2009年05月05日

Zuckert, Truth about Leo Strauss.(4)

Zuckert, Truth about Leo Strauss.(4)

Chapter Four: Man Who Gave Away the Secrets: On Esotericism (pp.115-154)

残りの二章は、数あるシュトラウス批判の中で猖獗を極めたテーマに関する応答である。(エソテリシズム、高貴な嘘、トラシュコマス主義[を含むエキセントリックな『国家』篇解釈]、マキアヴェリズム、シュミットの自由主義批判) 主として引き合いに出されるのはドゥラリーの本(Political Ideas of Leo Strauss, Leo Strauss and the American Right)であり、ザッカートが序章で述べたように、今日の通俗的なネタの大半が多かれ少なかれ彼女に帰すことができると言っても過言ではない。

ザッカートは、シュトラウスがその著述においてエソテリズムを用いたという主張を明確に否定する。それははあくまで古典的著作家の歴史的理解のための解釈学的手段であって、今日的用法ではないというのがその根拠だ。エソテリズムをエソテリックに伝承しようと思えば、堂々と暴露することは理に当たらない。このような立場はシュトラウス・シンパの間でも間違いなく少数派であろう。しかし、公言されている理由が何であれ、真理の探究をひた隠しにする哲学者像は人びとの猜疑心を掻き立てるに十分である。エソテリシズムの暴露は実際には、大衆操作のための高貴な嘘を覆い隠すためのおとりかもしれない。政策上の配慮と称して、真実を大衆の目から隠蔽することも正当化されているではないか。高貴な嘘と相俟って既存の社会秩序への配慮というエソテリシズムの効用の、これが通俗的な理解であろう。(ただ、ザッカートが挙げているエピソード[p.126]はシュトラウスをよりコミュニタリアンに近づける) シュトラウスは自らのエソテリシズムの使用について暗にほのめかすような表現を用いつつも、明言をすることはなかった。(ザッカートにしてみればその必要がなかったといえる) 残念ながら、その有無を判断するには、現状では状況証拠に頼るほかなく、読者の独断と偏見に依存しているように思える。

しかし、近代の「外」に通じる道をエソテリシズム(ファーラービーのプラトン)に見出したはずが、それをあえて暴露するとはいったいどういうことだろうか。ザッカートの説明によれば事情は以下のとおりである。シュトラウスが解釈する古典古代ではエソテリシズムは哲学と政治の間にあって絶縁体の役割を果たしていた(哲学と都市=宗教の対立)。近代啓蒙主義がこの絶縁体を腐食し尽くした結果、その反動として、ポスト啓蒙の時代に神が死に、哲学の不可能性が喧伝される。こういった精神状況にあって、古典古代において隠されてきた真理を明らかにすることこそが哲学と宗教を共に可能にする道であると、シュトラウスは考えたのである。その真理とは、哲学と宗教は本質的に異なり、哲学的探求は宗教(啓示)を決して反駁しえないということ、端的に言えば、哲学の限界である。限界の承認は不可能性の承認と等価ではない。それは価値相対主義という極論を排しつつ、同時に人間中心主義の迷妄を正すことを意図している。だが、現代のわれわれにとっては全体への探究が不可能であることは自明の事柄である。したがって、シュトラウスが古典古代のエソテリシズムの暴露によって明らかにしようとするのは、このような哲学の限界ではなく、プラトンのような古代の哲学者ですらその限界を認識していたというなによりも驚くべき事実なのである。であれば、通俗的なイデア論解釈や魂の不死性というプラトン的教説は公教的としてシュトラウスによって一蹴されてしまう。もちろん、彼のこのようなエキセントリックな解釈は大いに議論の余地があろう。ただ、それによって、近代の「外」、すなわち、哲学(と宗教)をポスト啓蒙の時代に可能しうる地平が発見される。

プラトンの高貴な嘘についても一言付しておく必要があろう。ザッカートの理解によれば、『国家』篇において言及される嘘とは、哲学の限界を知悉したプラトンにとって、完璧に自然に合致した社会生活というものが不可能であるがゆえに必要とされる嘘のことである。われわれの社会においては完璧な配分的正義が実現されているわけではない(各人の長所、自然的価値を寸分たがわず判断しうる存在、すなわち偶然を完璧に支配しうる存在をわれわれは神と呼ぶ)。ゆえに、あらゆる支配者(特に世襲的なそれ)はなんらかの神話、すなわちフィクションに寄りかかることなしには権力を維持することはできない。土着性の神話(myth of autochthony)についても同様である。プラトンが高貴な嘘によって指し示すのはまさしくこれらの事柄なのである。よくよく考えてみれば、嘘の実践を自らの著作において明らかにすることなど全く本末転倒であろう。プラトンの著作がなかば秘儀的にエリート知識人サークル内でのみ伝承されてきたという話は聞かない。当時の自由人ならばこの公刊された著作を読んで、その勧めに納得するよりも、身の回りの神的・自然的権威を疑い始めるというのが道理ではなかろうか。この論理に従えば、プラトンの『国家』篇は現代のわれわれから見れば理想国家建設の手引書であるが、当時の人びとからすれば暴露本に過ぎない。

本章の後半ではエソテリシズムの具体的な解釈がいくつか紹介されている。中でもスタンレー・ローゼンに多くの紙幅が割いているが、彼はシュトラウスがエソテリシズムを実践していると確信しており、その根拠を哲学の不可能性に求めている。それによれば、哲学と自然的正の復権というシュトラウスの主張は高貴な嘘でしかなく、その意味ではニーチェと地平を共有している。ただ、哲学的営為を「権力への意志」に還元してしまうことに対してはローゼンのシュトラウスは同意しない。したがって、シュトラウスは「隠れニーチェ主義者(a secret Nietzschean)」ではない。エソテリシズムの暴露については、ローゼンはそこにジレンマを見出している。シュトラウスには「政治的政治(political politics)」と「哲学的政治(philosophic politics)」という二つのプロジェクトが存在し、前者は現代のリベラリズムにジェントルマンの統治を対置するものであり(ちなみにローゼンはこれに対して批判的である)、後者は哲学の維持を目的とする。エソテリシズムは、この両方の政治に関わる。前者のアリストテレス的政治学を貫徹しようと考えれば、エソテリシズムは維持されなければならない(哲学的狂気に対する政治的節度)。しかし、シュトラウスは現実にエソテリシズムを暴露した。当然、それは哲学の維持に貢献するからであろう(哲学的政治)。先述したように、ローゼンによれば、シュトラウスの求める哲学の可能性自体が既に否定されていた。したがって、ローゼンの言うような哲学的政治はそもそも成立しえない。この論理の非一貫性はどこから来るのだろうか。ザッカートは彼の三つの誤ったシュトラウス解釈に着目する。まず、ローゼンは政治哲学を哲学的政治として、すなわち哲学が実践的生に接近する手段としてのみ位置付けている。その意味で、政治哲学は一種のプロパガンダに過ぎない。しかし、上谷の論文でも見たように、シュトラウスにとって政治哲学はディアレクティケーへの導入という重要な役割を果たしている。したがって、ローゼンの解釈は極めて皮相的である。第二に、ローゼンはシュトラウスの前哲学的世界、いわゆる生活世界への回帰を不可能であるとしている。ザッカートはこの点に関して、彼が出発点をゴールと取り違えていると批判する。すなわち、シュトラウスにとって前哲学的世界はあくまでディアレクティケーの起点にしか過ぎず、それはローゼンが想定するような哲学的脱構築によっては到達し得ない(半ばノスタルジックな)世界などではない。それは古代の哲学的伝統が発生する以前の臆見の世界である。したがって、根本問題というシュトラウス的イデアは事物の表面に、われわれの手が直接届きうる場所に内在するのではなく、われわれはそのために上昇せねばならない。だからこそ、最初は哲学ではなく、政治哲学なのである。第三に、これは上谷論文でも指摘されたことだが、哲学的探求はその不可能性を前提とした恣意的な決断によるものなのか、それとも可能性を前提とした哲学的エロスによるものなのか、という問題がある。ローゼンは前者に与し、ザッカートは後者の側に立ってこれを批判する。上谷も、哲学の可能性を暗黙の前提としつつ、後者に近い立場をとっていると考えて良いだろう。確かに、啓示というfactum brutumとシュトラウス哲学の到達点であるソクラテス的な無知の知(世界を完全には知解しえないという覚知)は哲学の確たる基礎付けを掘り崩してしまっている。しかし、それは彼が哲学を単なる意志もしくは信仰に(ニーチェとは違った意味で)還元しよう試みたからではなく、ポスト啓蒙の時代に哲学を可能にする方途を模索したからであるということを忘れてはならない。

Chapter Five: Leo Strauss - Teacher of Evil? (pp.155-194)

この章でも基調となるのはドゥラリーの批判である。まずは、On Tyranny(以下、OT)であるが、この書を独裁政治の勧めと捉える彼女のエソテリックな解釈に対し、ザッカートはテクストから読み取れる意図に沿って政治病理学として捉える。そこで主張される、シュトラウスの意図とは以下のようなものである。
The ultimate aim of Strauss’s book is to recapture the original understanding of the original and universal character of tyranny, so that we in our time can build on that base toward an understanding of the peculiarly modern and peculiarly dangerous forms of tyranny that we face. (p.159-160)
彼の念頭にはヒトラーのホロコースト、スターリンの強制収容所があることは言うまでもない。この点で、彼はハイデガーと関心を共有する。すなわち、技術とイデオロギーである。

次に槍玉に挙げられるのは、いわゆるトラシュマコス主義(正義=強者の利益)を寸分違わずにシュトラウスの立場とするドゥラリーの解釈である。これは、The City and Man(以下、CM)で登場するエキセントリックなプラトン解釈の一つと見なされるものだが、シュトラウスがトラシュマコスにより多くの関心を抱く理由、それはザッカートによれば、「いかなる登場人物もプラトンの唯一の代弁者ではありえない」(p.168)という解釈学的な確信である。プラトン的対話は臆見から知識へのディアレクティケーの中にある。したがって、個々の発言を常にその過程、つまりは話の筋から読み返すこと、シュトラウスの対話篇解釈はそのことを読者に要求する。では、トラシュマコスの貢献とは何か。ザッカートによれば、正義とは法への服従に存すること、そして、法に基づく支配も、法に基づかない支配(OTで論じられた僭主政治)と同様、恣意的統治(法=強者の利益)に陥る可能性を免れていない事実をソクラテスに突きつけたことにある。つまり、(プラトンの)ソクラテスは(プラトンの)トラシュマコスから難題(法の根拠となるはずの共通善の否定)を突きつけられたわけであり、それによって正義の問題の所在が明らかにされたのである。この時点で既に、ドゥラリーの解釈が(ザッカートからすれば)極めて皮相的なものであることが確認される。このようにトラシュマコスによって提起された正義の問題は、その直後グラウコンとアデイマントスによってより根源的な形で再提起されることになる。つまり、正義はそれ自体として望ましく快いものなのかどうか、という問いである。CMにおけるシュトラウスの結論は、哲学的探求こそ端的な人間的善であり、最も快い、というものであった。その意味で、哲学者こそが唯一の端的な正義の体現者かつ法の遵法者であり、富や権力、肉体的快楽を追い求めないがゆえに他者を決して害しない。しかしながら、ソクラテスは決してヨブではなかった。プラトンの描く彼の最期(もしくは死生観)を知る人間にとっては、彼が不幸であったとはとても言えまい。けれども、ここで知りたいのは哲学者における究極的な正と善の調和ではなく、まさしくわれわれ自身の問いである非哲学者にとっての正義、トラシュマコスの問いかけ(正義=強者の利益)に対する回答である。ザッカートによれば、シュトラウスは〈人間‐全体〉と〈市民‐社会〉という二重写しの関係において広義の道徳を捉え、それによって共通善を可能にする。すなわち、人間がその部分であるところの全体に対して開かれているのと同様に、ゾーン・ポリティコンたる市民がその部分であるところの社会に対して開かれているということだ。この場合、当然ながら社会は個人(トラシュマコス主義に対しては、いかなる強者)に先立って道徳的源泉として存在していなければならない。別言すれば、近代の契約論的社会観、その成れの果てである歴史主義的社会観は排除される。[このような全体と社会のアプリオリな措定は、形而上学的・民族主義的な全体主義の危うさを感じさせるかもしれないが、これまで幾度となく触れてきたように、シュトラウスにとっては、この二重写しが完璧な一枚絵となることはありえず、社会(実践的生)において正義は常になんらかの不自然さを伴わざるをえない。そこに政治の限界が存在するのであり、宗教的・形而上学的正統性を主張する支配者は常に猜疑の目にさらされるのである。]

次に問題とされるのはシュトラウスのマキアヴェッリズムである。この図式はまさしくドゥラリーの議論の根幹を為すものであるが、ザッカートによれば以下の三点に集約される。第一に、シュトラウスによるマキアヴェッリへの賛辞。第二に、マキアヴェッリのエソテリシズムの否定。第三に、反神学的的解釈の否定である。ザッカートはこれらの主張を逐一批判しながら、更には根本的な誤りをも指摘する。それは、ドゥラリーがシュトラウスの思想の中にマキアヴェッリズムと観照的生の可能性を同時に認めていることである。マキアヴェッリズムの前提条件が(ホッブズと同じく)古典的な理論的生の排除である以上、当然この主張は正当ではない。

本章の最後のテーマが、シュミットとの思想的連関についてである。ザッカートはシュミットの政治的なものについての周知の議論を以下の三点にまとめる。第一に、近代リベラリズムの失敗はワイマールにおいて明らかになった。第二に、その原因は政治的なものの否定に求めることができ、解決の道は強力な国家主権の回復にある。第三に、政治的なものの本質とは友敵関係であって、それは物理的闘争の可能性によって特徴付けられている。先のエントリでも見たように、まさしくシュミット批判によって近代の「外」への模索は緒に就いたのであるから、シュトラウスは第一の点に完全に同意している。次に、第二の点について。シュトラウスは政治的なものの復権という意味ではシュミットに同意するが、それはホッブズのように絶対的な国家主権の確立によってではなく、哲学的営み(観照的生)を可能にする(そして価値相対主義を排除しうる)アリストテレス的な混合政体を通じてである。最後の点について、ザッカートはシュトラウスの政治的なものを友敵関係によって規定することをきっぱりと否定する。これは、シュミットのリベラリズム批判が結局はリベラリズムの地平(価値相対主義という横軸)を脱しきれなかったのに対し、シュトラウスが公的精神や共通善への献身という縦軸(つまりは道徳的方向性)を導入したことによる。このような道徳性の根拠となるのは、アリストテレス的な人間理解(ゾーン・ポリティコン)である。われわれは実際に社会にあって、あらゆる行為が許されているわけではない。このような自由についての理解は偏狭さや不寛容性すら許容してしまうリベラルな寛容性に対する批判にもつながっている。[市民社会の自律性を前提とするリベラリズムが反ユダヤ主義に対する解決策となりえなかったという歴史的事実から、彼が制度よりも教育を重視したことが理解されうる。シュトラウスが非難されるとすれば、独自の規範的な理論構築を行わず、きわめて曖昧な形での大枠の議論に終始したことである。例えば、彼は自然な(この表現も極めて胡散臭く思われるだろうが)共同体のあり方を小規模な都市国家、いわゆる「閉じられた社会(a closed society)」に求めた。しかし、このことは必ずしもポパー的な批判的合理主義、「開かれた社会」と二者択一的関係にあることを意味しない。シュトラウスにとって「閉じられた社会」の対極は技術と俗物的イデオロギー(つまりはマルクス主義)によって支配された世界大の「末人」国家である。したがって、シュトラウスの視点からすれば、既存のいかなる主権国家も「閉じられた社会」に該当しうる。(もちろんポパーは共通善のような「全体主義的」概念を嫌悪するだろうが) ただ、ザッカートは、シュトラウスがコスモポリタニズムを端的に誤りと考えているわけではないとも考えており、それらは『自然権と歴史』(NRH, pp.148-149)や「ハイデガー実存主義への序説」(RCPR, p.43-46)等から察することができる。そして、シュトラウスの用いるレトリックも現代のアルキビアデス(トラシュマコス??)を安直な政治的冒険へと誘いうるものとして危険視されよう。ジェントルマンの統治や高貴な嘘など、露骨な卓越主義者(新アリストテレス主義者)や理想主義者が自らの物語をつむぎ出すには十分であるに違いない。]

最後にザッカート夫妻の経歴を。

Catherine Zuckert is Nancy Reeves Dreux Professor of Political Science at the University of Notre Dame. She also currently serves as Editor-in-Chief of The Review of Politics . B.A. Cornell University (1964); PhD University of Chicago (1970).
http://www.nd.edu/~czuckert/
http://politicalscience.nd.edu/faculty/profiles/catherine-zuckert/

Michael Zuckert (B.A., Cornell University; PhD, University of Chicago, 1974) is Nancy Reeves Dreux Professor, and Department Chair of Political Science at University of Notre Dame. Professor Zuckert teaches graduate and undergraduate courses in Political Philosophy and Theory, American Political Thought, American Constitutional Law, American Constitutional History, Constitutional Theory, and Philosophy of Law. His advising specialties are graduate programs in political science.
http://www.nd.edu/~mzuckert/
http://politicalscience.nd.edu/faculty/profiles/michael-zuckert/
posted by ta at 00:03| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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