2009年06月30日

Meier, "Why Political Philosophy?"

Meier, Heinrich. "Why Political Philosophy?" Review of Metaphysics. 56 (2002): 385-407.

マイアーは、アリストパネスの喜劇『雲』を、ソクラテスに対する「友人からの警告」(p.387)と捉え、そこから政治哲学を不可避たらしめる4つの要因を引き出す。第一に政治的対象の正確な認識(総体としての人間性と正しさへの問い)、第二に哲学的生の政治的正当化(友愛の政治、無制限的な哲学的懐疑と社会秩序の対立)、第三にその合理的根拠(政治神学と政治哲学、啓示と理性の相克)、そして最後に哲学者の自己認識(反省、批判)の場としての政治哲学、である。哲学者はまずもって政治哲学者たらねばならない、平たく言えばそういうことである。したがって、固有の意味における政治哲学は「ソクラテス的転回」に全く回収されることになる。
The notions of the sublime, the noble, or the beautiful, which are bound up with philosophy, must be questioned with regard to their dependence on the political, moral, and religious opinions within the political community that the philosophers seek to transcend, no less than must be the desire for devotion to truth or the will to certainty, each of which is in danger, in its own way, of fostering a new dogmatism or a self-forgetfulness of philosophy. (pp.391-392)
無節操なエロスに引き摺られて、忘我的に哲学的探求を行うことは、結果的に自らの足元をも危うくしてしまう。『クリトン』で国法に対峙したソクラテスが従容として死に就いたのも、このようなパラドクスのひとつの表われであったとするのは言いすぎであろうか。ただ、その自己認識の過程が具体的にいかなる形をとるのか。このことによっても新手のドクマティズムや忘我状態に陥る可能性が左右されることを付け加えておかねばならない。

ここでの哲学者像がシュトラウス的なものであることは間違いない。(マキアヴェッリから歴史主義・相対主義に至る過程は彼の議論そのものである) そのように言えてしまうのは、われわれが日頃見知りする(政治)哲学者からは明らかに異質だからである。特に、ハイデガー、ヴィトゲンシュタイン、フレーゲの名前を、シュトラウス=マイアーの意味での(政治)哲学者ではなく、「ソクラテス以前の哲学者」として呼ぶところからも容易に推察できよう。(p.401) ただ、ハイデガーはともかく、ヴィトゲンシュタインやフレーゲは(この意味での)政治哲学者ではないとしても、第一存在・原因の探求を旨とする自然主義者としてもなかなかイメージしにくい。ましてや、自然主義者について全体や人間本性といった哲学的に極めてナイーブな言葉づかいがされるのであれば尚更である。さらに、マイアーはルソーの『孤独な散歩者の夢想』の「第五の散歩」を取り上げて、「政治哲学の傑作」(p.407)と評する。(マイアーの処女論文がルソーの『人間不平等起源論』についての註釈である) マイアーの言う政治哲学者とはまさしく「ソクラテス的転回」を経た哲学者、肝心ではあるものの、われわれの直観に反して、固有の領域を欠いた生き方そのものであることが理解できるだろう。
The perfect happiness he achieved in his rêveries solitaires Rousseau describes as a state of continuous, fulfilled, timeless present, a state in which the soul finds a solid enough base on which it can rest itself entirely and on which it can gather its whole being. "What does one enjoy in such a situation?" Rousseau asks. "Nothing external to oneself, nothing besides oneself and one’s own existence; as long as this state lasts, one is sufficient unto oneself, like God." (p.406)
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H・マイアー(1953-)は現在、独ジーメンス財団理事(1985-)ならびにシカゴで特別招へい教授(John U. Nef Committee on Social Thought、2006-)。ここで取り上げた論文も、シカゴでの教授就任講演(2000)がネタ元。フライブルクでDr. phil.(1985)。ドイツ語版シュトラウス全集の編集責任者としても知られる。Wikiによれば、若い頃に極右系学生新聞の編集者を務めていた経験があり、財団理事の地位もドイツ「保守革命」の名付け親であるA・モーラー(1920-2003)から引き継いだ。また、シュミットの『レヴァイアタン』に初めて註解をほどこしたのもマイアーのDie Lehre Carl Schmitts(1994)らしい。
posted by ta at 21:26| Comment(0) | TrackBack(0) | シュトラウス文献 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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