2009年04月05日

シュトラウス『ホッブズの政治学』(1)

L・シュトラウス(添谷育志ほか訳)(1990)『ホッブズの政治学(1936, 1965)』みすず書房(1)

III. アリストテレス主義
ホッブズが自分自身の教説を相互に関連づけながら展開する場合には、かれは明確に理論を実践より下位に位置づけている。こうして、かれはアリストテレスのように分別(知慮)を実践に、こうして知恵(知慧)を理論に当てはめていないことが理解される。すなわち、ホッブズは分別と知恵がともに実践的目的を目指すことを主張するのだから、分別と知恵との区別は、実践と理論との区別とはいっさい関係がなくなってしまうのである。分別と知恵の関係は、経験と学問の関係に等しいといえる。…アリストテレスへのこうした対立は、宇宙における人間の位置についてのホッブズの見方がアリストテレスの見方に対立していることに、その究極的原因を有する。アリストテレスはかつて、人間は宇宙における最も優れた存在ではないという根拠づけによって、道徳論と政治論に対する理論的諸学優越を擁護した。理論の優位にとってのこの究極的な前提が、ホッブズによって退けられることになる。というのも、かれの主張によれば、人間とは「自然の最も優れた作品」にほかならないからである。この根源的な意味において、ホッブズはつねに人間中心主義者であり続けた。(p.44-45)
理論と実践の関係、その地位の転換は古代と近代の政治哲学を分かつ重要なメルクマールとなる。それがホッブズという一人の思想家において、実質的にも象徴的にも表れていると言えよう。シュトラウスによれば、ホッブズはその生涯の早い時期において(宇宙論優位の)スコラ・アリストテレス主義と訣別し、1629年に完成する『ペロポネソス戦争』英訳までの間、実践優位(道徳論・政治学)という限定付きでアリストテレスを権威として承認していた(「人文主義期」)。その後、「ユークリッドの発見」を経て、数学・自然科学的研究(学問的厳密性)との関連において、アリストテレスからプラトンへと回帰していく(cf. p.168-187)。ここでシュトラウスによって描かれる理論の優位性は、世界(いわゆる「全体」であり世界観や状況ではない)における古典的序列の肯定である。神ではないが、神に似せて創られたがゆえに、理性の動物である人は野獣とも区別される宿命にある。その意味では、人は世界における最善と低俗に挟まれた存在者として存在することを余儀なくされるわけだ。実践に対する理論の優位性は、一方でこの秩序における人としての分の認識であり、他方でその理性ゆえに低俗よりも最善に向けられた志向性という人の本質の確認であった。人は本来、善や真理の直観ではなく、その志向性においてのみそれらの存在を漠然と認識しうるに過ぎない。したがって、ホッブズにおいて成し遂げられた理論の(すなわち学問としての)実践への従属(知恵>分別⇒分別>知恵)、『自然権と歴史』において哲学の政治化として批判される認識論的転回は、本来ならば実現不可能な(正確には「非現実的な」と言うべきだろうが)最善を歴史において現実化させる(歴史に絶対を求める)という究極的な人間中心主義への第一歩を示している。

VI. 歴史

この点に関して注目すべきは、まさしく「歴史」の文脈において、ホッブズの「分解‐構成的」方法とアリストテレスの「発生論的」方法とが比較されているということであろう。言うまでもなく、この対比はホッブズの真にガリレイ主義的、実証主義的姿勢を際立たせようとするものではありえない。政治的・社会的な対象をそれぞれの局面において断片的に切り取って考察するのであればまだしも、そもそも国家に統一的な像を与えようとする哲学的試みが抽象化を経ずに、非本質主義的に為されうるなどとは誰もが思わないであろう。むしろ、シュトラウスの狙いは、近代の本質主義に特徴的な認識論的態度を浮き彫りにすることである。その端的な表現が典型的歴史の採用だ。周知のように『自然権と歴史』や「政治哲学とは何か」では、歴史の導入はルソーにおいてはじめて言及される。それは、ホッブズの自然状態においては、ルソーやヘーゲルのようには(現実化までの)時間的なズレが伴わず、常に現在に視点が注がれているからであろう。ただし、具体的歴史が「止揚されて」(p.122)いるという点では違いはない。典型的歴史の採用はそれ自体が「服従道徳の拒絶である。」(p.133) つまり、「吟味の基準はあらかじめ前提されるのではなく、創出されるべき」(p.132)という表明である。ここに、のちの実存主義の影を見ること正しいだろうが、その全てを押し付けることは間違っている。本来指し示すところは真逆であるからだ。政治的秩序の問題に対する「創出」という手法が、形而上学的な絶対化を経て、どのようにして急進的歴史主義に至るかは、『自然権と歴史』において示された。ブルームは『ホッブズの政治学』を「シュトラウス以前のシュトラウス(the pre-Straussean Strauss)」として、歴史的理解が未だ確立されておらず、彼自身の問いを思想家たちに押し付けている時期の著作であるとしているが、このホッブズとアリストテレスの対比に中期以降明確となってくる哲学的狙いの素地が準備されているといっても間違いはないであろう。(Bloom, Allan. Giants and Dwarfs: Essays 1960-1990. New York: Simon and Schuster, 1990, p.246.) ただ、この近代的な「創出」概念と秩序の演繹的絶対化(ホッブズでは絶対的主権の創設)に対して、自然法主義(服従道徳への回帰)として論じられるような古代の解決を、そっくりそのままシュトラウスに帰すことは知的怠慢の謗りを免れない。少なくとも、彼のニヒリズムの経験(ニーチェ、ハイデガー的モメント)と中期以降の著作(『自然権と歴史』『政治哲学とは何か』など)を初期三著作(『スピノザの宗教批判』『哲学と律法』『ホッブズの政治学』)につき合わせてみることなしには、判断を下す権利を持たないであろう。近代政治哲学が陥った認識論的問題については、以前のエントリでも幾度か触れておいた。ちなみに、シュトラウスは自然状態を典型的歴史として捉えることでいわゆる「ホッブズ問題」を端から回避しているように見える。これは彼がホッブズの思想を社会学的にではなく、政治哲学的に考察していることの現われであると言えよう。メインの批判を受けて、ホッブズが『リヴァイアサン』において「家父長制的共同体」に言及していることを彼が指摘する(p.129-130)のはそのためである。むしろ、ホッブズの狙いは、「…万人対万人の戦いを、人類のまったく不完全そのものの状態として構成し、かつこの戦いを今度は、人間的自然のなかに根源を持つものとして理解する」(p.131)ことにあった。それゆえ、彼は「どんなに基礎的な歴史事実上の知識よりも、政治的諸対象に関するあらゆる判断の原理の哲学的根拠づけの方をより基本的なもの、比較にならないほど重要なものとみなした」(同)のである。

VIII. 新しい政治学

最終章で、ホッブズの「ユークリッドの発見」が伝統的政治学との断絶を決定的にしたことが論じられる。
プラトンは「語」からではなく、むしろ「イデア」から哲学していると述べるとき、ホッブズは根本的に彼を誤解しているのであり、この誤解がいかに悲惨な結果をもたらすかを、われわれは直ちに考察しなければならないであろう。…いずれにしても、特殊プラトン的出発点から―矛盾している言葉へと向かっていくことから―ホッブズの承認する、厳密でそれゆえ意見と対立する政治論に対する要求と、一連のさらなる帰結が生じるのであり、後者の点に関しても、ホッブズはまたしてもアリストテレスに抗してプラトンの側を支持するのである。(p.178)
ホッブズとプラトンは共に、真理と仮象(臆見)というエレア派のアンティテーゼに拠った。彼らは共に通念(臆見)に反したが、その手法は「言葉」を出発点にすべきかどうかで異なっていた。その点でホッブズはプラトンを誤解していたのである。そのためホッブズには分解‐構成的方法を採用することに何らの躊躇は無かった。シュトラウスは以下のように述べる。
…分解‐構成的方法が前提にしているものは、適切なるものや善なるものについての問いかけの原理的な放棄以外の何ものでもない。ホッブズは、明証的な公理から明証的な結論へ、つまり「終わり」へと前進する数学的方法が、絶対的模範であると確信しているので、かれは、数学にせよ政治学にせよ、「始めに」、つまり「明証的な」前提のなかに固有の問題が、すなわち「対話術」の課題が隠されていることを、認識しえないのである。しかしながら、「対話術」とは、人びとが正義や不正義について、徳や悪徳について語っていることの詳細な討論であり、その吟味である。…すなわち、両義性のなかに隠蔽されていると同時に開示されてもいる言説の一義性は、徹底的な討論を媒介にして、明らかにされなければならないし、また明らかにされうるのである。[注・52年のアメリカ版ではこの一文は省略されている] というのも、言説による方向づけを放棄することは、人間がもともと意のままにできる唯一の可能な方向づけを放棄すること、したがってあらゆる方向づけにおいて前提とされている基準[尺度]を発見すること、否、基準を問うことそれ自体の放棄以外の何ものでもないからである。(p.186-187)
分解‐構成的方法がなぜ、「基準を問うことそれ自体の放棄」につながるのか。デカルトのような合理主義的・啓蒙主義的態度は、人びとの臆見を出発点とすることはない。それ自体が誤った前提から生じているのだから、異なったヒューリスティックな原理(「イデア」)を対置することなしには、人びとの迷妄を正すことはできない。ホッブズにとってそれは「虚栄心」と「暴力死への恐怖」の二元論であった。一旦、このような原理が明らかになれば、そこから統一的で正しい国家像を導出するのはなんら苦も無いことである。「こうして政治学は国家を規制するための技術となる。その課題は、現存の国家の不安定的な均衡を正しい国家の安定的な均衡へ変換することである。」(p.185) したがって、プラトンにおいて要求された「対話術」、より一般的な語を使えば、「討論」はホッブズの体系にあってはひとつも用をなさない。「正義等々について人びとの言説から出発することをホッブズは余計なことである、否、危険であるとすらみなしている。」そこで、彼は、「[民衆の]自然的価値評価を原理的に拒絶しつつ、このような価値評価を超えて進み、さらに新しい未来の、そして自由に立案すべき「ア・プリオリな」政治論へと向かっていく」(p.199)のである。もちろん、原理の是非をめぐっては依然討論の可能性が残されている。しかし、それは「基準、すなわち、善についての問いかけ」では既になく、「すぐれて必然的なものについての問いかけ」(p.201)でしかない。ゆえに、それは技術的な問いであって、もはや政治的な問いではない。分解‐構成的方法が伝統との断絶を決定的にしたことの意味は、まさしくこの「基準への問い」の有無に存するのである。けれども、それを言うなら、プラトンのディアレクティケーこそ出来レースではないのか、そもそも仮象に対して真理を対置させる姿勢こそ教条主義的ではないのか(「言説の一義性は…明らかにされうる」)、というまっとうな疑問も浮かんでこよう。これについては『ホッブズの政治学』において明確な答えを見出すことはできない。ただ、シュトラウスの中期以降の思想展開の中で、イデアが「普遍的で永遠的な諸問題」と規定され、そして一切の曖昧さから自由であるべき服従道徳(戒律)と自然的正の要求が古代においては複数の表現を取っていることの意味を同時に考える必要があるだろう。それなくして、判断は誠実なものとなりえない。

もうひとつ、中期以降の思想展開につながる箇所を指摘しておこう。アリストテレスのコスモロジーにプラトンのそれを対置させる部分である。
アリストテレスの教えによれば、倫理的な諸徳やそれらの頂点にある正義は、人間が人間以上の存在ではないかぎりにおいて、人間にふさわしいものであるが、しかし、哲学することにこそかれの真の幸福はあるのであり、その幸福を通してかれは人間性の限界をある程度超越していくのである。哲学者は「幸福者の島」で生活する唯一の人間であるということ―このことについてはプラトンとアリストテレスは意見が一致しているが、哲学者には非哲学的な大衆に無関心なままで自己自身の幸福を得ようと努力する権利があるという考えをプラトンを否定するまでである。いかに哲学者たちが自らを神と同化させながら人間性の限界をある程度越えていこうとも―かれらは依然として人間であり、人間であり続け、そしてそれゆえ他の人びとのうちにあって一つの種族の人間を形成するにすぎず、こうして部分の幸福ではなく全体の存立に配慮する、国家の法律に服従するのである。理想国家の法律は、哲学者を強制して他の人間に関心を払わせ、かれらを監視させ、「各人の好むところへ向かわせ」ないようにさせる。…プラトンにとっては、…単に政治的な徳しか存在しないのである。(強調は原文どおり)(p.180-181)
明らかにここで、シュトラウスは哲学者であっても、先立つのは権利ではなく法律であることを強調しようとしている。そのために哲学者は強制されなければならないというのは、中期以降の(エキセントリックな)『国家』篇解釈と比べたときに多少の齟齬が見出せるであろう。エソテリシズムの発見以降は、私的な観想的生と公的な実践的生の間にいかに調和をもたらすか、それが彼の中心課題となってゆく。プラトンのみならず、クセノポン、アリストパネスの著作を視野に収めてまで、執拗に「政治哲学者」としてのソクラテス像を追及したのは、まさしくこの理由からであった。「シュトラウスをシュトラウスせしめた」のがまさしくソクラテスだったのである。(Platt, Michel. “Leo Strauss: Three Quarrels, Three Questions, One Life.” Deutsch, Kenneth L, and Walter Soffer. eds. Crisis of Liberal Democracy: A Straussian Perspective. Albany: SUNY Press, 1987. p.23.)

シュトラウスのホッブズ
posted by ta at 02:21| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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