2009年08月19日

スローターダイク『大衆の侮蔑』

P・スローターダイク(仲正昌樹訳)(2001)『大衆の侮蔑―現代社会における文化闘争についての試論(2000)』御茶の水書房

訳者解説というのは本当にありがたい。(翻訳であるということ自体が既に解説を読んでいるようなものだが) 以下抜書き。
従ってポストモダン社会における結集しない、そして結集し得ない大衆は自己の身体、自己の空間という感情はもはや持たないのである。大衆はもはや合流して、一緒に行動することはなく、脈が打っている体を感じることはないのである。彼らはもはや共同の叫び声を挙げはしない。彼らは実用的・慣性的なルーティーンを脱して革命的に先鋭化していく可能性から次第次第に遠ざかっていく。彼らの状態は、各粒子がそれぞれの空間の中で個別に振動しているガス状の凝集体に類似している。各粒子がそれぞれ願望力と前政治的な否定性=負の電気(Negativität)によって充電されながら、プログラム受信機にかじりつき、絶えず繰り返し自己を高揚し、享楽しようとする試みに身を捧げているわけである。(p.16-17)

自己目的(ein Ende in sich selbst)化した人間についての近代的言説は、発展と惰性の二者択一の間を揺れ動いているのである。従って近代は、努力に期待する進化論者たちと、努力の終焉(Ende)を説く誘惑者の間の原理的に見て決着のつきようがない対立のアリーナなのである。(p.34)

民主主義のプロジェクトは、人間の他性(Andersheit)を異なった仕方で―しかも、彼らの間に(自然に)見出される相違(Unterschied)を拒絶し、(意図的に)為される区別(Unterschied)で置き換えるような仕方で―解明するという決断に依拠している。「見出すfinden」と「為す=作るmachen」の間には、将来にわたって、最も激しい闘争が行われることになる何本かの境界線が走っている。これらの境界線とは、保守的利害と進歩性、服従と自己決定、“存在論的に認知すること”と “構成主義的に新しく、異なったやり方をすること”、そして最終的には、ハイ・カルチャーとロー・カルチャーを分かつ境界線である。(p.100)

…教養という尺度から見れば、単なる世襲貴族なるものが、しばしばマナー意識をもった野蛮人にすぎなかったことも想起すべきだろう。とりわけ英国の貴族については、彼らが前アルファベット的な体質であったことを示す例がいくつもある。(p.107)

大衆文化は、自己自身を関心をもたれる存在にしようとする試み(Sich-interessant-Machen)、つまり自分を他人よりもよく見せようとする試み(Sich-besser-als-andere-Machen)の全てが挫折することを前提に成立しているのである。そして、これは当然なことである。というのは、我々の相違(Unterschied)はいかなる差別(Unterschied)も作り出さないという前提の下でのみ、我々はお互いを区別し合っている、というのが大衆社会のドグマだからである。大衆であることには義務が伴う。(p.116-117)
文化闘争を最基部でコントロールする原理を明らかにし、古典哲学の超越的審級(同一性と現前性)を排したはずの近代のプロジェクトが、結局は「より二次的、よりネガティヴ、より再帰的な姿で」(p.115)同一性の亜種、無関心=非差異性を引き継いだという指摘は、的を射ていて非常に面白い。例外・異常なるものとしての芸術(およびそれに対する称賛)にひとつの処方箋を求めるところはニーチェ臭むんむんだが、それを政治的言説の中心へと翻訳することは巧妙に避けているような感がある。そうであっても、真に称賛に値する差異性と大衆文化の力学に絡め取られた低俗・下劣さとの区別は容易ではない。(差異に対してとりあえず寛容になることは本人の姿勢次第だが)
posted by ta at 01:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。