2009年06月28日

デリダ『言葉にのって』

J・デリダ(林好雄ほか訳)(2001)『言葉にのって―哲学的スナップショット』ちくま学芸文庫

デリダによるデリダ101。
遺産継承というものがありうるとすれば、そのための条件は、継承すべきもの、ここではテクスト、言述、体系、あるいは主義のようなものですが、それが、まるで、私の最後の言葉とともに[ひとつの思想に署名すらしないうちに]私が死んでしまうかのように、もはや私には属していないということなのです。言葉を換えて言えば、遺産継承の問いは、他者のもとに残された問いでなければなりません。答えは、他者のものです。他者がどうするのだろうかと自問することはできないのであって、願うべきは、答えが他者の答えであって、私のものではないということ、答えが私によって押しつけられないということ、他者が、たとえ彼が、たとえば私の遺言の管轄下あるいは支配下にあるとしても、みずからの判断でしか決めないということです。/…本当の継承者、自分がそれであることを望みうる継承者は、起源とか父とか遺言者とか著作家あるいは哲学者と十分に訣別しているために、自発的にその遺産継承に署名あるいは副署しようとする継承者です。副署=反署する(countre-signer)とは、別のものに署名すること、別のものを生じさせるために同じものと別のものに署名することです。副署は、原則として、絶対的自由を前提としています。(pp.86-88)

真実を話すためには、誠実であるためには、嘘をつくことができなければなりません。嘘をつくことが出来ない存在なら、正直であることも誠実であることもできません。こうした可能性の概念は根本的なものです。…そういう理由で、カントは[あなたがさきほど引用したモローの]小説(註・『真実の都市』)の結論には同意しないことでしょう。つまり、人は真実を話すようプログラムされているとき、人は誠実であるとかどうとか言えないわけです。志向性重視の伝統を引き継ぎながら、カントは、私たち正直で誠実であるようにおしすすめる役割をになっているのは、志向的な意志であると主張しています。…真実を機械的なものにするような存在者の条件づけは、虚言の条件そのものである、意図性=志向性(intentionnalité)の観念と矛盾するわけです。(p.150-151)

赦し(pardon)は法律=権利(droit)とは異質なものです。…もし私が許しの名のもとに犯罪者をその罪から切り離すとすれば、私は罪のない人を赦すのであって、罪ある人を赦すのではないことになります。…赦しは、罪のない人や悔悛した人を赦すのではありません。それは、罪あるかぎりでの罪ある人を赦さなければならないのです。すると極限においては、そこから、赦しの錯覚状態と言えるにちがいないような錯覚的な経験が生じもするわけです。つまり、現に自分の犯罪を再現し反復しつつあるにちがいないような犯罪者を赦さなければならない、ということになるのです。そこにこそ、赦しのアポリアがあります。…もし赦しが倫理的であるならば、ジャンケレヴィッチの言うように、それは《誇張法としての倫理的》なのです。つまりもろもろの規範、規準そして規則を超えているのです。(p.205-206)
posted by ta at 10:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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