2009年05月30日

平木「ニーチェにおける誠実性の問題」/山本「ニーチェにおける〈芸術家の誠実さ〉について」

平木幸二郎(2004)「ニーチェにおける誠実性の問題―ニヒリズムの問題をめぐって」『人文科学論集 人間情報学科編』38, 1-26.

以下メモ。

* 「正直な(ehrlich)嘘」=(自己に対する誠実+)他者に対する嘘=高貴な嘘(マキアヴェッリやイエズス会)
* 「不正直な(unehrlich)嘘」=自己に対する嘘+他者に対する誠実=ルサンチマン(虚構としてのキリスト教的な利他主義的道徳)

[シェーラー: 「事実の偽造」から「価値の偽造」へ]
@ 事実の偽装: 「自分の都合のよいように現実を歪めてとらえること」(p.6)
A 価値の偽装: ルサンチマン=「欲求と無能力との間の緊張を、「その欲求が目指しているものは実は価値のないものだ」ということによって弛緩させ、苦しみから逃れようとする心のあり方」(p.9)
ニーチェにとっての道徳・道徳的価値=「転倒された価値」=善人の「本能となった自己欺瞞」≠誠実さへの途上にある自己欺瞞
ニーチェが意味する誠実さ=「知的正直さ(intellektuelle Rechtschaffenheit)」・「知的良心(intellektuelles Gewissen)」⇔「他者への誠実さ」・道徳的「誠実さ」
「われわれに残された、ただ一つのわれわれの徳」(『善悪の彼岸』227)

* キリスト教的誠実性という出自⇒〈あらゆる真理への意志(「私は欺かれたくない」とする意志)は何を意味するか〉という自問⇒極限的ニヒリズム(p.14)

「真理」=「認識の事物への一致」という一般的意味=表象の確実性⇒デカルトのコギトと神の誠実さからカントの「物自体」と「擬人観」へ⇒物自体の否定⇒「真理は殺す。---その上、真理自身を殺す(真理がおのれの基盤が誤謬にあることを認識するかぎり)。」(原文引用、p.17)⇒ニヒリズムの極限=デカルトの懐疑自身を、懐疑にかける⇒「力への意志」、「認識[表象化]する我」に死んで「意志する自己」として生き返る⇒ニヒリズムの克服(p.18)

(擬人化する)認識=「生成する世界」(=「混沌たる感覚の没形式的な定式化不可能な世界」)を「存在するもの」からなる世界へと作り変えていくもの⇒存在の「遠近法的真理」(p.19)
「真理とは、それなくしてはある種の生命体が生きることのできないような種類の誤謬である。生にとっての価値が、究極的に決定する」(原文引用、p.20)

* 二重の真理概念=「存在するもの」・「恒常的なもの」としての「真理」⇔「生成するもの」・「生成」としての〈真理〉
「存在しているのはただ一つの世界であって、しかもこの世界は、虚偽で、残酷で、矛盾にみち、誘惑的で、意味をもたないのである。このような性質の世界が、真なる世界である。この実在、この〈真理〉に対して勝利をおさめるためには、すなわち生きるためには、われわれは嘘を必要とする」(引用、p.20)

⇒理性による生成の固定化としての「嘘」=「真理」⇔「事実というものは存在しない、あるのは解釈だけだ」(引用、p.21)⇒感覚、感官への信頼・感官の証言という事実のあるがままの解釈=〈真理〉

* 二重の嘘概念=自己保存を可能にする(理性的認識による)嘘と自己超越を可能にする(生成的芸術による)嘘

(認識論上の)嘘の三段階=@感覚の証言をもちいて「存在するもの」を作り上げる嘘=科学的真理など(⇒自己保存のために必要不可欠な嘘)、A@の「真理」を歪める事実の偽造(⇒弱い生を一時的に守るためのやむをえざる嘘)、B価値の偽造=キリスト教的世界観など(⇒生を傷つける嘘)

芸術が生み出す嘘=「生命感情の高揚と生命感情の刺激剤」としての嘘⇒われわれを生成へと差し向け、生成のうちに引き込む/芸術は「真理よりもいっそう〈神的〉な何ものか」(引用、p.23)

山本恵子(2006)「ニーチェにおける〈芸術家の誠実さ〉について」『美學』56(4), 27-40.

芸術家の誠実さについてもう少し。以下メモ。

Selbst=対象化されえない生の根本衝動・「身体(Leib)」>Ich=伝統的自我・「精神(Geist)」(pp.31-32)
「意識的生の全て」が「動物的根本諸機能の、とりわけ生の上昇の手段(栄養の・上昇の手段)」の完成に仕える

既存の諸価値の「否定」と「忘却」⇒創造行為としての「図式化」
徳の源泉としてのSelbst: 「命令的語り」としての「誠実さ=徳」の本質⇒力への意志

芸術家における誠実さの発生=「創られたもの」として自己を他者化し破壊し続け、「孤独」(⇔「市場」)へと回帰し続けること; 「固定化(Befestigen)」と「変転(Wechsel)」⇒独我論的??

「芸術家の条件。…陶酔(Reusch)、すなわち、高められた力の感情。それは諸事物を自分自身の充実(Fuelle)と完全性(Volkommenheit)の反射とする内的強要(die innere Noetigung)である」(引用、p.35)

ハイデガー: 「創造者の変種(Abart)」としての享受者(p.36)
芸術作品によって惹起される「陶酔」(≠解釈・批評)を通しての創造者と享受者の結合⇒Selbstの重層性: 個人の主体性の根源と人間一般に共通する無意識的根源(p.37)=他者に対する〈遠さ〉と〈近さ〉の共存(p.38)

「ニーチェにおいて既成道徳による他律性を否定して得られる個人の意義は、遠近法主義を多元的相対主義(すなわち自分の視点と他者の視点の差異がそれぞれの生の意義となること)においてではなく、生あるものすべてが共通して自己の内に保有するSelbstに従うことにおいて認められる。」(p.38)

ディオニソス的精神に基づいた一種の人類教のようなものをどうしても想起してしまう。だからこそ、ニーチェの発想は一方的に非西洋的パースペクティヴを提供するにとどまり、異文化(平たく言えば、イスラム)に受入れられることはかえって難しいのでは?
posted by ta at 21:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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