2010年02月08日

永井『西田幾多郎―〈絶対無〉とは何か』

永井均(2006)『西田幾多郎―〈絶対無〉とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)』NHK出版
知覚や知識において客観的(主客合一的)であることと、意志や行為において客観的(主客合一的)であることは、西田に反して、実は根本的に異なるのではあるまいか。後者においては、何が客観的であるかの判定は常に後からしか与えられない。釈迦やキリストの精神が客観的であるとされるのは「千歳の後」の観点からである。しかし、そのような観点を先取りすることは誰にもできない。凡人のふだんの行為でも、後の観点を先取りすることはできないという点は同じであろう。(p.22)

西田にとって、言葉は取り去るべき「人工的仮定」に過ぎない。(p.38)

人々が「赤の経験」という言語表現を通して、「ああ、あれね」と理解したときには、もう裏切られてしまうはずのことを、ここで西田は言おうとしているからだ。(pp.39-40)

述語となって主語とならないということは、言い換えれば、対象化されないということである。意識は対象化する場所であって、それ自体はどこまでも決して対象化されない。(p.69)
筆者の十八番。内態(筆者の議論を前にしてあまりに大雑把なタームで申し訳ないが)と外態の間の緊張関係は後者、すなわち言説(言葉)が、前者、すなわち行為に対して常に自己弁明的(自己言及的)に働く(より広い意味では、対象化する)という点に起因する。よって反哲学は、それ以前には有力な代弁者を常に宛がわれてきた言説(ロゴス)に対する、行為からの異議申し立て(反ロゴス)ということが出来る。
西田において、神は実在を超越した彼方にあるのではなく、主客を合一した実在の根底にある力が、すなわち神なのである。だから、われわれは、みな自分自身の根底に神を見ることができる。(p.23)

私が存在すると同時に存在しない(無である)のでもなければならないということは、だから私の理解では、何か悟りのごとき特別の境地を意味しているのではなく、単純にして卑近な(しかしあまり卑近すぎてめったに注目されない)事実を指している。(p.57, cf. p.79 ff.)
身体―精神―神、それぞれの次元を異にする三木の考えにおいては、西田の神(スピノザの神も?)は存在と次元を同じくする(後述の別の無の場所に於いてある一個の存在者たる「汝」を除けば、p.91-92)。したがって、西田の「翻されたる眼」とパスカルの「良き眼」の間の実質的な相違は霧散する、と言ってもよい。ただ、三木のように、先取りされた秩序の内側に信仰を位置づけてしまうと、存在論にこれら秩序を超えたメタ哲学としての地位を与えてしまいかねない(だから三木自身の発想が直ちに危うい、というわけではないが)。両者を対象化して語ることの矛盾を犯してしまうが、信仰と理性は常に極限の緊張状態に置かれるべきである。それはもちろん宗教家と哲学者が互いに殺し合え、という意味ではない。互いに慎重であれということである。
デカルト自身は過失犯であるから、体験と言語がなんの問題もなく相即することを疑おうとしなかった(ウィトゲンシュタインと西田はそんな素朴な信仰だけは持っていなかった)。(p.46)
この両者の発想の間にあるとてつもない緊張感と果敢なさ。読者はその緊張感から思わずグッと前のめりになるものの、その果敢なさによって結局は躓いてしまうことだろう。ただ、このように考えると、内態と外態の対立によって政治的空間が特権化されるというのはやはり大きな誤りだったと(自己反省として)認めなければならない。そこで内態と呼ばれたものは、実は巧妙に、自己弁明的に言説化され対象化された偽りの内態(つまりは、単なるイデオロギー)であって、それが当初あまりに美しく輝いて見えてしまうために、我を忘れて見とれてしまうだけなのではないか。特定の思想が人口に膾炙し始めると、途端に陳腐なものと受け止められるのも、このことと無縁ではあるまい。偽りの内態であっても思想家の基礎経験を伴って現れる場合は、まだ輝きを失ってはいないと言うべきであろう(逆に言えば、普遍的思想―と呼ばれるもの―は常に陳腐なものと成り下がる深刻な危険性を孕んでいるということである)。問題はその輝きの源泉を見抜く洞察力と、基礎経験からの、そして政治への距離感である。とどのつまり、政治とは神話の応酬に他ならず、神話を打ち破ろうとした内態もひとつの神話でしかなかった、ということになるのだろう(だからこそ、政治であるところのものは「政治」と指示されうるのである)。
…西田哲学を離れて一般的にいえば、他者(私と同じ種類の他の者)の成立と言語の成立は同時にしか指定できないということである。つまり、複数の人間が対等に存在している状況からは言語の発生を論じるのは、哲学的には論点先取りなのである。(p.95)
非常に刺激的。

濃密すぎる議論に読み終えてしばらくは頭がぼーっとしてしまう。
posted by ta at 00:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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