2009年04月15日

上谷「「高貴なる嘘」としての「古代人―近代人論争」」

上谷修一郎(2007, 08)「「高貴なる嘘」としての「古代人―近代人論争」(一)(二): 中期レオ・シュトラウスの現象学的イデア論解釈」『法学論叢』159(6): 73-89, 161(2): 111-134.

本論は、ザッカートによっても論及された、ソクラテス(プラトン)的哲学とアリストテレス的政治学をどのように架橋しうるのか、そのきっかけをシュトラウスのイデア論解釈に求めようとする試みである。上谷はその解釈を現象学的イデア論と名付け、当時のドイツの精神的風土、新カント派から現象学、ハイデガーへという流れの中から説き起こそうとする。[正直、前半しかまともに読んでいなかったので、根本的に誤解していた部分が…。猛省…。]

考察のベースとなるのは小野紀明『現象学と政治』(行人社、1994)での、形相‐質料二元論をめぐる認識論的、存在論的考察である。上谷にしたがってまとめれば以下のようになる。(p.78-80)

* 独断論的な非歴史主義的哲学(デカルトからヘーゲル): 形相⇒質料、存在⇒存在者
* 非独断論的な急進的歴史主義(ニーチェ、ハイデガー): 質料⇒形相、存在者⇒存在
* 現象学的イデア論(シュトラウス): 形相⇔質料、存在⇔存在者

この図式からとりあえず分かることは、シュトラウスは「ニーチェやハイデガーを批判しつつも全面的に否定しているわけではない」(一、p.78)ということであろう。すなわち、独断論的な非歴史主義哲学に対してハイデガーが行った「反哲学」的批判をシュトラウスは基本的に受け継いでいる。(「『自然権と歴史』の第一章をどう読むか?」を参照) ハイデガーによる近代性の診断は先のフェリの著作に簡潔にまとめられていた。

1. 近代的な主観主義は世界を知解可能なものとして独断論的に措定する(近代的自我の理性的側面; ヘーゲルの歴史主義的体系もこの意味では当然独断論を免れていない、まさしく「形而上学の頂点」である)
2. 世界の余すところなき知解可能性は、その征服へと実践哲学を突き動かす(近代的自我の意志的側面; シュトラウスにおいては「哲学と詩」の対立として定式化される)
3. ニーチェにおけるこれら理性と意志の止揚は、意志のための意志、すなわち「権力への意志」を呼び起こし、技術(つまりは道具的理性)へと至りつく (Ferry, Luc. Rights: The New Quarrels between the Ancient and the Moderns (Political Philosophy Vol. 1). Trans. Franklin Philip. Chicago: U of Chicago P, 1990. 7-9.)

ニーチェを近代性の枠組みにおいて論じているのには留保が必要だろうが、ほとんどシュトラウスの近代批判と重なる。以前(永久不変の宇宙論的秩序観)でも以後(ハイデガー主義)でもない近代の「外」への模索が始まるのは、まさしくこの地点からである。

しかし、同時にこの立場にはいくつか難点が付き纏うように思える。ひとつは、上谷も指摘しているように、シュトラウスによる世界の哲学的基礎付けは独断論的措定(神学的か合理主義的かは問わず)ではもはやありえず、基礎付けとすら言えないような存在者の決断、「権力への意志」というパトスに支えられている、という点である。もう少し、穏当な表現を用いれば、哲学的エロスと言うことになろう。(これに対して、僭主的エロスは卑俗な支配的衝動でしかない) もう一つの難点は、現象学的イデア論が、啓示の普遍性・永続性の可能性を疑問に付すという点である。存在と存在者の相互主観的な認識論・存在論にあっては、存在の絶対化ではなく、存在者が「恒常的に」無いというところから、世界の神秘性を保証しなければならない。このことがシュトラウスのユダヤ性や啓示観に齎す影響は無視できるものはないように思える。[後者の点に関しては、いくらか本論文でも解答が得られている。]

本論文ではまず、現象学的イデア論の具体的な定式化が目指される。
シュトラウスにとってのイデア、すなわち「「……とは何か(What is )」という問いが指し示すもの」、「事物のエイドス、事物の形態、形相、特性」とは、「最高の意味において在ること」=「恒常的にあること」としての「存在」、つまり部分である「存在者」の総体でありながら部分の「存在者」を越えている「全体」が、部分である事物としての「存在者」において自然的に分節化されたものであるとみなされている。つまりシュトラウスの解釈するイデアとは、事物という質料に内在する「全体」であり、この形相=「全体」が質料=部分に対して有する内在しつつも超越するという関係が「存在」の自然的分節化として表現されているのである。(強調は引用者による)(一、p.80)
シュトラウスのイデアは、「内在しつつも超越する。」この時点で、通俗的な古典的宇宙論は通用しない。すなわち、哲学者は叡智的イデア(知識)を非媒介的に直観するのではなく、存在者(質料)を媒介しつつ超越論的に看取する。その媒介的方法がディアレクティケーである。したがって、哲学はこの方法を用いたいわば上昇運動ということになる。上谷はこれを二段階に分けて説明する。第一の上昇とは矛盾する様々な意見から知識への上昇であり、第二の上昇とはソクラテス的転回を経た政治哲学者による不十全的な政治哲学から十全的な哲学的探求への上昇である。ただし、後者には留保が付く。それこそが、現象学的イデア論という認識論的・存在論的立場が齎す限界であり、質料たるわれわれは、あくまでも世界の此岸から彼岸を志向するという関係性を受入れなければならない。したがって、そのように限界づけられた(政治)哲学の営みとは以下のようなものとなる。
政治哲学を実践しつつも問いとしては哲学の立場を堅持すること、「人間的な事柄」=「政治的な事柄」のイデアの追求を「神的な事柄や自然的な事柄」のイデアに対する問い掛けから不断に捉え返し続けること…。別言するならばシュトラウスは「狂気」のプラトン的イデア論を、「正気」のアリストテレス的政治学に内在させることで現象学的に解釈しているのである。(一、p.84)
このように定式化された現象学的イデア論(第一章)を、上谷は『政治哲学とは何か』に収められた二つの論文、「政治哲学は何か」と「古典的政治哲学について」の考察(第二章)の中で、そっくりそのままシュトラウスの公教的教説、すなわち「高貴なる嘘」として位置付ける。

現象学的イデア論

無論、エソテリシズムはこの場合、通俗的な大衆支配の道具としてではなく、シュトラウスのテクストに忠実な哲学の政治的正当化として捉えられている。また注意が必要なのは、いわゆる優秀者支配制(いわゆるジェントルマンの統治、もしくは混合政体)の具体的な地位の問題である(二、p.118-119)。上谷は、これを端的な「最善政体」、可能ではあるが全く現実性を欠く政体とは別の実現可能な政体として捉えているが、この点に関してシュトラウスの言明が極めて曖昧であることは否定しえない。(端的な意味での「優秀者支配制」と「混合政体」の区別) エソテリシズムのかなめは、シュトラウスが秘教的教説をプラトン的な形相‐質料二元論として、つまりは彼岸の哲学の回復として捉えていた(p.121)ということである。これは、哲学と政治哲学の境目をどのように考えるのか、という問題に直結する。ちなみに、われわれが本論文を踏まえて、シュトラウスのテクストから知りうるのは以下のとおりである。

* 哲学は知識の所有ではなく、たかだか探求であるということ
* 哲学の目標たるイデアは永遠普遍の根本問題でしかありえず、われわれには可能な選択肢が示されるに過ぎないこと
* 哲学者の統治は自然に反するということ(全く偶然の産物であるということ)

『ホッブズの政治学』でアリストテレス的な理論的生の優越を擁護したのは、実践的生を至上とする人間中心主義、そしてその最終的帰結としての価値相対主義を排するためであった。それは、他方で秘教的教説としての哲学的営為、プラトン的な形相‐質料二元論の回復という上谷の主張にもつながろう。そして、それによってわれわれは政治哲学における価値相対主義から逃れることができ、善への志向性を心的機制として維持することができるのである。哲学の究極的目標の政治的表現は、神に等しい哲学者(預言者ならびに立法者)による一人支配であった。これ以外の表現は論理上ありえない。アリストテレスの「発生論的」方法はこの支配の可能性を前提として成立する。価値相対主義を打破するための善悪や尊卑の分節化はその極が措定されていなければそもそも可能とはならない。このことによって、われわれは既存の政体の超越論的な批判が可能となるのである。政治的な不正は、不正が全くない状態を措定できなければ、批判する動機すら見出しえないであろう。しかし、このことと、われわれがそのような不正なき状態を真面目に期待していることとは全く別の問題である。むしろそういった状態は現実的ではありえない。ならば、哲学的探求の意義はこの志向性の回復、その一点に存すると見てよい。上谷は、『自然権と歴史』の分析を通じて、その具体的な表現を見出していく(第三章)。アリストテレスにおいて、自然的正が可変的とされたのは、ゾーン・ポリティコンたる人間にとって「神的な事柄や自然的な事柄」のイデアを目標とする哲学が「不自然に善すぎる」からである。ゆえに、そのようなイデアが「質料である「人間的な事柄」=「政治的な事柄」のイデアに内在する形相として分節化されているとは」(p.123)みなされなかった。ここで、哲学と政治哲学は断絶してしまう。(理論的生と実践的生の断絶と言い換えても良いだろう) これに対して、ソクラテス=プラトン=ストア的な自然的正では政治哲学から哲学という第二の上昇が確保されていた。しかし、「神的な事柄や自然的な事柄」のイデアの政治的表現とは、端的な意味での最善政体であり、全ての市民が「賢者」であるような世界国家である。(その実現によって例外状況という矛盾の一切が取り除かれる) この選択肢がシュトラウスにとって現実的な課題として説かれたのではないことはもはや言及する必要すらないであろう。

[結局、シュトラウスの思想的立場を形作ってきたものは、急進的歴史主義という悪夢、その一点ではなかろうか。近代政治哲学によってなし崩し的に引き起こされた哲学の政治化、人間中心主義は、実践的生(つまりは人間中心主義)に還元されえない理論的生の回復を通して反抗が試みられたが、同時にニーチェやハイデガーが先鞭をつけた「反哲学」の流れも無視しえるものではなかった。「故郷喪失を故郷」としなければならない現代人にとって、哲学の営みはその足場すら既に失われている。そのような状況の中で、シュトラウスが選択した手段がエソテリシズムであり、現象学的イデア論であったと言うことができよう。神と野獣の間の存在であらざるを得ない人間にとって、唯一の足がかりは超越論的な生活世界を除いてほかにはない。質料に内在する形相を把握していく作業、すなわちディアレクティケーは哲学者にとっても避けては通れないからである。その意味でかれらはまず政治哲学者たらざるをえない。しかし、「政治的な事柄」のイデアの把握を常に「神的な事柄や自然的な事柄」のイデアの認識から捉え返すという試みは、政治哲学から哲学への上昇可能性を必須の前提とする。その点で、実践的生の究極的基礎付けの問いを回避するアリストテレスの姿勢はやはり不十分に映ってしまうだろう。(もちろんそれはアリストテレスが理論的生を否定するということを意味しないが、そこに理論と実践をつなぐエソテリシズムの契機を見出すことは困難になるだろう) ただ、哲学者がいわゆる第二の上昇によって政治的・人間的な事柄を否定的かつ偶然的なものとして認識するにしても、その姿勢をそっくりシュトラウスに当てはめてしまうことは誤りである。哲学と政治哲学はあくまで相互補完的であり、さらに哲学の営みは事実上幾重にも制限されている。(したがって、プラトンのように世界の存在論的な位階秩序を主張することは哲学者には不可能である、と少なくとも私には感じられる) 哲学は確たる足場(基礎付け)も行き着く先(善のイデア)も見えず、ただただ衝動によって支えられるのである。シュトラウスはこの上昇可能性をなによりも哲学の側において取り戻すことで、典型的歴史という誤謬を自らが犯しつつも、哲学の政治化を解消し(エソテリシズム)、急進的歴史主義という時代の怪物に対抗し続けたということができよう。しかし、シュトラウスの思想をなんらかの統一的な像のもとで見ようとする試みは、もちろん彼だけに限ったことではないし、その限界はあるにせよ、やはり難しい…。]
posted by ta at 14:45| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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