2008年03月14日

ロック『人間知性論』@

ロック(大槻春彦訳)(1980)『人間知性論(1689)』(中公バックス 世界の名著 32)@

ほぼ3週間ぶりのまともなエントリ。

まず、第2巻の「観念について」で、ロックの認識論の骨格が示されているので、用語の整理を行っておくと便利だろう。

01.観念(idea): 特に説明は不要であると思う。我々が常日頃、この訳語で知られる意味とそう大差はない。ただし、ロックにおいては人間の知性が観念を得る場合(正確には単純・・観念)、2つのルートがあるとされる。一つが感覚であり、もう一つが内省である。また、人間が生まれながらにしてなんらかの観念をその心に印銘されているとするスコラ的議論をロックは否定する。そこで唱えられるのが、著名な「ぬぐわれた書板(タブラ・ラサ)」であり、近代認識論の文字通りの出発点となる。
02.感覚(sensation): 感覚とは、我々の感官によって得られる別個の (可感的)事物に対する外的な・・・覚知のことである。
03.内省(reflection): 内省とは、我々の心の様々な作用に関する内的な・・・覚知である。また、感覚、内省、いずれにおいてもそれらによって初めて知性は観念を持ちうるゆえに、これらの前では知性はただただ受動的・・・にならざるを得ない。

04.単純観念(simple idea): この感覚と内省によってのみ得ることができる観念が単純観念であり、それは、ロックの言葉を使えば、「心での一つの均質な現象態ないし想念」(p.84)である。特に内省によってのみ伝えられる単純観念には知覚(⇒07, 15)と意志(⇒16, 23, 24)という心の機能(力能)がある。また、両方によって得られるその他の観念として、ロックは快苦(⇒22)、存在と単一、力能(⇒15, 23)、継起を挙げる。
05.一次性質(primary quality): 物体のうちに存し、それからまったく分離されえず、ふだんに保有するような性質。本原的性質とも。このような性質が我々のうちに、固性、延長、形状、運動あるいは静止、および数のような単純観念を生む。
06.二次性質(secondary quality): 一次性質のように直接的、あるがままではないが、確かに物体に備わり、特定の方法によって我々の感官に間接的に作用する性質。可感的性質とも。例えば、熱さと寒さなど。物体の性質にはもう一つ、第三の物体に働きかけて、我々の感官に作用させうる媒介的性質があり、それは力能と呼ばれる。

07.知覚(perception): 知覚は、人間の知識への入り口となる心の機能であり、内省によって得ることができる観念である。思考(一般)とも呼ばれる。
08.把持(retention): 把持とは、感覚もしくは内省によって得られた単純観念を保存しておくという心の機能である。これには2とおりあって、一つが「心にもたらされた観念をしばらく現実に眺め続ける」(p.96)観想(contemplation)であり、もう一つが「心に印銘されたのち消えてしまった…観念を心にまた再生する」(同)記憶(memory)である。
09.識別(discerning)・比較(comparing)・構成(composition)・拡大(enlarging): 上記以外の心的作用とされるもの

10.複雑観念(complex ideas): 簡単に言えば、単純観念を材料として、心の能動的な機能によって生み出される単純観念以外の観念である。それには、様相実体関係の3つの種類が存在する。
11.様相(modes): 様相とは、複合された観念としての実体に依存する性状と考えられる観念であり、単純様相(⇒14)と混合様相(⇒18)がある。
12.実体(substances): 様相が存する実体とは、「自分自身で存立する別個な個々の事物を表象するするとされるような単純観念の集成であり」(p.99)、それを超えて想定された・・・・・、もしくは混乱した・・・・観念のこと。より具体的には、その集成を別個の単純観念のように認識する際に想定された基体。
13.関係(relations): 関係とは、観念相互の比較から得る複雑観念のこと。例えば、原因結果の関係がその第一の例としてあげられるが、これが複雑観念であるとされるところから、我々の日常における因果関係とは蓋然性を超えるものではない・・・・・・・・・・・・・との認識がロックにある。ここに、人間の可謬性に対する彼の理解が端的に現われているともいえよう。その他の関係としては、同一性・差異性、比率関係、自然関係、制定関係、道徳関係(⇒24)が挙げられている。

[様相について]
14.単純様相(simple mode): 単純様相としては、空間と時間に関する諸観念(距離、延長、果てしなさ、形状、場所、持続、永遠)や、数と無限、運動、音・色などが挙げられている。また、ここで、デカルト的な延長概念が批判されており、それを物体と同一視する考えを否定し、あくまでも延長とは「固性ある凝集部分の末端相互間に横たわって、これらの部分で得られる空間だけを意味する」(p.101)とされる。なお、単純観念である、思考(知覚)、快苦についても、単純様相が存在する。思考の単純様相には、憶起(remembrance)・想起(recollection)・観想(contemplation)があり、快苦の単純様相には、情緒と呼ばれる諸々のもの、つまり愛や憎しみ、欲望、喜び、悲しみ、希望、恐れ、絶望などがある。
15.力能(power): 本文ではこのタイミングで力能について一節が割かれている。力能には2つあり、ある事物に変化させられる・・・・・可能性と変化させる・・・可能性に対応して、それぞれ受動的力能、能動的力能と呼ばれる。前者は主として感官を通して(感覚)によって知られ、後者は内省によって得られる。また、能動的力能こそが力能という言葉の本来的意味であるとされる。そこで、このような力能のうち、我々の心に備わるものに、意志知性があり、またこのような力能が関係する働きとして我々に存する観念が、思考運動である。
16.意志(will): 意志とは、端的に言えば、心における選択と命令の力能であり、例えば身体のある動きを行ったり、抑止したりする場合にこれが働く。そこで行為の前にこのような意思が存在する場合を有意的(voluntary)と呼び、ない場合を無意的(involuntary)と呼ぶ。なお、自由意志に関する議論がこの後半でなされることになるが、それについては後述する(⇒23)。
17.知性(understanding): 知性とは、知覚(⇒07)する力能とされる。
18.混合様相(mixed modes): 混合様相は、異なる種類の単純観念が文字通り混合して、一つの複雑観念をなすように複合したものである。この場合、心は能動的力能を行使し、「多種多様な複雑観念を、これが自然にもそのとおりいっしょに存在するかどうかを検討せずに」(p.119)作り出す。

[実体について]
19.偶有性(accidents): 基体たる実体に備わった、我々の心に諸々の単純観念を生み出す諸性質のこと。

ここで、実体の内部構造は不知の本質とされ、実体とはあくまで単純観念のさまざまな集成であるとされる。ここから、ロックが普遍的実在を認めない唯名論者に限りなく・・・・近づくことが明らかになるであろう。たとえば、ロックにとっては精神および物体の実体は不可知とされ、そのように想定された実体に備わる一群の諸性質が我々に一つの実在として思わせているにすぎない。そのような諸性質とは、物体においては、「固性を有し、それゆえ分離できる部分の凝集と、衝撃によって運動を伝達する力能」(pp.120-121)であり、精神においては、「思考と意志、すなわち思惟によって身体を動かす力能およびその帰結の自由」(p.121)であるとされる。

20.観念の明晰性・判明性・実在性・真理性・十全性: それぞれについて、単純観念、様相、実体、関係に分けて考察される。この中の実体に対しては、いずれの項目においても唯名論の立場から否定的な評価がなされる。
21.観念連合(association of ideas): ロックにおいて観念連合は反理知的な「気の狂い」(p.133)として厳しい評価が下されている。「観念のこうしたつよい連結は自然に結ばれず、心がひとりで有意的もしくは偶然に作」(同)り出すものであるが、これこそがまさに「哲学や宗教の諸派の融和しない対立を確立する」(p.134)ものなのである。

また、この第2巻において政治思想上重要と思われる事柄について次に確認しておこう。

22.快苦の様相と意志の関係: ロックにおいては、我々のうちに快を産むものが善とされ、苦を産むものが悪とされる。ここに功利主義の原型を見出しうることは明らかであろう。そして、人は苦すなわち悪より、快すなわち善を求める存在である。しかし、人の「行動に関して意志を決定するもの・・・・・・・・・」(p.114)は善そのものではなく、「人間が現在置かれているある落ちつかなさ…なのである」(同)。この落ちつかなさは欲望と呼ばれる。これは、プラトン的エロースをより人間的な(功利的な)次元で捉えたものだと言える。
23.力能と自由意志: ロックの自由意志論をその記述に従って表にまとめてみると以下のようになるだろうか。
ロックの自由意志論
ここで、人間が・・・自由(liberty)であるとされるのは、@の場合、つまり人が意志した行動がそれに続いて起こりえた場合であり、自由でないのはその反対、すなわちAの場合である。これをロックは必然性(necessity)と呼ぶが、この表からも明らかなように必然性と意思は両立する。だが、ここで言われているのは人間の自由であり、意志の・・・自由ではない。そのため、ロックは意志が自由かどうかを問うた古代の自由意志論はそもそも誤った問いの立て方であったというのだ。彼は言う、
意志すること、いいかえれば有意とは一つの行動であり、自由は、行動したりしなかったりする力能に存するから、ある人の力能のうちにある行動が、即座に行われるものとしてその人の思惟にひとたび提案されれば、意志すること、いいかえれば有意の働きに関して、その人は自由であるはずがない。してみると、現に行われている行動が提案されるときは、すべて意志しないわけにはいかないから、意志する意志しないの自由は人間にない、この点は明白である(p.113)
自由とは自らの行動の存在・非存在を左右する力能の有無に関わるものであるから、その意味では意志(という一つの行動)はその存在・非存在を左右されることはない。より正確に言えば、人は意志に対して触れ得ない・・・・・というべきであろうか。すなわち、人がある行動を意志するとき、他人がその人の自由を奪おうと思えばその意志ではなく行動を妨げることしかできない。これは、意志する当の本人にとっても同じである。だからこそ、意志に自由はない、ということになる(いまいちこの理解に自信がない…)。ただ、もしそうだとすれば、ロックは意志が自由であるかどうかということと、意志がそもそも何に由来しているかということを別の次元で論じていることにならないだろうか。自由な意志がないと我々が言うとき、それは意志が自らに由来しないとき(自らの内の何に由来するのかはここでは置くとして)である。それについては、既述のように、ロックは欲望を意志の決定要因としてあげている。しかし、ロックの考えからすれば、自由の有無はその存在・非存在に置かれていて、意志が何に由来していようとも無関係である。ただ、これをホッブズのように意志を生理的現象に還元しようとする決定論的立場と解釈すれば、そもそも従来の自由意志論争における立場と変わらなくなってしまう気がするのだが…。

24.道徳関係と三種の法: 道徳関係とは、「行動について判定する規則との合致もしくは不一致」(p.126)の観念とされる。そこで、ロックはその規則にあたる3種の法を提示する。神法、市民法、世論ないし世評の法がそれである。ここで3番目の世論の法とは、それによって人が自他の徳性を判断するものであるが、スミス的な同感や公平な観察者の概念に通じるものなのであろう。注意しておくべきは、ロック自身はこれらの法に必ずしもスコラ的な序列を明確にしておらず、それぞれがそれぞれの方法によって人に対して道徳的尺度を与えていることである。更に、ロックには快苦という功利的な善悪の判断基準が設けられていることも忘れてはならないであろう。ホッブズにあってもそうだが、神法・自然法のような超越論的視点と人の快苦や自由という人間学的視点を整合的に理解しようとする試みはどうしても困難に陥らざるを得ない。

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ロック流の自由意志論解釈の理解にかなり手間取った。。。第2巻のあと、言葉についての論考(第3巻)と、真知・臆見についての論考(第4巻)が続いているが、これらについてはまた今度。。。といっても、はっきり言って全然やる気は起きない。。。
posted by ta at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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