2009年05月30日

永井『これがニーチェだ』/三島『ニーチェ』

永井均(1998)『これがニーチェだ』講談社現代新書

掛け値なしに刺激的なニーチェ論。例のごとく、以下のような図にしてみた。(この時点で、哲学することを放棄しているようなものだけれど…) 第二、第三空間が点線なのは、「語りえないもの」だから。

永井均のニーチェ観
超人は、外的な理想を持たないということの外的な理想…[であり、]永遠回帰に耐えることができる強者であり、第二空間と第三空間のはざまに生息する、第三空間的理想の第二空間的形象である。(p.194)
…彼が「生に敵対する」と言うとき「社会に適合する」と読み、彼が「生を促進する」と言うとき「反社会的」と読むことさえできる。そう思ってみれば、…繊細なニーチェ的道徳も、人間が社会性によって傷つかないことを目指していることがわかるだろう。(p.49)
「『それはあってはならぬことである』『それはあってはならぬことであった』といった言い草は、ひとつの喜劇である…何であれ何らかの意味で有害で破壊的なものは取り除こうなどと思うならば、結局は生の源泉を滅ぼしてしまうことになるだろう」/これは究極の真理だと私は思うが、世界の中で人々に向かって語ることが社会的に意味のあるような主張ではない。(p.174)
ニーチェは、弟子たちはイエスを誤解した、と書いた。そしてイエスについて、彼は無罪だった、と。だが、そうなのだろうか。次に来る者は、弟子たちはニーチェを誤解した、と書かねばならない。そしてニーチェについて、彼だけは無罪だった、と。/この連鎖はおそらく、この運動全体に、はじめから有罪性が込められていることを物語っている。(p.164)
「あとがき」には信大時代の同僚として先に紹介した平木に謝辞が送られている。食い違う点も多かったことだろう。

三島憲一(1987)『ニーチェ』岩波新書

スタンダードな入門書。永井のニーチェ論と比較するとやはり弁明的に見えてしまう(特に第9章)。それゆえニーチェの矛盾に関する指摘も幾分鳴りをひそめる格好となっている(唯一と思しきものは177頁の「超人」についての一節)。ただ、永井が示す微細かつ厳密な哲学的思考(それ自体、極めて魅力的であるが)は、ニーチェの一見したところの高貴な粗暴さと無垢な遊び心にはそぐわないように思える。ニーチェはやはり感性の人である(哲学的直観の鋭さとは異なる意味で)。しばしばその源流に位置付けられながらも、哲学的脱構築という方法が不釣合いに見えてしまうのも彼ならではであろう。

[『反時代的考察』について]
ディルタイは誇らし気に〈歴史的啓蒙〉という言い方をするが、このように〈啓蒙された歴史主義〉とでもいうものは、主体である理性の光に照らされた現代の立場から、あたかも現代が〈歴史の頂点〉であるかのように、あらゆる歴史上の事柄を客体化し、解釈することである。いかなる歴史的対象もそれなりに尊重し、現代にとっての意義を顧慮することなくすべてを蒐集し、編纂し、それの置かれた固有の歴史的限定のなかに位置付け、いっさいの〈先入見〉を排除して、その時代のなかから解釈することがその任務となる。/この再生的営みによって現代人は過去の遺産を楽しむことができるわけであるが、これはしょせんは自分を楽しんでいるだけなのではないか、現代の尊大な自己満足、根拠もなく理性とその学問が幅をきかせている事態ではないのか、というのがニーチェのぶつけた疑問であった。(p.94)
彼ら市民階級は19世紀を19世紀たらしめている科学の〈力〉と経済の勢いによってのしあがってきたのだが、そうした〈力〉はしょせんは抽象的でアイデンティティの基盤にはならない。それゆえ、この〈抽象性〉になんらかの実体を与えようとして、まさにその科学と経済によって葬り去られようとしていたドイツ的な〈教養〉の伝統に、成功者の感覚で、…手を伸ばした。経済万能と伝統文化との素朴な一体感が横行する現代日本の状況とどこか似ていなくもないが、こうしたメッキ文化は、勤勉な労働によって全面的に覆いつくされた生活のなかで、その片隅に残された余韻としての文化でしかなく、生の分裂を乗り越える力を持っているわけがない。せいぜいがその分裂にある種の共同幻想の皮膜を張るだけであった。(強調は原文通り、p.102)
[〈永劫回帰〉と徹頭徹尾の認識について]
…こうした超人、支配種族の世界は、彼が克服しようとした近代的な現実のなかでは、つまり、アポロとディオニュソスが分裂している現実のなかでは、単なるパワーエリートでしかない。自己の欲望の満足をなりふりかまわず求める社会的強者でしかない。場合によれば、ナチスにつながるものもないとはいえない。この点ではニーチェ自身が自分を誤解したふしがある。というのも、こうした〈力への意志〉は、彼はあれほど再来を望んだソクラテス以前のギリシアの世界、生きることと美であることの一致した芸術的世界とはどう見ても無縁な、きわめて非ギリシア的なものだからである。一切の存在が認識のまなざしのなかで美に転化するというモチーフはかき消えて、残るのは、自然のなかの赤裸々な力の争いが社会の中でも起きているとする主張である。啓蒙の鬼子である道具的理性との癒着はここにはある。(p.177)
だが、この認識と肯定の決断をツァラトゥストラ=ニーチェのうちに産み出すものはまた〈力への意志〉をおいて他にはない。いかなる認識もまさにこの〈力への意志〉の所産だからである。いわば、〈力への意志〉が最高の自己集中によって自己の本来のありよう、つまり美的肯定の手段であることを認識し、支配と抑圧と操作のみをめざしていた自己のあり方を克服するのである。さきに〈力への意志〉が自己目的と化することを防ぐものとしての〈永劫回帰〉と言ったのはその意味である。/支配のための認識ではなく、徹頭徹尾認識と化することによって得られる認識こそが、そしてそのときの幸福こそが〈永劫回帰〉の体現であり、それによる祝福なのである。(強調は引用者、p.184)
表層(生成・仮象)としての認識(背後世界の否定)とその思想的帰着としての〈永劫回帰〉も〈力への意志〉の所産であるかぎり、ルサンチマンに起因するひとつのパースペクティヴでないとは言い切れない。この矛盾を避けるためには意志そのものが否定される必要がある、というのが永井の所論であった。したがって、肯定への決断は決して語られうるものではなく(加えてしばしば煽動的な言葉で)、ただ示されるものでなければならない。さらに、いかなる仮面の下にあっても〈力への意志〉を超越論的に「語る」ことは、それが歪んだ権力・革命思想に帰着する可能性を排除しえない。このことは更に彼の称揚する超人と単なるパワーエリートとの境目を曖昧にしてしまう(むしろ両者は従来的価値観へのあからさまな蔑視および「貴族的急進主義」(p.197-198)という点で一致する)。以上の三島の言明からは、そのような〈力の意志〉自体を超克するという視点は見出せない。それゆえ、彼の紹介するニーチェの「歪んでいない」理解(美と認識の一致)も一定の危うさを孕んでいるように思える(pp.214-217)。
posted by ta at 21:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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