2009年10月01日

ドゥルーズ『スピノザ』 / バタイユ『ニーチェの誘惑』

G・ドゥルーズ(鈴木雅大訳)(2002)『スピノザ―実践の哲学(1981)』平凡社ライブラリー

現代の文化闘争はまた、本書で描かれるようなスピノジスト(ドゥルージアン?)とスピノザ的意味での道徳にしがみつく(以外に仕様がない)人々の間での、あくまでも神話(訳者の言う自明性のループによってもたらされた神話)の意義(特にスピノジストにとって許容しうる神話)をめぐっての鬩ぎ合いとして表現できる。神話なき社会(伝統主義者にとっては内態の思想によって常に脅かされている社会)はその存立からして疑わしいし、ポスト啓蒙の時代にあってスピノジスト(そのラディカリズムゆえにスピノザ本人とはあえて言うまい)がそのような社会を本気で可能と考えているわけではないだろう。道徳的な悪(その端的な表現としてはモーセの十戒)が決して根絶されえないように、スピノザ的な「わるい」構成関係も(外態的には)根絶しえない。結局、このような鬩ぎ合いのために政治的領域はおのずから特権化される。(だからこそ、二十世紀後半の政治学者は、内態と外態、当事者と観察者の狭間で苦しまざるを得なかった) ついでに言えば、この鬩ぎ合いは哲学と政治、哲学と都市の対立の現代的様相をも説明してくれる。現代人にとっては非常に見えにくくなってしまったこの対立について、その主たる理由と思われるものを二つあげておこう。ひとつは、政治が純粋に都市を代弁するもの(当事者たるポリス)ではなくなり、アリーナとしてメタ的に、価値中立的に認識されるようになったということ。すなわちリベラルな伝統の自明化。もうひとつは、すでに述べたようなスピノジストの側での神話、さまざまな自明化のループに対する許容度の増大である。

ちなみに、一読者として感銘を受けたのは以下の箇所。
スピノザの〈エチカ〉はモラル[人間的道徳・倫理]とは何の関係もない。彼はひとつのエトロジーとして、いいかえれば、そうした内在の平面の上でさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発しまた触発される力がとげる構成の問題として、これをとらえているのである。だからこそ彼は真実叫びをあげて言うのだ。君たちは、良きにせよ悪しきにせよ、自分に何ができるか知ってはいない。君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない、と。(p.241-242)
G・バタイユ(吉田裕訳)(1996)『ニーチェの誘惑―バタイユはニーチェをどう読んだか(1970-81)』書肆山田
空の純粋なイメージ、王、将軍、頭脳、そしてその堅固さの純化されたイメージ、光線に貫かれた空の純粋なイメージは、このイメージを見つめることなく、それに心打たれることのない者たちには調和と安寧をもたらす。けれども、自分の眼前で自分のありのままの姿を裸形にする者には、心的なめまいをもたらす。(p.99)

実際のところ、彼は思考し、語ることで満足することはできない。なぜなら、内的な必然性が、自分の考えたこと、言ったことを生きるように彼は強いるからだ。あの通過者(引用者注・訳者によればおそらくイエスのこと)と同じく受肉した者は、こうして自由を知ることになるが、この自由はあまりにも大きいゆえに、どんな言語もその運動を再現するに十分でない(弁証法とてほかの手段以上ではない)。ただこのように肉化された人間的な思考のみが祝祭となって、その陶酔と放埓は、悲劇の感情と苦悩に劣らず解き放たれるだろう。そのことは「受肉した者」もまた狂人とならねばならないと認めること―どんな言い逃れもなしに―へと人を導くのである。(p.105)
上記のような純粋なイメージをいったい幾人が正視しうるのだろうか。二つ目の引用は、内在・必然・自由・事件(出来事)といった鍵概念においてスピノザとニーチェが(当然ながらに)重なり合うことを示唆している。しかし、後者が(狂気のうちに独り打ち捨てられる、すなわち十字架刑に処される、ことによって)正視しえない人々を突き放すならば、前者はひとりひとりの傍にあって穏やかに勇気付ける役割を担っている。そのような激烈さが生じるのは、スピノザにおいては延長と思惟のたかだか一様態であった個人が、ニーチェにあっては自己原因とならざるをえず、バタイユの言葉を使えば人間にとって到達し得ない不可能事に直面することを強いられるからであろう。

訳者解説でも触れられていた、神秘性を媒介として永劫回帰から共同性へと至るバタイユの思考プロセスについては、いまひとつ納得できなかった。先の永井のような純哲学的な視点からすれば、やはり神秘主義的な解釈に傾きすぎている。超人や永劫回帰といった概念(このように表現することも本来不可能だが)は、哲学的にはそもそも語り得ない。それゆえ本当に共同性などというものは生じえるのだろうか、という疑問が残る。ニーチェとナチスを同じ神秘主義の土壌で弁別するために、未来を過去に、子供の国を父の国に対峙させるだけで事足りるとする場合にも同じことが言える。
posted by ta at 12:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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