2008年01月25日

バーリン「マキアヴェッリの独創性」

I・バーリン(佐々木毅訳)(1971)「マキアヴェッリの独創性」福田歓一・河合秀和編(1983)『思想と思想家(バーリン選集1)』岩波書店, pp.1-97

まず、前回「君主論」の感想として書いた事柄の訂正から。。。第三の点に関して、「リウィウス論(政略論、論考、ディスコルシ)」との比較から、「君主論」がホッブズ的な計算的理性の書と書いたが、その比較は無論、正確ではない。それらは共和主義的見解と絶対支配者への助言という軸において検討されるべき問題であり、またその解釈は幾多にも上る。そして、人間としての徳と政治の一致をバッサリいったという第二の点であるが、これこそがバーリンの本論文における主題である。バーリンはマキアヴェッリの政治思想の核心に倫理(キリスト教倫理・道徳)と政治の分離があった、という最も有力とされる解釈について疑問を呈する。その解釈とは、主としてイタリア人思想家B・クローチェによって提起されたものであるが、以下のようなものである。
(マキアヴェッリは)キリスト教道徳の妥当性を否定せず、政治的必要に発した犯罪は犯罪ではないなどと言い立てはしなかった。むしろ彼が発見したのは、…この道徳は政治の世界に単純に適用することはできず、それに発する過程を根拠とするいかなる政策も必ず不幸に終わるだろうという点であった。(p.40)
すなわち、道徳は政治的必要と衝突するもの、両立不可能なものであるとする解釈である。バーリンも用いているように、ここではカント的な定言的命法に対する、仮言的命法として捉えても良いだろう。この場合、問われるのは手段の合理性であり、その目的の道徳的正しさではない、ということになる。バーリンは、この「政治」と「道徳」という行為の「自立的な」領域を対置させるという解釈に異議を唱えた。彼によれば、マキアヴェッリはキリスト教的道徳を拒絶したが、それは倫理的でない単なる技術のゲームたる政治的と呼ばれる活動を支持したからではなかった。それは、「政治」にもう一つの倫理、いわゆるポリスの倫理と呼ばれるものを見出し、選択したからなのである。かつてアリストテレスが人間を「政治的動物(ゾーオン・ポリティコン)」と呼んだが、マキアヴェッリはまさにその伝統につらなり、政治的活動こそが「人間らしい生活を送る上での本質的なもの」(p.41)と考えたのである。これは、コンスタンが語った有名な区別、「近代人の自由」に対する「古代人の自由」に相当する、ローマ的・古典古代的道徳である。そして、「マキアヴェッリが、自分は魂よりも祖国を愛すると述べた時、彼は自らの道徳的信念の基礎を明らかにしてい」(p.43)た。マキアヴェッリは、このような意味においてのみ、「有徳な支配者は有徳な人間を作り出すというプラトン的‐ヘブライ的‐キリスト教的見解」(p.51)を拒否していたのである。彼の想いは、外的な勢力に対して従属的な状態に置かれていたイタリアを解放し、その健康と健全な状態を回復することにあった。それは、祖国(フィレンツェ、そしてイタリア)の幸福を目指すことであり、「彼にとっては人間によって到達可能な最高の社会生活の形態」(p.47)だったのである。

今ではよく知られるが如く、マキアヴェッリが近代における共和主義的伝統の祖として位置付けられる理由がここにある。そして、バーリンによれば、彼のこの主張によって成し遂げられたことはこれだけにとどまらなかった。マキアヴェッリがキリスト教的道徳とは異なる道徳観を並置させ、そのいずれに自らを依拠させるかについて個人の選択を許容した結果、プラトン的‐ヘブライ的‐キリスト教的伝統に見られるような、究極的かつ唯一の真理を内包し、その他一切を排斥するような価値体系の存在、つまりは一元主義的な思想体系の存在が(彼が直接意識しなかったにせよ)否定されることになったのである。バーリンは、この結果、近代自由主義の諸基礎が生み出され(つまりは消極的自由)、「経験主義、多元主義、寛容、妥協への道が開かれ」(p.83)たと主張する。マキアヴェッリは、彼自身の確固たる共和主義的傾倒にも関わらず、「多元主義の創始者の一人」(p.83)に図らずもなってしまったのである。

以上が本論文の概要だが、バーリンの積極的自由批判を鑑みれば、この解釈になんら不思議なところはない。一見すれば、共和主義的倫理観の復興者マキアヴェッリとして、彼の批判の対象にもなりえたのだから、なかなか興味深い。しかし、このことはかえって、現代の共和主義者にもジレンマを与えかねないのではなかろうか。それというのも、共和主義の究極的理想は指導者とその市民とが古典古代の道徳観を受け入れ、自らの公共に対する義務を自覚し、政治参加することにある。けれども、それが、一部の人間が主張するにとどまるのであれば、多元主義社会における単なる一つの思想的潮流と変わりはない。他の一元主義的教説と同様、理想の共和国を目指すことは、少なくとも相当程度の参与者がなければならないが、マキアヴェッリが意図せずしてその基礎を提供することになった近代的な自由主義のもとでは、その可能性は極めて乏しい。つまりは、以上のようなバーリンの解釈によって、現代の共和主義者はかえって足元を掘り崩されてしまうのである。

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はぁ〜、一つ読み終わるのに時間がかかりすぎて凹む。。。
posted by ta at 17:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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