である。では、このメタレベルで析出された悪に対して、われわれはどのように対峙しうるのであろうか。
悪がこのように、いわば超越論的位相において捉えられるならば、それに対する集団的抵抗、すなわち連帯(solidalité)という倫理的契機もまた現実化しうるのではなかろうか。というのも、ここで提示された悪への抵抗は、…主体の自由を自覚する浄化的反省(réflexion purifiante)そのものであり、自由と不可分だからである。(同)
ここには、既に主客の概念すら存在せず、唯一自由人のみが存在する。しかも、サルトルが要求するものは、極めて厳格である。すべての人に対して支えなき自由から目を逸らし、安易な逃げを打つことを許さない。それは、彼が言うようにまさしく「自由への強制」である。(そして、自由からの行為は「全人類をアンガジェする」) サルトルは、このメタ倫理的命法に則って、社会において最も抑圧されている人びとの具体的反抗に連帯せよ、とわれわれに呼びかけるのである。

[このサルトルによる実存主義的倫理は、社会大でおおむね固定化された差別(人種・民族・宗教・階級)よりも、現代社会においては、相互のまなざしが不断に転換するような、小規模で非固定的な差別(例えば、いじめ)に、その領分を見出すことができるのかもしれない。(先の論文でも指摘されたように、彼の「具体的な自由主義」が共和主義的な体制の焼き直しであるならば尚更のこと) ただ、その場合には、「自由への強制」だけで「アンガジェ」を呼びかけるのは困難であり、やはりなんらかの価値の擬制が必要となってくるだろうが。]
posted by ta at 02:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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