2010年02月02日

三木『パスカルにおける人間の研究』

三木清(1980)『パスカルにおける人間の研究(1926)』岩波文庫

パスカルの思想の存在論的解釈。キルケゴールを引き合いに出すまでもなく、存在論(実存主義)には必ずと言ってよいほど死の陰鬱さが漂っている。しかし、その死はただ陰鬱なだけの悼むべき死や悲しむべき死ではなく、戦慄すべき死であり、パスカル=三木の言葉を借りれば、生(存在)の必然性を揺り動かす=可能化する死(p.62)である。たとえば、三木はこの違いを以下のように表現する。(ただし、巻末に近づくにつれ、心理学的分析が頭を擡げてくる嫌いが無きにしも非ず―pp.205 ff)
ところでこの分析(註・慰戯の「現実の理由」の繊細の心による分析)は普通に「心理分析」と称されているものと同一であるが如く見えるかも知れない、けれど我々のいう分析は単なる心理分析ではない。人間の状態の悲惨や欠陥は単に心理的なるものではない。慰戯の現実の最も主な理由と考えられる死は単なる心理的事実ではないのである。それらは心理的でも物質的でもなく、むしろ通俗に身体と精神から成るといわれているこの具体的な人間の生における具体的な事実である。この場合分析は心理の分析でなくしてかえって生そのものの分析である。(p.167)
その意味では、われわれの身近な人の死も、多くの場合、儀式化された虚飾に満ちた死であり、戦慄すべき性質が見事に覆い隠された慰戯としての死と言うことができる。(無論、これは人々が対象喪失の心理的状況を埋め合わせるため風習として培われてきた虚飾であり慰戯ではある) ただ、死が、翻って生が戦慄すべきものとなるためには、パスカルが言うような繊細の心、「良き眼」を十二分に備えていることが必要である。(順序からいえば、宗教的不安はこの分析の結果訪れるものであろう―p.68、ならば「死への先駆」はどうか?) 残念ながら、現代のわれわれにとっては、直接自らの経験によってこれを看取するというよりも、過去の優れた著作に啓発されて、というのが実態なのだろう。さらに、読み進めていて、例のごとく引っかかったのは、内態と外態の二重性を巡ってのパスカル=三木の立脚点である。存在の解釈学的概念として「三つの秩序」を提示するのはよいが、そこには無論、解釈する者の視点が必要となる。しかし、それぞれの秩序は非連続的であり、理性もしくは哲学(言説)から信仰(行為としての心情)へと至る上昇が跳躍的(p.180)でしかありえない以上、哲学が信仰の特殊なる真理を解釈学的に語りうるのか、ということが問題となってくる。存在論に付随する危うさが感じられるとすれば、まさしくこの部分であろう。三つの秩序の中では、幾何学の心にほとんどを頼るデカルト主義者(実際のデカルトではなく)にとって信仰や宗教という名辞は単に形式的なものでしかありえない。根本的にそれは言説の領域を逃れた得体の知れないもの、未知なるものであるはずである。これに対し、存在論者である哲学者(p.41)は、躊躇無くその「特殊なる真理性」(p.148)、すなわち悲惨と偉大との「両重性」(p.175)だけであればまだしも(精神の秩序に属する幾何学と繊細の心をもってすれば明らかになるため)、神における矛盾の綜合(p.181-182)までをも語る。「生の全き理解は[行為としての信仰・]宗教のみのよくするところである」(p.146)、または「生の解釈はひっきょう生の自己解釈である」(p.182)としながらも、内態としての信仰は既に存在論という言説の外皮(外態)に覆われているのである(もしくは外態的な視点が内態に先んじて取得されている)。以下のような三木の言葉を目の当たりにすれば、この疑惑は一層大きなものとなろう。(cf. p.217)
ひとりの人のもつ生の見方は彼の属する生の秩序を必然的に表現する。生の三つの秩序は生の三つの見方を具体的に決定する。生の哲学は生の一つの見方に過ぎない。けだし哲学は三つの秩序のうち精神の秩序における生のものであって、この秩序に固有なる理解のしかたによって限定された生の見方に外ならない。(強調は原文どおり、p.136)
この関係の曖昧さは、提示される秩序を実在的なものではなく、解釈学的なものであると宣言したところで、根本的に拭い去れるものであるとは思われない。ただ、訳者解説にもあるようにこの著作がパスカル研究としても存在論研究としても日本における偉大な先駆的業績であること全く疑いない。戦前にあってのこれら三木の知見には驚嘆するばかりである。

あと、パスカル=三木における繊細の心は、幾何学の心とともに第一の秩序において存在性の真理を看取する方法(全体の直観、pp.164-165, 189)として作用したが、(現象学を通じてパスカルに明らかに影響を受けている)シュトラウスの場合は、同じく第一の秩序において哲学者の自己知の方途として作用するものであったことを、蛇足であるが、記しておく。以下、その他抜書き。
答えはいつまでも問いに充ちた答えである。答えはみずから消え失せてゆくことによってつねに存在に対する新しき道を開きつつ、みずからはどこまでも問いにとどまる。問いは問いに砕かれ、疑わしさは無限に自己を展開する。そこに問いは本来の動性を発揮することができる。(p.48)

個性は自己の裡に無限の関係を蔵しておる。この無限の関係を解くためには魂の如何なる働きも無用ではない。むしろ我々はひとりの個性として、その存在の全体において初めて、他の人間を、その全体的個性的全体において理解し得る。この場合我々が「心臓の秩序」(ordre du cœur)を必要とすると同時に、「論理的秩序」(ordre logique)を書くことが出来ないのは無論である。愛の情念は我々の全き存在に関係する。…人間の魂の全幅を充満する(remplir)ということは愛の情念の注目すべき性質である。(強調は原文どおり、pp.96-97)

我々は我々のあらゆる功績をもってしても慈悲の団塊に独立に到達し能わないのである。したがって慈悲の段階にある生をとくに人間的と見なすことは最も恐るべき傲慢でなければならぬ。とくに人間的なる生はむしろ身体の秩序と慈悲の秩序との間にある。ここに我々はまた人間の存在が特殊なる意味において中間的であるのを見出す。…「人間は天使でもなければ獣でもない」…。(強調は原文どおり、p.140)

…数学的存在については理性は絶対的なる認識を得ることが出来るのであるから、この場合いわば独断論者であることが正しき態度である。しかし例えば人間の存在については理性はどこまでも問い、どこまでも疑うべきであるから、このときにはいわば懐疑論者であることが正しき態度である。そして神に関する事柄については理性は何事も理解し得ぬが故に、このときには理性は自ら謙って信仰に道を譲るべきである。かようにして自覚的なる生を生きる者は、パスカルによれば、懐疑論者、幾何学者、謙虚なる基督者…の三つの性質をもたねばならぬ。(pp.185-186)

…キリストの知識は…我々に完き徳…を示す。彼の悲惨さを知ることなくして神を知ることは人間にとって危険である、なぜならそれは傲慢を惹き起こすから。そして贖主を知ることなくして彼の悲惨を知ることもまた同じように危険である、なぜならそれは絶望の原因となるから。…ひとは神と彼の悲惨とを全体として一緒に知ることなくしてはキリストを知り得ないのである。(強調は原文どおり、pp.210-211)
posted by ta at 00:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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