2008年03月28日

ロック『人間知性論』B

ロック『人間知性論』B

ラスト第4巻。。。 ここでは真知と臆見について論じられる。

真知(knowledge)とは「私たちの観念にあるものの結合・一致の知覚、あるいは不一致・背馳の知覚」(p.153)とされる。このような知覚には4種類あって、それらは@同一あるいは差異、A関係、B共存ないし必然的結合、C実在である。それぞれが知覚の方法によって現実的真知と慣習的真知に、ならびにその程度によって直感的真知、論証的真知、感覚的真知に分類される。続けて、真知の範囲ならびに無知の原因、そして真知の真実性に言及されるが、最後のものは基本的に第1巻で観念について述べられたところの繰り返しである。

次に、話は真理命題に移る。真理(truth)は真知と異なる。真知とは知覚であり、真理とはその知覚に基づいて形成される命題の内容を指す。命題には、心的命題と言辞的命題が存在する。また、真理は真知と同様に、その程度と対象によって真実な真理、精神的真理、形而上学的真理に分けられる。ここでも、煩瑣になるので個々の説明は省く。命題については、第7章で普遍的命題、第8章で公準(maxims)、第9章で無価値な命題が扱われるが、最初のものだけが真理性と絶対確実性を持つとされ、その有用性が認められる。無価値な命題については勿論のこと、それまで自明とされてきた公準・公理と呼ばれるものに関しても、それに付随するスコラ的な生得原理とともに否定的に評価される。第9章から第11章では、存在について述べられ、それぞれ、われわれ自身、神、それ以外の事物の存在が扱われる。神の存在証明については、スコラ的な論法が用いられ、われわれ自身の存在が自らの直感によって絶対確実であるならば、それに付随する属性を引き出す他の確実な存在がなければならない。そして、そのような存在の連鎖を遡っていけば、「ある永遠な、このうえなく力能があり、このうえなく知る存在者」(p.171)に最終的に行き着かざるをえなくなる。それが神である。これに対して、それ以外の事物の存在に関しては、われわれの感官によって覚知される限りにおいて、真知に相当するとされる。これを超えるものに関しては蓋然性に過ぎない。第11章の最後で再び命題の分類(存在に基づくもの)に言及されるのだが、どうもロックは思いついたことをその都度付け加えていっているような感じがしてならない。蓋然性(probability)については、第15章が宛がわれているが、それに前後して、真知と判断(judgment)の区別が取り上げられる。蓋然性とは真知と対比される臆見(opinion)であり、論証に基づいて判断と人々の間の同意(assent)の対象となる。(本巻のタイトルの和訳は「真知と臆見について」となっているが、原文は“Of Knowledge and Probability”である)

様々な命題の中で、真知のように絶対確実性を持たずとも、ただ論証だてによってそれに対する人々の最高度の同意を要請するようなものが存在する。そのような命題が神の啓示(revelation)であり、それに対する同意がまさに信仰(faith)となる。そこで、ここからが本巻の一つの山場になる(と勝手に思っているのであるが)、いわゆる理知(reason)と信仰の区別がなされる。ロックにおける理知に関しては、本文よりも本書の解説にあった言葉を抜き出しておくほうがよいだろうし、それで十分であろう。すなわち、理知とは「抽象や推理などの複雑な過程を含む論理的思考機能であり、…経験を超えた形而上学世界を認識する能力ではない」(p.24) そして、「この理性と感覚機能を含む、心の知的機能が知性understandingであって、知性は、いわゆる理性と対立する悟性(Verstand)のような、理知ないし理性とは別種の心的機能ではない」(同)のである。この理知と信仰の関係は、スコラ哲学においても(当然のように)問題にされてきたが、ロックは、トマスにならい、両者の領域を峻別する。したがって、この区別を曖昧にし、理知に正当な役割を担わせないような「不可能だから私は信ずる(Credo, quia impossibile est)」という態度は狂信(enthusiasm)に至るとして拒絶する。(ちなみに、スコラ哲学の創始者とされるカンタベリーのアンセルムスは「知らんがために、私は信ずる(Credo ut intelligam)」という似たような標語を残してはいるが、意味は全く異なり、信仰を理性(理知)に優位させるものの、その位置と役割をきちんと与えている。トマスは、アンセルムス以上に理性の役割を拡大したが、その影響がロックに明確に見られるように、近代哲学のはしりとなった)

最後に、第21章においてロックは学(sciences)の区分について述べているが、中でも三番目の部門、記号学(セーメイオーティケー)に触れておくことは認識論の系譜から重要であろう。すなわち、中世イギリスにおいてドゥンス・スコートゥスからウィリアム・オッカムへと展開する唯名論的個別主義から導き出された、普遍とは実在するものでなく記号(signum)に過ぎないとする記号主義の影響が強く見られるのである。

コメントとして、この論文はお世辞にも上手にまとめられているとは言えない。このことは、ヒュームの『人性論』と比較する際に一層鮮明となろう。正直、まとめるのがめんどくさかったw なので、中公バックスに収められていたのは抜粋訳ではあるが、今後全訳(文庫版では巻数に応じて4分冊)にあたろうとは全く思わないw

訳者の大槻春彦についてはググっただけではめぼしい情報が出てこなかった。ただ「日本デューイ学会」の創設に深くかかわった方だということはわかった。まーまたどこかで…。
posted by ta at 08:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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