2010年03月14日

Blanchard, et al. “Rethinking Macroeconomic Policy.”

Blanchard, Olivier, et al. “Rethinking Macroeconomic Policy.” IMF Staff Position Note. 12 Feb. 2010. 13 Mar. 2010 < http://www.imf.org/external/pubs/ft/spn/2010/spn1003.pdf >.

リフレ関連のサイトで話題の論文。聞き慣れない経済・金融用語に多少苦労したが、インタゲについてはゼロ金利制約(zero interest rate bound)を避けるために危機以前よりも高い水準(具体的に登場する数字は4%)にしておくのが良いそうだ。平時から高めのインフレ目標を掲げておけば、デフレの際、流動性の罠に陥ることなくインフレ期待を生むことができる(という理解でいいのだと思うけれど)。興味深かったのは、従来の金融政策に加えて過剰なレバレッジやリスクの規制をも中央銀行が担うべきという提言で、それに対しては中銀がインフレ容認に流れやすいからという反論が紹介されていた(p.12)。ここでも「日本(日銀)の常識、世界の非常識」を実感。昨今の議論では、非自発的失業者を余剰者と呼ぶような諦めムードが漂い始めている。どれほど識者がネットを通じて啓蒙活動を行おうが、下々の民草にマクロ経済のなんたるかを理解できようはずもない。だからこそ、政治家にはしっかりと「デフレ脱却」への舵取りを期待したいのだが…。
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2010年02月15日

クセノフォーン『ソークラテースの思い出』

クセノフォーン(佐々木理訳)(1953, 1974)『ソークラテースの思い出』岩波文庫

巻・章別の整理。

第1巻
1: 罪状としての涜神・ダイモニオン
2: 罪状としての青年の腐敗(クリティアスとアルキビアデス)
3: 食欲と肉欲―クセノポンとの対話
4: 全能の神々と敬神―アリストデモスとの対話
5: 美徳の根底としての克己
6: 幸福・美貌と智・金儲け―アンティポンとの対話
7: 欺瞞に対する戒め
第2巻
1: 艱難に対する忍耐(プロディコスの『ヘラクレス論』)
2: 孝心について―ランプロクレスとの対話
3: 兄弟への裨益―カイレクラテスとの対話
4: 友人を持つことの利益
5: 友人の値打ち―アンティステネスとの対話
6: 友人の選別・君子人の交わり―クリトブロスとの対話
7: 自由人の勤勉―アリスタルコスとの対話
8: 仕事について―エウテロスとの対話
9: 友人(アルケデモス)について―クリトンとの対話
10: 友人(ヘルモゲネス)について―ディオドロスとの対話
第3巻
1: 戦術、兵士の選抜と配列について―将軍になろうと欲する者との対話
2: 名将の美質(アガメムノン)
3: 軍の統率について(弁舌・名誉心)―騎馬統監に選ばれた者との対話
4: 家政と国政(軍事)のアナロジー―ニコマキデスとの対話
5: 統帥と戦略―ペリクレス(大ペリクレスの三男)との対話
6: 政治指導者に要求される知識―グラウコンとの対話
7: 有為の政治家の責任―カルミデスとの対話
8: 個物の善美(実用性)について(絶対の善の不在、p.148)―アリスティポスとの対話
9: 知行合一(徳即智)、無知の知、知の権力性(僭主と知者)
10: 魂、釣り合い、イデア―三人の芸術家との対話
11: 友人論、教育論(「焦らし」の効用)―テオドテーとの対話
12: 強健な身体について―エピゲネスとの対話
13、14: 克己と節制について
第4巻
1: 修身の重要性
2: 詭弁とディアレクティケー―エウテュデモスとの対話
3: 思慮と敬神、国法―エウテュデモスとの対話
4: 遵法としての正義―ヒッピアスとの対話
5: 克己・自制、「こと別け(dialégesthai)」―エウテュデモスとの対話
6: ディアレクティケー、討論についての教育
「彼が自分で何かの問題を論じて行くときには、誰でも承認のできる事実の中をとおって論旨を進めたのであって、これが議論としてもっとも安全な方法と信じていた。」(p.226)
7: 実用主義的教育
8: ソクラテスの最期
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2010年02月13日

外山『思考の整理学』

外山滋比古(1986)『思考の整理学』ちくま文庫

「不幸な逆説」: 確かにそうなのだけれども、こういった飛行機型とグライダー型の対比が、一種の言い訳として安易に用いられ、生徒(学生?)の仮想的有能感を助長する結果になりかねないことにも注意が必要であろう(その見極めを、現代の教師に課すというのは少々酷かもしれないが)。筆者が間違っているというのではなく、その受け止め方について勘違いしてはならないということである。

「第一次現実」: テレビが第二次的であるならば、ネットは第一・五次的と言えるだろうか。それはより第一次的現実の生々しさを備えるがゆえに、後者に取って代わる可能性をも孕んでいる。しかし、だからこそ余計に、人の仮想的有能感を触発する恐れがある。「サラリーマンの思考は、第一次的現実に根をおろしていることが多い。それに比べて、学生の考えることは、本に根がある」(p.195)と筆者が実践と理論の伝統的二分法で世の中を分析するとき、ネットの住人はその両者のいずれにも属さない。その代わりに、第一次的現実に対しては社会の常識を批判する神の視点が、第二次的現実に対しては仮想的現実から得られる優越感が、住人に付与される。つまり、社会の常識やモラルにがんじがらめになったサラリーマンよりは世界を知っているし、だからこそ学生のように本のみに頼っているわけではない、と言い訳ができるのである。その当の本人こそが、両者の間で宙ぶらりんになってしまっていることに気付かずに。「真に創造的な思考が第一次的現実に根ざしたところから生まれうることを現代の人間はとくと肝に銘じる必要があるだろう」(p.196)。この言葉の重みは減じるどころか、ますます増しているように思える。
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2010年02月11日

鈴木『日本語と外国語』

鈴木孝夫(1990)『日本語と外国語』岩波新書

外国語学習ではそれぞれの文化的背景を同時に学ばなければ、実践において時に致命的なミスを犯すことになる。こういったことは、「国際化」や「国際交流」などの風潮と相俟って、多くに人々にとっては既に常識だろう。(もちろん、今は猫も杓子も「グローバル」である。けれども、「地球〜」とか「グローバル〜」の語を冠した公的施設は、企業名を別として、なかなか見当たらない。確かに語呂は良くない気がするが。そういえば、「世界〜」というのも割合少ないように思える。) ただ、後半で展開される「漢字の知られざる働き」には学ぶところが多かった。「表音文字としての日本語」の限界(貧弱な音節構造と抽象的な意味構造)とそれを補う漢字の機能(音訓の二重読み)から、日本人の識字率の高さを説明できるというのはなかなか刺激的で、このような背景があるからこそ日本の英語教育は記述偏重になってしまうのではないか、と考えさせられる。とにかく、日本人は英語の発音が苦手だ。その点、多少おかしなイントネーションでも、(音素の種類と音節構造の単純さから)外国人が話す日本語は理解できてしまうので、なんとなく損をした気分になる(これは日本人の謙虚さと寛容さがなせる業なのかもしれないが)。
ことばというものは、出来上がり固形化した作品、ギリシャ語でのエルゴンとしての面をもちながら、同時に深いところでは絶えず認識対象に働きかけ、動的に新しくそれを掴みなおそうとする挑戦を止めない、一種の精神的な活動力(エネルゲイア)でもあるという側面を併せもつために、ある時は広く、ある時は狭くも使われるといったような、いわば伸縮自在の、末広がりで底なしに開いた構造をしていると考えられる。(p.62-63)
ことばをめぐる世代間闘争(?)が止むことがないのも、この性質のためであろう(このように言ってしまうと、その時代の単なる誤用にすぎないものが、なにかしら高尚な働きによるものと錯覚してしまうかも)。
…音声とは聴覚が利用する記号素材であって、当然のことながら、それは人間の耳の持つ弁別(識別)能力に左右される。ところが、耳は目に比べてはなはだしく性能の劣る感覚器官なので、あまり細かな情報の差異を区別することは難しい。(p.196)
本当に目(視覚)は功罪両方を併せ持つ。もちろん、包丁のようにそれ自体に悪気はないのだが、「百聞は一見に如かず」などという際にも、「だからこそ判断は慎重に」と一言付け加えたくなる。目というものがなければ、世界の差別の多くが姿を消すのではないか、そんなことも考えてしまう(もちろん、目だけではなく身体ひいては周りの環境の総体性を考慮に入れなければならないので、このような仮定はそもそも無意味である)。

蛇足だが、岩波にしては、本書の結論は保守派の喜びそうなものである。しかし、筆者の主張がイデオロギーや心情を排した、言語の機能的(機械的)側面に着目したものであることには注意が必要だろう。(p.35, 135)
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2010年02月08日

永井『西田幾多郎―〈絶対無〉とは何か』

永井均(2006)『西田幾多郎―〈絶対無〉とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)』NHK出版
知覚や知識において客観的(主客合一的)であることと、意志や行為において客観的(主客合一的)であることは、西田に反して、実は根本的に異なるのではあるまいか。後者においては、何が客観的であるかの判定は常に後からしか与えられない。釈迦やキリストの精神が客観的であるとされるのは「千歳の後」の観点からである。しかし、そのような観点を先取りすることは誰にもできない。凡人のふだんの行為でも、後の観点を先取りすることはできないという点は同じであろう。(p.22)

西田にとって、言葉は取り去るべき「人工的仮定」に過ぎない。(p.38)

人々が「赤の経験」という言語表現を通して、「ああ、あれね」と理解したときには、もう裏切られてしまうはずのことを、ここで西田は言おうとしているからだ。(pp.39-40)

述語となって主語とならないということは、言い換えれば、対象化されないということである。意識は対象化する場所であって、それ自体はどこまでも決して対象化されない。(p.69)
筆者の十八番。内態(筆者の議論を前にしてあまりに大雑把なタームで申し訳ないが)と外態の間の緊張関係は後者、すなわち言説(言葉)が、前者、すなわち行為に対して常に自己弁明的(自己言及的)に働く(より広い意味では、対象化する)という点に起因する。よって反哲学は、それ以前には有力な代弁者を常に宛がわれてきた言説(ロゴス)に対する、行為からの異議申し立て(反ロゴス)ということが出来る。
西田において、神は実在を超越した彼方にあるのではなく、主客を合一した実在の根底にある力が、すなわち神なのである。だから、われわれは、みな自分自身の根底に神を見ることができる。(p.23)

私が存在すると同時に存在しない(無である)のでもなければならないということは、だから私の理解では、何か悟りのごとき特別の境地を意味しているのではなく、単純にして卑近な(しかしあまり卑近すぎてめったに注目されない)事実を指している。(p.57, cf. p.79 ff.)
身体―精神―神、それぞれの次元を異にする三木の考えにおいては、西田の神(スピノザの神も?)は存在と次元を同じくする(後述の別の無の場所に於いてある一個の存在者たる「汝」を除けば、p.91-92)。したがって、西田の「翻されたる眼」とパスカルの「良き眼」の間の実質的な相違は霧散する、と言ってもよい。ただ、三木のように、先取りされた秩序の内側に信仰を位置づけてしまうと、存在論にこれら秩序を超えたメタ哲学としての地位を与えてしまいかねない(だから三木自身の発想が直ちに危うい、というわけではないが)。両者を対象化して語ることの矛盾を犯してしまうが、信仰と理性は常に極限の緊張状態に置かれるべきである。それはもちろん宗教家と哲学者が互いに殺し合え、という意味ではない。互いに慎重であれということである。
デカルト自身は過失犯であるから、体験と言語がなんの問題もなく相即することを疑おうとしなかった(ウィトゲンシュタインと西田はそんな素朴な信仰だけは持っていなかった)。(p.46)
この両者の発想の間にあるとてつもない緊張感と果敢なさ。読者はその緊張感から思わずグッと前のめりになるものの、その果敢なさによって結局は躓いてしまうことだろう。ただ、このように考えると、内態と外態の対立によって政治的空間が特権化されるというのはやはり大きな誤りだったと(自己反省として)認めなければならない。そこで内態と呼ばれたものは、実は巧妙に、自己弁明的に言説化され対象化された偽りの内態(つまりは、単なるイデオロギー)であって、それが当初あまりに美しく輝いて見えてしまうために、我を忘れて見とれてしまうだけなのではないか。特定の思想が人口に膾炙し始めると、途端に陳腐なものと受け止められるのも、このことと無縁ではあるまい。偽りの内態であっても思想家の基礎経験を伴って現れる場合は、まだ輝きを失ってはいないと言うべきであろう(逆に言えば、普遍的思想―と呼ばれるもの―は常に陳腐なものと成り下がる深刻な危険性を孕んでいるということである)。問題はその輝きの源泉を見抜く洞察力と、基礎経験からの、そして政治への距離感である。とどのつまり、政治とは神話の応酬に他ならず、神話を打ち破ろうとした内態もひとつの神話でしかなかった、ということになるのだろう(だからこそ、政治であるところのものは「政治」と指示されうるのである)。
…西田哲学を離れて一般的にいえば、他者(私と同じ種類の他の者)の成立と言語の成立は同時にしか指定できないということである。つまり、複数の人間が対等に存在している状況からは言語の発生を論じるのは、哲学的には論点先取りなのである。(p.95)
非常に刺激的。

濃密すぎる議論に読み終えてしばらくは頭がぼーっとしてしまう。
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2010年02月02日

三木『パスカルにおける人間の研究』

三木清(1980)『パスカルにおける人間の研究(1926)』岩波文庫

パスカルの思想の存在論的解釈。キルケゴールを引き合いに出すまでもなく、存在論(実存主義)には必ずと言ってよいほど死の陰鬱さが漂っている。しかし、その死はただ陰鬱なだけの悼むべき死や悲しむべき死ではなく、戦慄すべき死であり、パスカル=三木の言葉を借りれば、生(存在)の必然性を揺り動かす=可能化する死(p.62)である。たとえば、三木はこの違いを以下のように表現する。(ただし、巻末に近づくにつれ、心理学的分析が頭を擡げてくる嫌いが無きにしも非ず―pp.205 ff)
ところでこの分析(註・慰戯の「現実の理由」の繊細の心による分析)は普通に「心理分析」と称されているものと同一であるが如く見えるかも知れない、けれど我々のいう分析は単なる心理分析ではない。人間の状態の悲惨や欠陥は単に心理的なるものではない。慰戯の現実の最も主な理由と考えられる死は単なる心理的事実ではないのである。それらは心理的でも物質的でもなく、むしろ通俗に身体と精神から成るといわれているこの具体的な人間の生における具体的な事実である。この場合分析は心理の分析でなくしてかえって生そのものの分析である。(p.167)
その意味では、われわれの身近な人の死も、多くの場合、儀式化された虚飾に満ちた死であり、戦慄すべき性質が見事に覆い隠された慰戯としての死と言うことができる。(無論、これは人々が対象喪失の心理的状況を埋め合わせるため風習として培われてきた虚飾であり慰戯ではある) ただ、死が、翻って生が戦慄すべきものとなるためには、パスカルが言うような繊細の心、「良き眼」を十二分に備えていることが必要である。(順序からいえば、宗教的不安はこの分析の結果訪れるものであろう―p.68、ならば「死への先駆」はどうか?) 残念ながら、現代のわれわれにとっては、直接自らの経験によってこれを看取するというよりも、過去の優れた著作に啓発されて、というのが実態なのだろう。さらに、読み進めていて、例のごとく引っかかったのは、内態と外態の二重性を巡ってのパスカル=三木の立脚点である。存在の解釈学的概念として「三つの秩序」を提示するのはよいが、そこには無論、解釈する者の視点が必要となる。しかし、それぞれの秩序は非連続的であり、理性もしくは哲学(言説)から信仰(行為としての心情)へと至る上昇が跳躍的(p.180)でしかありえない以上、哲学が信仰の特殊なる真理を解釈学的に語りうるのか、ということが問題となってくる。存在論に付随する危うさが感じられるとすれば、まさしくこの部分であろう。三つの秩序の中では、幾何学の心にほとんどを頼るデカルト主義者(実際のデカルトではなく)にとって信仰や宗教という名辞は単に形式的なものでしかありえない。根本的にそれは言説の領域を逃れた得体の知れないもの、未知なるものであるはずである。これに対し、存在論者である哲学者(p.41)は、躊躇無くその「特殊なる真理性」(p.148)、すなわち悲惨と偉大との「両重性」(p.175)だけであればまだしも(精神の秩序に属する幾何学と繊細の心をもってすれば明らかになるため)、神における矛盾の綜合(p.181-182)までをも語る。「生の全き理解は[行為としての信仰・]宗教のみのよくするところである」(p.146)、または「生の解釈はひっきょう生の自己解釈である」(p.182)としながらも、内態としての信仰は既に存在論という言説の外皮(外態)に覆われているのである(もしくは外態的な視点が内態に先んじて取得されている)。以下のような三木の言葉を目の当たりにすれば、この疑惑は一層大きなものとなろう。(cf. p.217)
ひとりの人のもつ生の見方は彼の属する生の秩序を必然的に表現する。生の三つの秩序は生の三つの見方を具体的に決定する。生の哲学は生の一つの見方に過ぎない。けだし哲学は三つの秩序のうち精神の秩序における生のものであって、この秩序に固有なる理解のしかたによって限定された生の見方に外ならない。(強調は原文どおり、p.136)
この関係の曖昧さは、提示される秩序を実在的なものではなく、解釈学的なものであると宣言したところで、根本的に拭い去れるものであるとは思われない。ただ、訳者解説にもあるようにこの著作がパスカル研究としても存在論研究としても日本における偉大な先駆的業績であること全く疑いない。戦前にあってのこれら三木の知見には驚嘆するばかりである。

あと、パスカル=三木における繊細の心は、幾何学の心とともに第一の秩序において存在性の真理を看取する方法(全体の直観、pp.164-165, 189)として作用したが、(現象学を通じてパスカルに明らかに影響を受けている)シュトラウスの場合は、同じく第一の秩序において哲学者の自己知の方途として作用するものであったことを、蛇足であるが、記しておく。以下、その他抜書き。
答えはいつまでも問いに充ちた答えである。答えはみずから消え失せてゆくことによってつねに存在に対する新しき道を開きつつ、みずからはどこまでも問いにとどまる。問いは問いに砕かれ、疑わしさは無限に自己を展開する。そこに問いは本来の動性を発揮することができる。(p.48)

個性は自己の裡に無限の関係を蔵しておる。この無限の関係を解くためには魂の如何なる働きも無用ではない。むしろ我々はひとりの個性として、その存在の全体において初めて、他の人間を、その全体的個性的全体において理解し得る。この場合我々が「心臓の秩序」(ordre du cœur)を必要とすると同時に、「論理的秩序」(ordre logique)を書くことが出来ないのは無論である。愛の情念は我々の全き存在に関係する。…人間の魂の全幅を充満する(remplir)ということは愛の情念の注目すべき性質である。(強調は原文どおり、pp.96-97)

我々は我々のあらゆる功績をもってしても慈悲の団塊に独立に到達し能わないのである。したがって慈悲の段階にある生をとくに人間的と見なすことは最も恐るべき傲慢でなければならぬ。とくに人間的なる生はむしろ身体の秩序と慈悲の秩序との間にある。ここに我々はまた人間の存在が特殊なる意味において中間的であるのを見出す。…「人間は天使でもなければ獣でもない」…。(強調は原文どおり、p.140)

…数学的存在については理性は絶対的なる認識を得ることが出来るのであるから、この場合いわば独断論者であることが正しき態度である。しかし例えば人間の存在については理性はどこまでも問い、どこまでも疑うべきであるから、このときにはいわば懐疑論者であることが正しき態度である。そして神に関する事柄については理性は何事も理解し得ぬが故に、このときには理性は自ら謙って信仰に道を譲るべきである。かようにして自覚的なる生を生きる者は、パスカルによれば、懐疑論者、幾何学者、謙虚なる基督者…の三つの性質をもたねばならぬ。(pp.185-186)

…キリストの知識は…我々に完き徳…を示す。彼の悲惨さを知ることなくして神を知ることは人間にとって危険である、なぜならそれは傲慢を惹き起こすから。そして贖主を知ることなくして彼の悲惨を知ることもまた同じように危険である、なぜならそれは絶望の原因となるから。…ひとは神と彼の悲惨とを全体として一緒に知ることなくしてはキリストを知り得ないのである。(強調は原文どおり、pp.210-211)
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2010年01月12日

藤原『国家の品格』

藤原正彦(2005)『国家の品格』新潮新書

何を今更、と思われるかもしれないが、最終頁の「経済的斜陽が一世紀ほど続こうと、孤高を保つべき」といったような過激な発言や「武士道=日本版マニフェスト・ディスティニー」という傲岸な姿勢等を除けば、頷ける部分は少なからずあった。とりわけ、氏の思想の根底に潜む(と解される)普遍が個のうちに存する、もしくは個を通しての普遍という発想だ。確かに、日本固有の武士道精神を説きつつも、普遍的価値を持ち出す(p.130)のは奇妙な印象を受けるが、そもそも人が(時間的・空間的)普遍に対して開かれていなければ、極端な文化相対主義や懐疑主義に陥ることになりかねない。他方、その価値を支えるのが論理的な基礎付けでないために、普遍は致命的な欠陥を帯びてしまうことになる。結局、あらゆる道徳的信条がそうであるように、われわれの普遍も臆見の域を出ることはない(裏を返せば、政治社会におけるいかなる知見も真理=知識たりえない)。これは中間存在としての人間の宿命、すなわち限界であろう。しかし、逆を考えれば、経験の基体となる個を度外視した普遍なるものも存在しえないということになる。こういった視点からならば、(負荷なき地球市民ではなく)国際人の育成と言う際に、氏がなぜ初等公教育における英語学習を問題視するか、幾分柔軟に受け入れることができよう。世界はさながら無数の異なる培養基によって構成されており、その各々が普遍探求のための暗黙の役割を担っているかのようである。ゆえに、国際人なれば個別の文化・伝統をその担い手として維持する役割をまずは自覚しなければならない、という氏の結論にも一応は頷けるのである。
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2009年10月01日

ドゥルーズ『スピノザ』 / バタイユ『ニーチェの誘惑』

G・ドゥルーズ(鈴木雅大訳)(2002)『スピノザ―実践の哲学(1981)』平凡社ライブラリー

現代の文化闘争はまた、本書で描かれるようなスピノジスト(ドゥルージアン?)とスピノザ的意味での道徳にしがみつく(以外に仕様がない)人々の間での、あくまでも神話(訳者の言う自明性のループによってもたらされた神話)の意義(特にスピノジストにとって許容しうる神話)をめぐっての鬩ぎ合いとして表現できる。神話なき社会(伝統主義者にとっては内態の思想によって常に脅かされている社会)はその存立からして疑わしいし、ポスト啓蒙の時代にあってスピノジスト(そのラディカリズムゆえにスピノザ本人とはあえて言うまい)がそのような社会を本気で可能と考えているわけではないだろう。道徳的な悪(その端的な表現としてはモーセの十戒)が決して根絶されえないように、スピノザ的な「わるい」構成関係も(外態的には)根絶しえない。結局、このような鬩ぎ合いのために政治的領域はおのずから特権化される。(だからこそ、二十世紀後半の政治学者は、内態と外態、当事者と観察者の狭間で苦しまざるを得なかった) ついでに言えば、この鬩ぎ合いは哲学と政治、哲学と都市の対立の現代的様相をも説明してくれる。現代人にとっては非常に見えにくくなってしまったこの対立について、その主たる理由と思われるものを二つあげておこう。ひとつは、政治が純粋に都市を代弁するもの(当事者たるポリス)ではなくなり、アリーナとしてメタ的に、価値中立的に認識されるようになったということ。すなわちリベラルな伝統の自明化。もうひとつは、すでに述べたようなスピノジストの側での神話、さまざまな自明化のループに対する許容度の増大である。

ちなみに、一読者として感銘を受けたのは以下の箇所。
スピノザの〈エチカ〉はモラル[人間的道徳・倫理]とは何の関係もない。彼はひとつのエトロジーとして、いいかえれば、そうした内在の平面の上でさまざまの速さと遅さ、さまざまの触発しまた触発される力がとげる構成の問題として、これをとらえているのである。だからこそ彼は真実叫びをあげて言うのだ。君たちは、良きにせよ悪しきにせよ、自分に何ができるか知ってはいない。君たちはひとつの身体、またひとつの心が、ある出会いにおいて、ある組み合いにおいて、ある結びつき合いにおいて、何をなしうるかをあらかじめ知りはしない、と。(p.241-242)
G・バタイユ(吉田裕訳)(1996)『ニーチェの誘惑―バタイユはニーチェをどう読んだか(1970-81)』書肆山田
空の純粋なイメージ、王、将軍、頭脳、そしてその堅固さの純化されたイメージ、光線に貫かれた空の純粋なイメージは、このイメージを見つめることなく、それに心打たれることのない者たちには調和と安寧をもたらす。けれども、自分の眼前で自分のありのままの姿を裸形にする者には、心的なめまいをもたらす。(p.99)

実際のところ、彼は思考し、語ることで満足することはできない。なぜなら、内的な必然性が、自分の考えたこと、言ったことを生きるように彼は強いるからだ。あの通過者(引用者注・訳者によればおそらくイエスのこと)と同じく受肉した者は、こうして自由を知ることになるが、この自由はあまりにも大きいゆえに、どんな言語もその運動を再現するに十分でない(弁証法とてほかの手段以上ではない)。ただこのように肉化された人間的な思考のみが祝祭となって、その陶酔と放埓は、悲劇の感情と苦悩に劣らず解き放たれるだろう。そのことは「受肉した者」もまた狂人とならねばならないと認めること―どんな言い逃れもなしに―へと人を導くのである。(p.105)
上記のような純粋なイメージをいったい幾人が正視しうるのだろうか。二つ目の引用は、内在・必然・自由・事件(出来事)といった鍵概念においてスピノザとニーチェが(当然ながらに)重なり合うことを示唆している。しかし、後者が(狂気のうちに独り打ち捨てられる、すなわち十字架刑に処される、ことによって)正視しえない人々を突き放すならば、前者はひとりひとりの傍にあって穏やかに勇気付ける役割を担っている。そのような激烈さが生じるのは、スピノザにおいては延長と思惟のたかだか一様態であった個人が、ニーチェにあっては自己原因とならざるをえず、バタイユの言葉を使えば人間にとって到達し得ない不可能事に直面することを強いられるからであろう。

訳者解説でも触れられていた、神秘性を媒介として永劫回帰から共同性へと至るバタイユの思考プロセスについては、いまひとつ納得できなかった。先の永井のような純哲学的な視点からすれば、やはり神秘主義的な解釈に傾きすぎている。超人や永劫回帰といった概念(このように表現することも本来不可能だが)は、哲学的にはそもそも語り得ない。それゆえ本当に共同性などというものは生じえるのだろうか、という疑問が残る。ニーチェとナチスを同じ神秘主義の土壌で弁別するために、未来を過去に、子供の国を父の国に対峙させるだけで事足りるとする場合にも同じことが言える。
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2009年08月19日

スローターダイク『大衆の侮蔑』

P・スローターダイク(仲正昌樹訳)(2001)『大衆の侮蔑―現代社会における文化闘争についての試論(2000)』御茶の水書房

訳者解説というのは本当にありがたい。(翻訳であるということ自体が既に解説を読んでいるようなものだが) 以下抜書き。
従ってポストモダン社会における結集しない、そして結集し得ない大衆は自己の身体、自己の空間という感情はもはや持たないのである。大衆はもはや合流して、一緒に行動することはなく、脈が打っている体を感じることはないのである。彼らはもはや共同の叫び声を挙げはしない。彼らは実用的・慣性的なルーティーンを脱して革命的に先鋭化していく可能性から次第次第に遠ざかっていく。彼らの状態は、各粒子がそれぞれの空間の中で個別に振動しているガス状の凝集体に類似している。各粒子がそれぞれ願望力と前政治的な否定性=負の電気(Negativität)によって充電されながら、プログラム受信機にかじりつき、絶えず繰り返し自己を高揚し、享楽しようとする試みに身を捧げているわけである。(p.16-17)

自己目的(ein Ende in sich selbst)化した人間についての近代的言説は、発展と惰性の二者択一の間を揺れ動いているのである。従って近代は、努力に期待する進化論者たちと、努力の終焉(Ende)を説く誘惑者の間の原理的に見て決着のつきようがない対立のアリーナなのである。(p.34)

民主主義のプロジェクトは、人間の他性(Andersheit)を異なった仕方で―しかも、彼らの間に(自然に)見出される相違(Unterschied)を拒絶し、(意図的に)為される区別(Unterschied)で置き換えるような仕方で―解明するという決断に依拠している。「見出すfinden」と「為す=作るmachen」の間には、将来にわたって、最も激しい闘争が行われることになる何本かの境界線が走っている。これらの境界線とは、保守的利害と進歩性、服従と自己決定、“存在論的に認知すること”と “構成主義的に新しく、異なったやり方をすること”、そして最終的には、ハイ・カルチャーとロー・カルチャーを分かつ境界線である。(p.100)

…教養という尺度から見れば、単なる世襲貴族なるものが、しばしばマナー意識をもった野蛮人にすぎなかったことも想起すべきだろう。とりわけ英国の貴族については、彼らが前アルファベット的な体質であったことを示す例がいくつもある。(p.107)

大衆文化は、自己自身を関心をもたれる存在にしようとする試み(Sich-interessant-Machen)、つまり自分を他人よりもよく見せようとする試み(Sich-besser-als-andere-Machen)の全てが挫折することを前提に成立しているのである。そして、これは当然なことである。というのは、我々の相違(Unterschied)はいかなる差別(Unterschied)も作り出さないという前提の下でのみ、我々はお互いを区別し合っている、というのが大衆社会のドグマだからである。大衆であることには義務が伴う。(p.116-117)
文化闘争を最基部でコントロールする原理を明らかにし、古典哲学の超越的審級(同一性と現前性)を排したはずの近代のプロジェクトが、結局は「より二次的、よりネガティヴ、より再帰的な姿で」(p.115)同一性の亜種、無関心=非差異性を引き継いだという指摘は、的を射ていて非常に面白い。例外・異常なるものとしての芸術(およびそれに対する称賛)にひとつの処方箋を求めるところはニーチェ臭むんむんだが、それを政治的言説の中心へと翻訳することは巧妙に避けているような感がある。そうであっても、真に称賛に値する差異性と大衆文化の力学に絡め取られた低俗・下劣さとの区別は容易ではない。(差異に対してとりあえず寛容になることは本人の姿勢次第だが)
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2009年06月28日

デリダ『言葉にのって』

J・デリダ(林好雄ほか訳)(2001)『言葉にのって―哲学的スナップショット』ちくま学芸文庫

デリダによるデリダ101。続きを読む
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