2008年06月12日

ヒューム『人性論』A

ヒューム『人性論』A

最近読んだ、イグナティエフの『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』にて、ヒュームが鉄の世俗主義者として紹介されていたので、あーそういえば、『人生論』が中途半端でほったらかしだったなーと思い出し、とりあえず、終わらせておこうと決心したわけで(とはいっても、イグナティエフの本で主題となるのは認識論よりも情念論なんだけれども…)。で、今回は第一篇の残り、とりあえず、第三部だけでも。。。

第三部は「知識と蓋然性について」。第一節で、ヒュームは知識を哲学的な考察の対象とされる諸々の関係の中でも、比較される観念に依存するものとして捉える。それらは、類似反対質の度合い量もしくは数の割合である。さらに、最後の「割合」は、その正確さにおいて他の3つと属性を異にする。特に幾何学については、そこに何かしらの人為的な操作(例えば、前提・仮定の類)が必要となる。その意味で、幾何学は代数・算術と区別され、後者が完全な正確さと確実さとを保持しうる一方で、前者はそうと見なしがたいというのがヒュームの考えである。

哲学的関係については、同一時間的および場所的状態因果性という上記の4つ以外のものも存在し、その違いは、これらの関係が比較される観念に依存しないことにある。このうち、前二者は推論ではなく、知覚の領域で扱われるものであるために、感覚機能を超越していくものではないのでこれ以上の考察の必要は生じない。必要が生じるのは、最後の因果性についてである。因果関係こそが懐疑論的認識論の本丸ということになるわけだが、まず、ヒュームは、因果性の関係にとっての本質的な関係として、近接・継起(先行関係)・必然的結合が挙げる。つまり、一般に因果関係を考察する際に、近接と継起だけを本質的に備わる関係であると指摘するだけでは、説明し尽くせない部分が残ってしまうので、それを必然的結合と呼ぶわけだ。その必然的結合について、ヒュームは2つの問題提起を行う。第一に、「存在に始まりがあるすべてのものは、また必然的に原因を持つ、と明言するのはいかなる理由によるのか」、ということ。そして第二に、「しかじかの特定の原因は必然的にしかじかの特定の結果を伴わねばならぬと断定するのはなぜか。また一方から他方へ導く推理の本性、およびこの推理を信頼する信念の本性とはなにか」、という問題である(p.431) [以上、第二節]。

ヒュームの焦点は第二の問題に置かれる。つまり、第一の問題において論じられるように、懐疑論の立場からすれば、客観的な因果関係の原理なるものは認めることはできない。であるならば、因果関係はわれわれの判断と推理の問題となる[第三節]。まず、ある特定の原因の存在を定めうるのは、究極的には直接の知覚であるが、そのような感覚機能による印象(もしくは記憶から生ずるそれ)の程度によってわれわれの確信は左右される[第四節]。ここから更に3つの考察対象が出てくる。すなわち、もともとの印象、印象から原因の観念への移行[第六節]、そしてそのような信念[確信]そのものの本性である。もともとの印象(感覚機能から生じる印象)については、人間にはその究極的原因(何から生み出されるか)を決して知りえない。従って、そのような問いかけはあまり有意義ではないことになる。ここで話は記憶と想像の差にまで広がるが、その違いは、ヒュームによれば、記憶の方が勢いと活気において優っているということにある[第五節]。では、そのような印象からいかにして因果性の観念が生み出されるのか。ヒュームは可能性として理性と自然的関係を挙げ、それぞれについて考察する。結論から言えば、自然的関係のみがそのような移行を為しうる。それは論証によっては決して因果関係の確実性を得ることが出来ないからであり、経験こそがその唯一の方法だからである。その意味では、因果性は蓋然性に止まらざるを得ないわけであって、それは恒常性を伴った、連合する観念であるということになる。また、ヒュームは、「蓋然性はある点では記憶もしくは感覚機能の印象をもとにし、またある点では観念をもとにするのでなければならない」(p.437)、と述べるが、これをカント風に、「(現在の)印象なき観念は空虚であり、観念なき(現在の)印象は盲目である」と言い換えることもできよう[第六節]。

ここまで来て、話はわれわれの信念の本性そのものの考察へと至る。まず、観念と信念の違いは何か、すなわち、「神が存在する」ことを信念として抱く場合に、心のなかで神という存在者の観念をただ持つこととはどのように異なってくるのだろうか。ヒュームは、その違いを、現在の印象にもとづく「勢いと活気の程度の違い」(p.440)に求める。従って、信念とは「現在の印象と関係を持つ、すなわち連合する生き生きとした観念」(p.441)と定義付けられる[第七節]。では、そのような信念はどのようにして起こるのか。…と、続けようと思ったが、集中力が切れてきたので、中途半端だけれども、一旦中断。。。
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2008年06月06日

SSBもれリスト[雑誌編]

『外交フォーラム』都市出版: 168/187/193/214
『世界の艦船』海人社: 533/605/608/639/654/655/656
『丸』潮出版: 718/719
『歴史群像』学習研究社: 41/47/70/74/75/76/77/78/80
『歴史読本』新人物往来社: 733/792/793/810
『論座』朝日新聞社: 2006.1/3
『中央公論』中央公論新社: 2004.9/11/2006.12
『文芸春秋』文藝春秋: 2006.6
『正論』産経新聞社: 2004.4/6/7/8/12増刊号/2005.7
『諸君』文藝春秋: 2005.7
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SSBもれリスト[書籍編]

△Blackstone, William T. Political Philosophy: An Introduction. NewYork: Crowell, 1973.
○Fry, Alton. Humanitarian Intervention, Crafting a Workable Doctrine, Three Options Presented as Memoranda to the President. New York: Council on Foreign Relations, 2000.
×Harris, Henry S. Social Philosophy of Giovanni Gentile. Urbana: Univ, of Illinois P, 1966.
×Lederer, Emil. State of the Masses: the Threat of the Classless Society. New York: Howard Fertig, 1967.
×Prior, Andrew. Revolution and Philosophy: The Significance of the French Revolution for Hegel and Marx. Cape Town: D. Philip, 1972.
△Roland, Alex. Military-Industrial Complex. Washington D.C.: American Historical Association, 2001.
×Viner, Jacob. Long View and the Short: Studies in Economic Theory and Policy. Glencoe: Free, 1958.

×浅野栄一ほか(1978)『経済政策の思想』有斐閣新書
×今井弘道編(1990)『法思想史的地平』昭和堂
×江藤淳(1973)『批評家の気儘な散歩』新潮選書
×笠信太郎(1976)『資本主義の運命』講談社学術文庫
×高坂正顕(1968)『大学問題と学生運動』南窓社
×佐々木毅(1978)『マキアヴェッリ (人類の知的遺産24)』講談社
×四宮恭二(1981)『ヒトラー・1932-34: ドイツ現代史への証言 (上)(下)』NHKブックス
○永井陽之助(1971)『政治意識の研究』岩波書店
○--(1979)『時間の政治学』中公叢書
△中村貞二(1972)『マックス・ヴェーバー研究』未来社
×日本法哲学会編(1979)『日本の法哲学II (法哲学年報)』有斐閣
×埴谷雄高/堀田善衛(1968)『死霊ほか (日本文学全集84)』集英社
×東畑精一(1964)『日本資本主義の形成者: さまざまの経済主体』岩波新書
×村上也寸志(1979)『学生反乱の思想史 (亜紀・現代史叢書 11)』亜紀書房
△矢内原忠雄(1964)『人生論・アウグスチヌス「告白」講義 (矢内原忠雄全集22)』岩波書店

〇ヴェーバァ(木本幸造監訳)(1980)『改訂版 社会学・経済学における「価値自由」の意味(1918)』日本評論社
×クセノポン/プルターク(村川堅太郎ほか訳)(1967)『英雄伝/一万人の退却 (世界文学全集5)』筑摩書房
×P・O・クリステラー(渡辺守通訳)(1977)『ルネサンスの思想』東京大学出版会
×パスカル/モンテーニュ(原二郎/松浪信三郎訳)(1969)『パンセ/エセー (世界文学全集11)』筑摩書房
×E・フロム/H・ラスウェル(日高六郎ほか訳)(1962)『自由からの逃走/権力と人格 (世界思想教養全集15:現代アメリカの思想)』河出書房新社---「第3章 宗教改革時代の自由」のみ、東京創元社, 1951(pp.51-118)
△R・N・ベラー(河合秀和訳)(1973)『社会変革と宗教倫理』未來社
○D・ベル(岡田直之訳)(1969)『イデオロギーの終焉 1950年代における政治思想の涸渇について』東京創元社
○--(蠟山昌一訳)(1984)『社会科学の現在』TBSブリタニカ
×K・ボールディング(清水幾太郎訳)(1967)『二十世紀の意味: 偉大なる転換』岩波新書
×毛沢東(浅川謙次/安藤彦太郎訳)(1970)『実践論/矛盾論ほか (世界の大思想35)』河出書房新社
×A・ラパポート(関寛治編訳)(1969)『現代の戦争と平和の理論』岩波新書
×D・リースマン(永井陽之助訳)(1968)『政治について (現代論集 1)』みすず書房
×K・レーヴィット(麻生建訳)(1975)『ヘーゲルとヘーゲル左派』未来社
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2008年04月01日

ヒューム『人性論』@

ヒューム(土岐邦夫訳) (1980)『人性論(1739・1740)』 (中公バックス 世界の名著 32)@

もちろん、抜粋訳。教科書等ではロック、バークリー、ヒュームの認識論がワンセットで扱われる。全訳はロックの時と同様、岩波文庫で4分冊だが、はっきり言って読んでられないw 以下に目次。

緒言
序論
第一篇 知性について
第一部 観念、その起源、公正、結合、抽象などについて
第二部 空間と時間の観念について
第三部 知識と蓋然性について
第四部 哲学の懐疑的体系とその他の体系について
第二篇 情念について
第一部 誇りと卑下について
第二部 愛と憎しみについて
第三部 意志と直接的な情念について
第三篇 道徳について
第一部 徳と悪徳一般について
第二部 正義と不正義について
第三部 その他の徳と悪徳について

本訳文については抜粋ながらも、ヒュームの懐疑論が体系的に披露される第一篇に特に重点がおかれており、残りの第二篇、第三篇についてはほとんど要約に近い。とりあえず、今回は第一篇の第一部・二部を…。が、その前に序論から一節引いておく。哲学ほか諸学問の認識論的基礎付けについて。
ただ信じ込んでいるだけの原理、こうした原理からつじつまも合わせず導き出された帰結、各部分の間の整合性の欠如、全体における明証性の欠如、こうしたことは最も高名な哲学者の体系においてさえ、いたるところで目につくのであり、そして一般に哲学そのものに汚名を負わせることになったように思われる(pp.407-408)
懐疑論へのヒュームの宣言とも受け取れる。その内容が明らかにされるのはまだ先のことではあるのだが。では本文へ。

本書の第1部は、ロックの『人間知性論』では第2巻「観念について」に対応しよう。とは言っても、明らかにヒュームの方がよく整理されている。ここで定義される観念その他の諸概念に関して、図にまとめると以下のようになろうか。
ヒュームの認識論
まず、知覚の2種類の区別(印象impressionsと観念ideas、単純simpleと複雑complex)がなされ、ヒュームによって「この論文の主題」(p.413)となる問題、すなわち「印象と観念のうち、どちらが原因で、どちらが結果なのか」(p.412)について、さしあたり次のような一般的命題が立てられる。「初めて現われるときの単純観念はすべて、それと対応し、それが正確に再現する単純印象に起因する」(同) 印象と観念の差異は、その「勢いと生気(force and liveliness)」(p.411)というスコラ的解釈によって性格づけられ、単純印象と単純観念の間において真であるところの「一方が他方の正確な写し」(同)ということが、複雑なそれらの関係においては必ずしも成立しない。どうもここまでで複雑印象が置いてけぼりにされてしまってるような感じがするが、単純と複雑の差についてヒュームはりんごの例をあげ、「特殊な色、味、香りはすべてこのりんごの性質としていっしょに結び合っているが、…これらの性質は同じものではなく、ともかく互いに区別できるのである」(p.412)と説明している。

ただ、上記の「さしあたっての」命題は次の第2節で早くも放置される。観念とは、印象が消えうせたあとに残る写しであるが、その際の最初の印象を生み出すものが感覚sensation(図の@)である。しかし、ヒュームは感覚についての吟味が「むしろ解剖学者や自然学者に属する仕事」(p.414)として、感覚とは異なる(単純)印象である反省reflexion(図のA)についての考究を先行させるという。反省とは、快と苦の観念がふたたび(心に)現われた場合に生み出される、欲望や嫌悪、希望や恐れといった新たな印象のことである。これらの点では訳語が違えども、ロックのものと大きな差異はない。観念は記憶memory(図のB)と想像imagination(図のC)に区分されるが、両者の違いは勢いと生気の差であり、また別の相違点として、後者は元となる印象の順序、形に拘束されず自由に切り貼りされうるのに対して、前者は束縛されている。想像に関係して観念連合connexion or association of ideasが持ち出されるが、ロックが観念連合を「気の狂い」として切り捨てたのとは対照的に、ヒュームのそれでは複雑観念が形作られる際の普遍的原理として捉えられる。このことは、ロックが単純観念から複雑観念を生み出す機能を心に備わる力能に帰さしめたのに対して、ヒュームがこれを観念の性質に還元したという相違に起因するのだろう。ただ、観念の結合といえどもそれほど強い結びつきが与えられているわけではない。その意味で、その原理は穏やかな力と呼べるのであり、ヒュームはこれに引力attractionという言葉を当てている。観念連合によって複雑観念が生み出される場合、単純観念間の結びつきのパターンの代表的なものが、類似resemblance、近接contiguity、原因と結果cause and effectであり、その結果生み出される複雑観念には、関係relations、様相modes、実体substancesがある。第5節と6節において、この3種類の複雑観念の吟味がなされるが、この区分はロックとさほど大差はない。(あと図には複雑印象なるものが取り残されているように見えるが、それは気のせいw)

第1部の最後に、抽象観念もしくは一般観念について論じられる。これはロックにおいても取り上げられた中世普遍論争を引き継ぐものであるが、冒頭でヒュームはバークリーの説を評価できる発見として引用しつつ、(抽象)観念は「その表現作用では一般的になりうるとしても、それ自体としては個別的なもの」(p.421)であるとする。個人的にはなかなか言い得て妙と思えるのだが、言語哲学の視角からは観念とそれに対応する名辞という観念説の立場に立つ限りにおいて依然批判の対象となるのかもしれない。これに関連してもうすこし引用しておこう。
われわれがでくわすいくつかの対象の間になにか類似があるのにいったん気づくと、たとえ量と質の度合いにどれほどの相違が認められるにしても、われわれはこれらの対象のどれに対しても同じ名前をつける。この種の習慣が身についてしまうと、その名前を聞けばこれらの対象のうちの一つの観念がよみがえり、その特有な事情、割合をすべて備えて想像はこの観念を思いいだく(p.421)
指摘しておくべきは、逆にこのように個別的でありつつも、一般的にならざるを得ない理由として、ヒュームは心の知覚能力の限界をあげていることである。人間は当然ながらにその種や類に属するすべての個物を認識することは出来ない。この限界の主張は主知主義に対する重要な反論になろう。したがって、一つの、個別的な観念を呼び起こす習慣によってそこから漏れた複数の個物を代理させることが、抽象観念、および一般的名辞の本性となる。

次に第二部では、まず空間と時間の観念における無限分割性が否定される。そして、両者ともにそれ自体としての印象に基づくものではなく、空間であれば目に見える、もしくは触れられる対象の配列から、時間であればある変化しうる対象の知覚しうる継起から(付随的に)見いだされるものである。同様の論理で、ヒュームは存在の観念をわれわれの思い抱くあらゆる観念と同一であるとする。例えば、りんごの観念を持つとき、われわれはりんごの存在そのものの観念を直接的に持つのではなく、その形や色などの諸々の(単純)観念によってその存在そのものの観念をいわば付随的に持ちうるのみである。更に同じことが外的存在の観念についても言える。したがって、「それを思いいだくのに役立つようわれわれがなしうることは、せいぜい外的事物と関係を持つ観念を作ることぐらいであって、その際、関係させられる事物を含みこもうなどとは考えはしない」(p.426)と言わざるをえないのである。また、対象についての原初の観念は知覚しうる印象からつくられるわけであるから、たとえ想像であっても、「心という狭い限界内に表われた知覚以外には、いかなる種類の存在も思いいだくことはできない」(同)とされる。
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2008年03月28日

藤田『ニーチェ』/池内『悪魔の話』

藤田健治(1970)『ニーチェ その思想と実存の解明』中公新書

入門書。その人生と思想展開を、所々著者の昔話を交えながら追っていく。主要な著作はすべて織り交ぜてあるので、その全体像を容易に掴むことができる。ニーチェという人は本当にスケールがでかい思想家だ、というのが読了直後の印象。まあ、それも19世紀という転換期の世相抜きに考えることは出来ないわけであるが。やはり、破壊者と創造者の両面を指摘しておくことが、彼の正当な評価には必要なのであろう。その創造者たる面、彼の精神の貴族主義と呼べるところのものについては、個人的に共感するところがある。ニーチェの哲学を相対主義の元凶として切り捨てたシュトラウスが、実はニーチェ的であった、というような主張ができるのもこの点に関してであろう。しかし、そのために既存の秩序をその根底から否定することは、半ば時代の反映であったとは言え、そうそう首肯できることではない。彼は「大いなる政治」を語るが、それはもはや政治ですらないだろう。まあ、現在の貧相な思考では考え付くことも限られるので、今後その著作を読み進めていくうちによりクリアーにまとめていくことができるかと。あと、「生の永劫回帰」にちなんで、『輪廻と転生』(石上玄一郎著, 人文書院, 1977)なる本が書棚にあったので今度読んでみようかと思う。

著者の藤田健治(1904-1993)について。著者経歴欄には東京帝国大学文学部哲学科卒、生前の肩書きとしてお茶の水大学名誉教授とある。更に詳しくと思ったが、ググってみてもめぼしい情報が得られなかったので、今のところはこれしか判らない。ただ、著作集があるそうなので、今度そっちをあたってみようと思う。本書の記述からは、内外の多くの著名な研究者と交友関係をもっていたことが伺える。

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池内紀(1991)『悪魔の話』講談社現代新書

ふと書棚に目をやるとこんな本が混じっていたので読んでみた。なかなか興味深く読めた。あとがきにはこうある。「もっとも書きたかったのは、それ(悪魔)ではない。もっと危険で、もっと凶猛な悪魔、つまり人間を書きたかった」(p.204)。その言葉どおり、各章末にはシニカルな世相批判、人間批判が並ぶ。多少鼻につくものも無きにしも非ずだが。

著者の池内紀(おさむ)(1940-)について。Wikiにエントリがあったので、以下に一部改変して転載。(リンク)
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池内紀は、日本のドイツ文学者、エッセイスト。兵庫県姫路市出身。東京外国語大学外国語学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。神戸大学、東京都立大学、東京大学文学部で教鞭をとり、定年前の1996年に退官。退官後は文筆家、翻訳家として幅広く活躍している。NHK-FM「日曜喫茶室」の準レギュラー。天文学者の池内了は弟。アラブ研究者の池内恵は息子。
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ロック『人間知性論』B

ロック『人間知性論』B

ラスト第4巻。。。 ここでは真知と臆見について論じられる。

真知(knowledge)とは「私たちの観念にあるものの結合・一致の知覚、あるいは不一致・背馳の知覚」(p.153)とされる。このような知覚には4種類あって、それらは@同一あるいは差異、A関係、B共存ないし必然的結合、C実在である。それぞれが知覚の方法によって現実的真知と慣習的真知に、ならびにその程度によって直感的真知、論証的真知、感覚的真知に分類される。続けて、真知の範囲ならびに無知の原因、そして真知の真実性に言及されるが、最後のものは基本的に第1巻で観念について述べられたところの繰り返しである。

次に、話は真理命題に移る。真理(truth)は真知と異なる。真知とは知覚であり、真理とはその知覚に基づいて形成される命題の内容を指す。命題には、心的命題と言辞的命題が存在する。また、真理は真知と同様に、その程度と対象によって真実な真理、精神的真理、形而上学的真理に分けられる。ここでも、煩瑣になるので個々の説明は省く。命題については、第7章で普遍的命題、第8章で公準(maxims)、第9章で無価値な命題が扱われるが、最初のものだけが真理性と絶対確実性を持つとされ、その有用性が認められる。無価値な命題については勿論のこと、それまで自明とされてきた公準・公理と呼ばれるものに関しても、それに付随するスコラ的な生得原理とともに否定的に評価される。第9章から第11章では、存在について述べられ、それぞれ、われわれ自身、神、それ以外の事物の存在が扱われる。神の存在証明については、スコラ的な論法が用いられ、われわれ自身の存在が自らの直感によって絶対確実であるならば、それに付随する属性を引き出す他の確実な存在がなければならない。そして、そのような存在の連鎖を遡っていけば、「ある永遠な、このうえなく力能があり、このうえなく知る存在者」(p.171)に最終的に行き着かざるをえなくなる。それが神である。これに対して、それ以外の事物の存在に関しては、われわれの感官によって覚知される限りにおいて、真知に相当するとされる。これを超えるものに関しては蓋然性に過ぎない。第11章の最後で再び命題の分類(存在に基づくもの)に言及されるのだが、どうもロックは思いついたことをその都度付け加えていっているような感じがしてならない。蓋然性(probability)については、第15章が宛がわれているが、それに前後して、真知と判断(judgment)の区別が取り上げられる。蓋然性とは真知と対比される臆見(opinion)であり、論証に基づいて判断と人々の間の同意(assent)の対象となる。(本巻のタイトルの和訳は「真知と臆見について」となっているが、原文は“Of Knowledge and Probability”である)

様々な命題の中で、真知のように絶対確実性を持たずとも、ただ論証だてによってそれに対する人々の最高度の同意を要請するようなものが存在する。そのような命題が神の啓示(revelation)であり、それに対する同意がまさに信仰(faith)となる。そこで、ここからが本巻の一つの山場になる(と勝手に思っているのであるが)、いわゆる理知(reason)と信仰の区別がなされる。ロックにおける理知に関しては、本文よりも本書の解説にあった言葉を抜き出しておくほうがよいだろうし、それで十分であろう。すなわち、理知とは「抽象や推理などの複雑な過程を含む論理的思考機能であり、…経験を超えた形而上学世界を認識する能力ではない」(p.24) そして、「この理性と感覚機能を含む、心の知的機能が知性understandingであって、知性は、いわゆる理性と対立する悟性(Verstand)のような、理知ないし理性とは別種の心的機能ではない」(同)のである。この理知と信仰の関係は、スコラ哲学においても(当然のように)問題にされてきたが、ロックは、トマスにならい、両者の領域を峻別する。したがって、この区別を曖昧にし、理知に正当な役割を担わせないような「不可能だから私は信ずる(Credo, quia impossibile est)」という態度は狂信(enthusiasm)に至るとして拒絶する。(ちなみに、スコラ哲学の創始者とされるカンタベリーのアンセルムスは「知らんがために、私は信ずる(Credo ut intelligam)」という似たような標語を残してはいるが、意味は全く異なり、信仰を理性(理知)に優位させるものの、その位置と役割をきちんと与えている。トマスは、アンセルムス以上に理性の役割を拡大したが、その影響がロックに明確に見られるように、近代哲学のはしりとなった)

最後に、第21章においてロックは学(sciences)の区分について述べているが、中でも三番目の部門、記号学(セーメイオーティケー)に触れておくことは認識論の系譜から重要であろう。すなわち、中世イギリスにおいてドゥンス・スコートゥスからウィリアム・オッカムへと展開する唯名論的個別主義から導き出された、普遍とは実在するものでなく記号(signum)に過ぎないとする記号主義の影響が強く見られるのである。

コメントとして、この論文はお世辞にも上手にまとめられているとは言えない。このことは、ヒュームの『人性論』と比較する際に一層鮮明となろう。正直、まとめるのがめんどくさかったw なので、中公バックスに収められていたのは抜粋訳ではあるが、今後全訳(文庫版では巻数に応じて4分冊)にあたろうとは全く思わないw

訳者の大槻春彦についてはググっただけではめぼしい情報が出てこなかった。ただ「日本デューイ学会」の創設に深くかかわった方だということはわかった。まーまたどこかで…。
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2008年03月14日

ロック『人間知性論』A

ロック『人間知性論』A

第3巻「言葉について」。まず、序盤の重要フレーズを抜き出しておこう。
言葉は、…直接の意味表示では、言葉を使う人の心にある観念を表すだけである(p.136)
言葉をたえず使うと、ある音とその表わす観念との間に堅い結合ができてきて、名まえを聞くとほとんど即座に一定の観念を喚起するようになり、この観念を産むに適した事物それ自身が現実に感官を感触したときと変わらないのである(同)
後世に批判にさらされることになる、いわゆる意味論上の観念説である。
一般とか普遍とかは実在の事物に属さず、知性が自分自身で使うために作った案出物・創造物であって、言葉にせよ観念にせよ、記号だけにかかわる。普遍性は特殊な存在である事物自身には属さない。(p.137)
この唯名論的立場が本巻でさらに明確になっていく。その表われのひとつが、ロックが実在的本質(real essences)および唯名的本質(nominal essences)と呼ぶところのものの区別であろう。前者は、「事物の、私たちに発見できる諸性質が基づく実在の内的な…組織」(p.138)を指し、後者は、「(存在という)その根元の意味表示をほとんど失ってしまい、事物の実在的組織の代わりに(あてがわれた)…人工的組織」(同)のことを指す。従って、この唯名論的本質は文字通り名まえと密接に結びつくことになる。このことは類と種(ラテン語でgeneraならびにspecies)と呼ばれる前回紹介した「実体」の複雑観念に深く関わる。
実体の実在的本質については、私たちは、それがなんであるかを的確に知らないで、その在ることだけを想定する。が、実在的本質を種に結びつけるものは、いつも唯名的本質であり、実在的本質は、この唯名的本質の想定された根底・原因なのである(p.142)
私たちはある実体についてそのうちに合一している単純観念の知識より以外の知識を持たないし、また、いくつかの特殊な事物が他の特殊な事物と、それら単純観念のいくつかで一致することを観察する。そこで、私たちは、こうした観念の集まりを種の観念として、これに一般的な名まえを与える(p.143)
言うまでもないことだが、我々がいわゆる「犬」という事物を会話の中で表現するとき、その具体的個物をすべて挙げて表現するわけにはいかない。従って、「犬」という実体(種)、すなわち「犬というもの」をお互いに想定する・・・・ことで会話を短縮し、それによって利便性を確保するのである。急に話は飛ぶが、ロックの言う実体とはいわば「最も消極的な意味でのイデア」、すなわちある種の(普遍的)共有知を求める認識論的基盤を提供するものであると言えよう。

あと、ロックの言う混合様相というのがどうもイメージしにくいのだけれども、まあいいか。

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今回はこれだけ。次回は第4巻を…。
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ロック『人間知性論』@

ロック(大槻春彦訳)(1980)『人間知性論(1689)』(中公バックス 世界の名著 32)@

ほぼ3週間ぶりのまともなエントリ。

まず、第2巻の「観念について」で、ロックの認識論の骨格が示されているので、用語の整理を行っておくと便利だろう。

01.観念(idea): 特に説明は不要であると思う。我々が常日頃、この訳語で知られる意味とそう大差はない。ただし、ロックにおいては人間の知性が観念を得る場合(正確には単純・・観念)、2つのルートがあるとされる。一つが感覚であり、もう一つが内省である。また、人間が生まれながらにしてなんらかの観念をその心に印銘されているとするスコラ的議論をロックは否定する。そこで唱えられるのが、著名な「ぬぐわれた書板(タブラ・ラサ)」であり、近代認識論の文字通りの出発点となる。
02.感覚(sensation): 感覚とは、我々の感官によって得られる別個の (可感的)事物に対する外的な・・・覚知のことである。
03.内省(reflection): 内省とは、我々の心の様々な作用に関する内的な・・・覚知である。また、感覚、内省、いずれにおいてもそれらによって初めて知性は観念を持ちうるゆえに、これらの前では知性はただただ受動的・・・にならざるを得ない。

04.単純観念(simple idea): この感覚と内省によってのみ得ることができる観念が単純観念であり、それは、ロックの言葉を使えば、「心での一つの均質な現象態ないし想念」(p.84)である。特に内省によってのみ伝えられる単純観念には知覚(⇒07, 15)と意志(⇒16, 23, 24)という心の機能(力能)がある。また、両方によって得られるその他の観念として、ロックは快苦(⇒22)、存在と単一、力能(⇒15, 23)、継起を挙げる。
05.一次性質(primary quality): 物体のうちに存し、それからまったく分離されえず、ふだんに保有するような性質。本原的性質とも。このような性質が我々のうちに、固性、延長、形状、運動あるいは静止、および数のような単純観念を生む。
06.二次性質(secondary quality): 一次性質のように直接的、あるがままではないが、確かに物体に備わり、特定の方法によって我々の感官に間接的に作用する性質。可感的性質とも。例えば、熱さと寒さなど。物体の性質にはもう一つ、第三の物体に働きかけて、我々の感官に作用させうる媒介的性質があり、それは力能と呼ばれる。

07.知覚(perception): 知覚は、人間の知識への入り口となる心の機能であり、内省によって得ることができる観念である。思考(一般)とも呼ばれる。
08.把持(retention): 把持とは、感覚もしくは内省によって得られた単純観念を保存しておくという心の機能である。これには2とおりあって、一つが「心にもたらされた観念をしばらく現実に眺め続ける」(p.96)観想(contemplation)であり、もう一つが「心に印銘されたのち消えてしまった…観念を心にまた再生する」(同)記憶(memory)である。
09.識別(discerning)・比較(comparing)・構成(composition)・拡大(enlarging): 上記以外の心的作用とされるもの

10.複雑観念(complex ideas): 簡単に言えば、単純観念を材料として、心の能動的な機能によって生み出される単純観念以外の観念である。それには、様相実体関係の3つの種類が存在する。
11.様相(modes): 様相とは、複合された観念としての実体に依存する性状と考えられる観念であり、単純様相(⇒14)と混合様相(⇒18)がある。
12.実体(substances): 様相が存する実体とは、「自分自身で存立する別個な個々の事物を表象するするとされるような単純観念の集成であり」(p.99)、それを超えて想定された・・・・・、もしくは混乱した・・・・観念のこと。より具体的には、その集成を別個の単純観念のように認識する際に想定された基体。
13.関係(relations): 関係とは、観念相互の比較から得る複雑観念のこと。例えば、原因結果の関係がその第一の例としてあげられるが、これが複雑観念であるとされるところから、我々の日常における因果関係とは蓋然性を超えるものではない・・・・・・・・・・・・・との認識がロックにある。ここに、人間の可謬性に対する彼の理解が端的に現われているともいえよう。その他の関係としては、同一性・差異性、比率関係、自然関係、制定関係、道徳関係(⇒24)が挙げられている。

[様相について]
14.単純様相(simple mode): 単純様相としては、空間と時間に関する諸観念(距離、延長、果てしなさ、形状、場所、持続、永遠)や、数と無限、運動、音・色などが挙げられている。また、ここで、デカルト的な延長概念が批判されており、それを物体と同一視する考えを否定し、あくまでも延長とは「固性ある凝集部分の末端相互間に横たわって、これらの部分で得られる空間だけを意味する」(p.101)とされる。なお、単純観念である、思考(知覚)、快苦についても、単純様相が存在する。思考の単純様相には、憶起(remembrance)・想起(recollection)・観想(contemplation)があり、快苦の単純様相には、情緒と呼ばれる諸々のもの、つまり愛や憎しみ、欲望、喜び、悲しみ、希望、恐れ、絶望などがある。
15.力能(power): 本文ではこのタイミングで力能について一節が割かれている。力能には2つあり、ある事物に変化させられる・・・・・可能性と変化させる・・・可能性に対応して、それぞれ受動的力能、能動的力能と呼ばれる。前者は主として感官を通して(感覚)によって知られ、後者は内省によって得られる。また、能動的力能こそが力能という言葉の本来的意味であるとされる。そこで、このような力能のうち、我々の心に備わるものに、意志知性があり、またこのような力能が関係する働きとして我々に存する観念が、思考運動である。
16.意志(will): 意志とは、端的に言えば、心における選択と命令の力能であり、例えば身体のある動きを行ったり、抑止したりする場合にこれが働く。そこで行為の前にこのような意思が存在する場合を有意的(voluntary)と呼び、ない場合を無意的(involuntary)と呼ぶ。なお、自由意志に関する議論がこの後半でなされることになるが、それについては後述する(⇒23)。
17.知性(understanding): 知性とは、知覚(⇒07)する力能とされる。
18.混合様相(mixed modes): 混合様相は、異なる種類の単純観念が文字通り混合して、一つの複雑観念をなすように複合したものである。この場合、心は能動的力能を行使し、「多種多様な複雑観念を、これが自然にもそのとおりいっしょに存在するかどうかを検討せずに」(p.119)作り出す。

[実体について]
19.偶有性(accidents): 基体たる実体に備わった、我々の心に諸々の単純観念を生み出す諸性質のこと。

ここで、実体の内部構造は不知の本質とされ、実体とはあくまで単純観念のさまざまな集成であるとされる。ここから、ロックが普遍的実在を認めない唯名論者に限りなく・・・・近づくことが明らかになるであろう。たとえば、ロックにとっては精神および物体の実体は不可知とされ、そのように想定された実体に備わる一群の諸性質が我々に一つの実在として思わせているにすぎない。そのような諸性質とは、物体においては、「固性を有し、それゆえ分離できる部分の凝集と、衝撃によって運動を伝達する力能」(pp.120-121)であり、精神においては、「思考と意志、すなわち思惟によって身体を動かす力能およびその帰結の自由」(p.121)であるとされる。

20.観念の明晰性・判明性・実在性・真理性・十全性: それぞれについて、単純観念、様相、実体、関係に分けて考察される。この中の実体に対しては、いずれの項目においても唯名論の立場から否定的な評価がなされる。
21.観念連合(association of ideas): ロックにおいて観念連合は反理知的な「気の狂い」(p.133)として厳しい評価が下されている。「観念のこうしたつよい連結は自然に結ばれず、心がひとりで有意的もしくは偶然に作」(同)り出すものであるが、これこそがまさに「哲学や宗教の諸派の融和しない対立を確立する」(p.134)ものなのである。

また、この第2巻において政治思想上重要と思われる事柄について次に確認しておこう。

22.快苦の様相と意志の関係: ロックにおいては、我々のうちに快を産むものが善とされ、苦を産むものが悪とされる。ここに功利主義の原型を見出しうることは明らかであろう。そして、人は苦すなわち悪より、快すなわち善を求める存在である。しかし、人の「行動に関して意志を決定するもの・・・・・・・・・」(p.114)は善そのものではなく、「人間が現在置かれているある落ちつかなさ…なのである」(同)。この落ちつかなさは欲望と呼ばれる。これは、プラトン的エロースをより人間的な(功利的な)次元で捉えたものだと言える。
23.力能と自由意志: ロックの自由意志論をその記述に従って表にまとめてみると以下のようになるだろうか。
ロックの自由意志論
ここで、人間が・・・自由(liberty)であるとされるのは、@の場合、つまり人が意志した行動がそれに続いて起こりえた場合であり、自由でないのはその反対、すなわちAの場合である。これをロックは必然性(necessity)と呼ぶが、この表からも明らかなように必然性と意思は両立する。だが、ここで言われているのは人間の自由であり、意志の・・・自由ではない。そのため、ロックは意志が自由かどうかを問うた古代の自由意志論はそもそも誤った問いの立て方であったというのだ。彼は言う、
意志すること、いいかえれば有意とは一つの行動であり、自由は、行動したりしなかったりする力能に存するから、ある人の力能のうちにある行動が、即座に行われるものとしてその人の思惟にひとたび提案されれば、意志すること、いいかえれば有意の働きに関して、その人は自由であるはずがない。してみると、現に行われている行動が提案されるときは、すべて意志しないわけにはいかないから、意志する意志しないの自由は人間にない、この点は明白である(p.113)
自由とは自らの行動の存在・非存在を左右する力能の有無に関わるものであるから、その意味では意志(という一つの行動)はその存在・非存在を左右されることはない。より正確に言えば、人は意志に対して触れ得ない・・・・・というべきであろうか。すなわち、人がある行動を意志するとき、他人がその人の自由を奪おうと思えばその意志ではなく行動を妨げることしかできない。これは、意志する当の本人にとっても同じである。だからこそ、意志に自由はない、ということになる(いまいちこの理解に自信がない…)。ただ、もしそうだとすれば、ロックは意志が自由であるかどうかということと、意志がそもそも何に由来しているかということを別の次元で論じていることにならないだろうか。自由な意志がないと我々が言うとき、それは意志が自らに由来しないとき(自らの内の何に由来するのかはここでは置くとして)である。それについては、既述のように、ロックは欲望を意志の決定要因としてあげている。しかし、ロックの考えからすれば、自由の有無はその存在・非存在に置かれていて、意志が何に由来していようとも無関係である。ただ、これをホッブズのように意志を生理的現象に還元しようとする決定論的立場と解釈すれば、そもそも従来の自由意志論争における立場と変わらなくなってしまう気がするのだが…。

24.道徳関係と三種の法: 道徳関係とは、「行動について判定する規則との合致もしくは不一致」(p.126)の観念とされる。そこで、ロックはその規則にあたる3種の法を提示する。神法、市民法、世論ないし世評の法がそれである。ここで3番目の世論の法とは、それによって人が自他の徳性を判断するものであるが、スミス的な同感や公平な観察者の概念に通じるものなのであろう。注意しておくべきは、ロック自身はこれらの法に必ずしもスコラ的な序列を明確にしておらず、それぞれがそれぞれの方法によって人に対して道徳的尺度を与えていることである。更に、ロックには快苦という功利的な善悪の判断基準が設けられていることも忘れてはならないであろう。ホッブズにあってもそうだが、神法・自然法のような超越論的視点と人の快苦や自由という人間学的視点を整合的に理解しようとする試みはどうしても困難に陥らざるを得ない。

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ロック流の自由意志論解釈の理解にかなり手間取った。。。第2巻のあと、言葉についての論考(第3巻)と、真知・臆見についての論考(第4巻)が続いているが、これらについてはまた今度。。。といっても、はっきり言って全然やる気は起きない。。。
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2008年02月24日

プラトン『饗宴』

プラトン(久保勉訳)(1952)『饗宴』岩波文庫

まず、この中期対話編の諸特徴を訳者の序説に従って書き出しておくと、
* 智慧の愛求フィロソフィアにおける原動力としてのエロス
* プラトンにとってエロスの別名たるソクラテスを範とする教育・教養論
* 師ソクラテスを全人格的に描き出すことによる彼への讃美(『パイドン』との対照性)
* 戯曲家プラトンにおけるその著作活動の芸術的極致
となるだろうか。

あと序説で気になったところとして、エロスを理性に本来備わる一種の情熱としてとらえるところから、プラトンを単なる主知主義者として捉えることの誤りを指摘する訳者の言を挙げておく。

で、本編だが、これも興味深かったところを抜き出すだけにしておこう。

* 「…無知者もまた智慧を愛求することもなければ、また智者になりたいと願うこともないのです。…すなわち自ら美しくも善くもまた聡明でもないくせに、それで自ら充分だと満足していること、ちょうどその事に: ですから自ら欠乏を感じていない者は、自らその欠乏を感じていないものを欲求するはずもありません」(p.110): 智慧者(神)と無知者(人間)の中間としてのエロス(神霊)に関してディオティマが語ったことから。

* 「私達はまずエロスの中からただ一定の種類だけを取出し、それからこれに総括的な名前を附けて、愛と呼び、その他の種類には別の名前を用いているのですから」(p.113): 古代ですらそうであったのだから現代にその純然たる意味を求めるのは無理というもの…。

* 「ソクラテスよ、本当のところ愛の目指すものは、貴方の考えるように、必ずしも美しいものとはかぎりません。…(それは)美しい者の中に生殖し生産することです。…(なぜなら)滅ぶべき者のあずかり得るかぎり、生殖が一種の永劫なるもの、不滅なるものだからです。」(p.117): 多少強引に圧縮したが、その生殖・生産の正しいプロセスが次のように語られる。

* 「それはすなわち地上の個々の美しきものから出発して、かの最高美を目指して絶えずいよいよ高く昇りに行くこと、ちょうど梯子の階段を昇るようにし、一つの、、、美しき肉体から二つの、、、へ、二つのからあらゆる美しき肉体へ、美しき肉体から美しき職業活動へ、次には美しき職業活動から美しき学問へと進み、さらにそれらの学問から出発してついにはかの美そのものの学問に外ならぬ学問に到達して、結局美の本質を認識するまでになることを意味する」(p.126): このようにエロスとはまさに愛される者の全人格的教育に向けれられた愛する者の情熱である。そして、前者はその終局において「美のイデア」に与かることが可能となるのである。

* 「しかし僕はかつてそれを見た、そうして僕にはそれが非常に神々しく、黄金のごとくに、また限りなく美しくかつ驚嘆すべきものと見えた、その結果僕は、ソクラテスの求めることなら何でもただもう実行せずにはいられなくなったのである。」(p.138): ソクラテス賞賛演説におけるアルキビアデスの言、というよりもプラトン自身の言とすべきであろうか。エロスを神ではなく神霊ダイモーンとし、このような熱狂的とも言える追従者を一部に得ていたことが、かえってソクラテスの死期を早めることとなったと言うことができよう。

最後に、訳者の久保まさるについて。ググってみた限りではそれほど多くの情報を得られなかったが、元東北大学教授(古代言語、西洋哲学史)。かつて東京帝大で教鞭を執ったラファエル・フォン・ケーベルの門下生であり、ケーベルの晩年、久保は10年にわたり起居を共にしたそうだ。ケーベルについては、夏目漱石や和辻哲郎も文章を残している。また他の門下生には、京都学派の田辺元などがいる。

ttp://hensan.archives.tohoku.ac.jp/news/kiji3.htm

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ルビを使ってみた。うーん、かえって見づらいw フォントサイズを最大にしてみてくださいw
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2008年02月15日

川添美央子「自由意志論争におけるホッブズの二つの視座」

川添美央子(1999)「自由意志論争におけるホッブズの二つの視座―ホッブズ政治神学研究への序」『法学政治学論究』40, pp.143-180.

前回と同じ著者の一つ前の論文。この論文の課題は前回でも示されたような自由意志論におけるホッブズの2つの視点(観察者の視点と行為者の視点)から、これまでの研究において重要な争点となってきた彼の理論の非一貫性をいかに捉えうるのか、それに何らかの示唆を与えることである。

まず、関連するホッブズの著作は以下の通り。

『自由と必然(1654)』(Of Liberty and Necessity.)
これに対するブラモールの批判に答えたのが、
『自由・必然・偶然に関する諸問題(1655)』(The Questions concerning Liberty, Necessity, and Chance.)

以下まとめと参考文献。

* 理論の非一貫性に関する先行諸説
-ワーナム: 人間像の変化、自然法の受容
-ライリー: 義務そのものの正当性、同意と意志/Riley, Patrick. "Will and Legitimacy in the Philosophy of Hobbes: Is He a Constant Theorist?" Political Studies. 21.4(1973): 500-522.
-ペノック: 機械論的に同意された自然法に対する違反
-伊豆蔵: シュトラウスに倣ってのホッブズ的人間における二つの自然/伊豆蔵好美(1993)「ホッブズにおける<人間の自然>」『哲學雜誌』108(780), pp.39-53.
-福田: (機械論的)自然人としての人間と社会関係において初めて成立する人間の情念をつなぐもの

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* 今回の筆者による分析視角: 以下の2つの視点の食い違いにスポットライトを当てて、上記の矛盾を浮き彫りにし、その理由も検討する
-観察者の視点→行為後、(生理的に導かれる)欲求・必然性
-行為者の視点→行為前、道徳的主体の存在、自然法に従う主体
-吟味項目: (二)物理的自由・(三)強制からの自由・(四)熟慮前の自由・(五)義務論
-以上の検討から浮かび上がってくるホッブズの自由意志論とはどのようなものかについて(六)

半沢孝麿(1998)「ヨ-ロッパ保守主義政治思想の三類型(上)・(下)」『思想』889, 4-33, 891, 116-136.

(二) 観察者の視点
まず、ホッブズの著作において最もよく示される物理的自由概念を基に、典型的な観察者の視点とはどのようなものかがされる。以下まとめ。

-形而上学的・超越論的決定論: 神は我々の意志を「生みだす」
-神の命令=原因(必然性)の集積: 「現存しているもので、それ以降の行為の産出に至らせるものの全て。一つでも欠けていれば、結果が生みだされないものの全て」(引用, p.149)
-この場合の「自由」:@「運動に対する外的障壁の欠如」・「もし意志すれば私は為せる」; A無生物にも当てはまる→物理的自由(スキナー)というネーミング

* この物理的自由とその他の自由の関係についての先行諸説
-ワーナムの捉え方: 選択の自由・義務の欠如・強制の欠如・外的障碍欠如(物理的自由)→最初3つは「すでに意志があるということが前提となっていない」(引用, p.151)
-ブレット(⇔スキナー)の捉え方: 自然的自由=「自分の力を自分の意志にそって使う」(p.152)・ローマ法学におけるユス(ius)の伝統/Brett, Annabel S. Liberty, Right and Nature. Cambridge: Cambridge UP, 1997.
-スキナー(⇔ワーナム)の捉え方: ネオローマ(古典的共和主義)理論(内乱の原因としてのコモンウェルスの自由) vs. ホッブズ・個人の物理的自由→その他の自由概念は単なる比喩/Skinner, Quentin. Liberty before Liberalism. Cambridge UP, 1998.

(三) 強制からの自由
ここから具体的にそれぞれの自由概念についての考察がなされる。
ただ、ちょーっとわかりにくかったので図を用いて整理してみた(要クリック)
ホッブズの「強制からの自由」概念

この図は、ホッブズの(公式的な)決定論的立場における強制の解釈を示す。ホッブズにおいては強制かそうでないかは恐怖を意志の原因とするかそれ以外(愛・復讐心・欲など)かを意味する。従って、強制からの自由はありえるものの、必然性からの自由は決してありえない。強制であってもなくても、結局は一定の行為に導かれるからだ。その意味で、この図は観察者の視点から描かれていることになる。

しかし、ここからが少し話が面倒になってくるのだが、ホッブズはテキストのある部分で、この考えと矛盾するような「選択」の概念を持ち出す。「選択には決して強制とも必然性とも対立するものではない。例えばある人が、敵に屈服するか死ぬかという具合に強制された時、敵には依然としてどちらがより耐えうるかを考える、熟慮と選択が残されているのからである」(引用, 強調はta, p.154)というのがそれだ。すると、ホッブズは恐怖を引き起こす事態を前にしても選択が可能であると考えていることが理解できる。そうであるならば、意志の原因が恐怖かそれ以外かを問うことは無意味になってしまわないか、という疑問が発生する。これは明らかに行為者の視点からしか説明できないものなのである。なぜホッブズがこのような表現をしなくてはならなかったか、筆者によれば、それは恐怖によって引き起こされた(すなわち、強制された)行為であっても、その結果に対して道徳的責任を帰さしめる必要があったからだ。(ホッブズは強制(compulsion)と比較して、力による無理強い(force)は免罪の対象となるとしている。これに対して、ブラモールはそのような区別を設けず、必然的(be compelled)である場合には免罪されるとしている)

(四) テニスコートの自由
テニスコートの自由とは熟慮終結前の自由を意味する。ホッブズは以下のように言う。「随意的な行為者について、彼が自由であると述べるのと、彼は熟慮を終結していないと述べるのとは、まったく同じことである」(引用, p.160)このネーミングはブラモールの批判から来ているが、彼はホッブズの物理的自由とテニスコートの自由が同時に両立し得ないことを指摘する。その結果、ホッブズのテキストには明らかに行為前(テニスコートの自由)と行為後(物理的自由)という異なった視点からの自由の定義が存在するということになって、一貫した自由概念は失われることになる。そしてこの後、先ほどまでと同様に、いかなる場合に公式の立場とは異なった、テニスコートの自由が必要とされるのかが考察されている。その中で、この2つの視点が、同じ決定論的な立場をそれこそ2つの視点から見たものなのかが吟味されるが、結果的にはそれが誤りであることが明らかにされる。

(五) 義務論
ここでは法・罰・罪という概念が、やはり一貫した視点(つまり、観察者の視点)から説明がなされていないことが指摘される。まず、法を正当化を得るためには人民の同意が必要であることがホッブズによって明らかにされているが、同意を与えるためには主体的な行為者を仮定しなければならず、それは法と行為の関係、法の機能の仕方についてのホッブズの言葉においても同様である。これ対して、罰は論理的な観点から観察者の視点を持ち出さざるを得ないとされる。なぜなら、自己保存が至上命題とされるホッブズ的人間にとって進んで罰を受けることはありえないからだ。最後の罪に関しても同様の視点から論じられる。なぜなら、「(法のように)人間が約束や計画でつくり、正義の名で呼ぶものは、…行為者の視座からしか正当化できず、逆に(罪のように)神の正義は人間の能力による正当化が及ばない」(p.173-174)からである。

(六) ホッブズの自由意志概念?
ここまでの議論で、ホッブズの自由意志論においては一貫性を見出すことが非常に困難であることが明らかになった。ならば、行為者の視点から伺えるホッブズの自由意志の概念とはいかなるものであるのだろうか。筆者によれば、それは「恐怖に拮抗しうる能力であり、刺激への単なる受動的反応ではなく名辞付与・言語操作に基いて行為する能力」(p.174)とまとめられる。

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今回も結局時間がかかった…orz
脳みそのスペックを10倍にしたい…
posted by ta at 04:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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