2009年06月18日

福武「社会科学と価値判断」 / 三笘「福武直とWertfreiheitの意味」

福武直(1975)「社会科学と価値判断(1949)」『福武直著作集 第一巻』東京大学出版会, 197-327.

福武はまず「価値判断排除」にまつわるヴェーバーの主要文献ならびに学会報告、そして、その立場をめぐって発生した二つの論争―ウェーバーの「客観性論文」に端を発する旧論争(1904-)と存在論的価値の客観性を主張するゴットル派との間でかわされた新論争(1935-)―を概観する。その中で、「価値判断排除」の立場が、似而非論者らに濫用されることによって、もたらした悲劇的結末が以下のように語られている。
価値判断の排除は、その抽象性の故に不毛となると共に、この排除自体が全体性なる価値判断に化するのである。…「価値判断排除」は、時代的状況の故に(引用者注・シュモラーを総帥とする講壇社会主義者に対して)その勝利を確保したが、それが峻烈なウェーバーの論理的分析と誠実無比な彼の人格に根ざす知的廉直を離れるとき、その帰結は概ねこのようなものであった。その亜流に於いては、「価値判断排除」が、ウェーバーの排した中立的全体的なものになり、更にいつかは、この全体にひそむ内実を隠蔽する道具にまで成下ったのである。そしてこれは、ナチスの足場として利用されると共に、それに対する抵抗を示しえなかったのであった。(p.304)
ちなみに、ゴットルの主張はディルタイやハイデガーにその哲学的根拠を求めておりなかなか興味深い。彼は嘗てヴェーバーの追随者であったが、ヴェーバーが「神々の闘争」と表現した個人主義的な世界観対立(観念論的価値判断ideologische Werturteile)を、そっくりそのまま社会形成体soziales Gebildeとして包括し、存在論的価値判断ontoligische Werturteileを主張するに至った。(pp.310-311) この後、福武は「価値判断排除」に対する典型的な7つの批判を列挙する。(pp.312-317)

@ 「価値判断排除」の要求の相対性⇔真理の価値という(論証不可能な)必然的前提
A 社会科学における「主体と客体」の一致(ヴェーバーの自然科学主義的偏向)⇔「価値判断排除」要求を退ける決定的根拠とはならない
B 非社会科学的な現実逃避(現実に対する傍観的無関心)⇔ひとつの人格における経験的認識と実践的価値判断の区別と共存の両立
C 「価値判断排除」要求のブルジョア自由主義的偏見⇔無党派的な客観性
D 方法論的可能性と事実的可能性の不一致(要求の実際的な困難さ)⇔Du kannst, denn du sollst!
E 材料選択における不可避的な価値判断の隠蔽⇔ヴェーバーによる自覚、悪用に対する自省
F 前提としての世界観の不可避性(ヴェーバーにおける自由主義・個人主義・民主主義)⇔科学者の主体的態度としての「価値判断排除」要求、自らに都合の悪い事実をも認める知的廉直という徳

@のために、ヴェーバーはこの要求を「時代の要請」や「宿命」としてしか語りえなかった。CとFについては、先の折原解説(〈自己責任〉と〈責任倫理〉に堪えうる個人、p.200)からも疑いを差し挟めないであろう。Eも良く言われることであるが、「価値判断排除」を決定的に不可能ならしめる批判ではない。福武は、これらすべての批判に対してヴェーバーを擁護するわけであるが、他方でその適用範囲を科学者の主体的態度に限定する。そして、ヴェーバーの厳格すぎる禁欲的態度を超克することを試みるのである。具体的には、「マンハイムの「相関主義」による「没価値的イデオロギー論」の超克であり」(p.439)、ヴェーバーが「曖昧模糊」たるままに止めた、存在の根底的なるものの性格(「存在拘束性」Seinsverbundenheitの問題)を彼は問いなおそうとする。(p.318-319) この点について、福武は以下のように論じている。
ウェーバーの根本的立場は、マルクスのように資本主義の中に「自己疎外」を認め「人間の解放」を求める立場と異り、資本主義社会の「合理化」を理解する立場であった。しかるにわれわれは、この「理解」を超えて、それを「批判」し、「変革」する立場に進まねばならない。かくして、「価値判断排除」は、ここに見捨てられる。(p.321)
明らかにマルクスに偏向したこの姿勢が、彼が口を極めて批判した「価値判断排除」の悪用と結局どれほどの違いがあるのか、理解に苦しむところであろう。(p.325を参照) 特に「価値判断排除」を科学者の主体的態度に限定する解釈について、かつての教え子である徳永恂がその解説で批判している。彼は、このような解釈がヴェーバーにおける倫理と科学の緊張構造を失わせしめ、その結果福武が「倫理主義的一元化」(科学者の主体的態度としての消極的一元化)に陥っていると指摘する。戦後、Wertfreiheitに「価値判断排除」という消極的な訳語を充てるようになったのも、この指摘と無関係ではないとも言う。福武は、自らの理想として「広義のヒューマニズムとデモクラシー」への進歩という「最低綱領」(p.324)を掲げたが、その方途として「マルクスによってすべてを割り切ること」なく「マルクス的な立場に立つ」(p.325)ことを選んだのは、時代性とはいえやはり疑問といわざるを得ない。むしろ、折原が「客観性論文」の解説で論じたように、近代化の運命の中で「〈自己責任性〉と〈責任倫理性〉に堪えうる個人」を生み出す方が、福武の理想により近づけるのではなかろうか。このようなマルクス主義的一元化の観点から、もう少し詳細な批判を行ったのが以下の三笘論文である。

三笘利幸(2008)「福武直とWertfreiheitの意味―科学と実践のはざまで(宮澤誠一教授退職記念号)」『教養研究(九州国際大学)』14(2・3), 55-75.

三笘(みとま)は上掲の著作集第一巻に収められた諸論文をベースに、戦中戦後にかけての福武の学術的な軌跡を追い、その一貫しつつも矮小化されたWertfreiheit解釈を批判する。

戦中に関する記述で、特に興味深かったのは以下の部分。
福武は「没価値性判断」(注・戦前はこのような訳語を充てていた)を、科学が「経験的事実を確定する」ことに限定して(注・つまりは科学者の主体的態度に限定する、ということ)解釈した。さらに彼のマルクス主義という立場のアプリオリな「優越性」が加わることによって、国策という「実践的要求」に直截関わる調査にも自己撞着を起こすことなく向かうことができたのだろう。すなわち、時局に流されず、マルクス主義の立場を堅持しながら、「没価値判断性」にしたがって調査を行っていけば、その調査がどこからの依頼であれ、それとは独立に「真理」を探求することができる、こういう確信が福武にはあったのではなかろうか。いやむしろ、福武はみずからが身を投じた調査が、国策にかかわるものであることを十分承知し、それを逆手にとろうとしたのかもしれない。つまり、科学によって実践を教導するという福武のもくろみをまさに実践にうつすために、あえて興亜院や大東亜省といった日本の中国あるいはアジア侵略の国策機関の調査にかかわり、そこで「真理」をあきらかにしてその誤りを正すということをねらったとも考えられる。(強調は原文どおり、pp.65-66)
たとえそのような目論見が隠れていたとしても、このようなWertfreiheit解釈は、彼の事実報告が結局ゆがんだ国策のために利用される可能性に無反省になる大きな要因ではなかったか、と著者は付け加える。ただ、戦後の「価値判断排除」と比較したときに、基本首尾一貫しつつも、微妙な姿勢の変化が垣間見られることになる。
戦中期には「実践的要求」から科学の独立とみずからの立場を守るため、科学の大前提として「没価値性判断」を保持するというところに力点を置いた。それが、戦後になると依然「科学者の理想」として「価値判断排除」を大前提としながらも、みずからの立場を実践的・政策的課題へと積極的に関わらせるために「価値判断排除」論は最終的に「見捨てられるもの」とした。戦中から戦後に一貫した福武の思想ではあるが、その力点の移動をみれば、福武にとって「没価値判断性」「価値判断排除」が、彼の「科学の独立」と「科学による実践の教導」とを切り結ぶ位置にあったことがよりはっきり浮かび上がってくるだろう。この科学と政治(政策)という福武の志向を二つながらに成立させるためにこそ、「価値判断排除」は「科学者の理想」でありながら「見捨てられる」という一見パラドクシカルな意義付けをされることになったのである。(強調は原文どおり、p.69)
意地悪な言い方をすれば、首尾一貫していたといいつつも、戦中に(保身を兼ねて)都合よく利用し、戦後自らのマルクス的立場のために切り捨てたとも見えなくもない。いずれにせよ、彼がヴェーバーのWertfreiheitの意味を矮小化したというのは確かだろう。加えて、価値相対主義として福武に批判された「神々の争い」としてのカオスは、その本質において〈自己責任性〉と〈責任倫理性〉に親和的なリベラル民主主義というコスモスを要請しているという、折原‐三笘の立場に一層の説得力があると言わなければならない。
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ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』ほか

ヴェーバー(富永祐治・立野保男訳/折原浩補訳)(1998)『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」(1904)』岩波文庫
---(木本幸造監訳)(1980)『改訂版 社会学・経済学における「価値自由」の意味(1918)』日本評論社
---(尾高邦雄訳)(1936, 80)『職業としての学問(1919)』岩波文庫


これらを総合すると概ねこうなる。(特になんてことはないわけだが…)

価値自由

結局、価値自由自体の基礎付けが不可能であるがために、講演では凄みを利かして「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」としか語りえない。
(注・教壇上の予言に対して)このことからわれわれは、いたずらに待ちこがれているだけではなにごともなされないという教訓を引きだそう、そしてこうした態度を改めて、自分の仕事に就き、そして「日々の要求」に―人間関係のうえでもまた職業のうえでも―従おう。このことは、もし各人がそれぞれの人生をあやつっている守護神(ダイモン)をみいだしてそれに従うならば、容易にまた簡単におこなわれうるのである。(『学問』、p.74)
魔術から解放された近代合理主義が、その根底ではひとつの信仰によって支えられていることを忘れるべきではないだろう。ちなみに、「客観性論文」の折原解説は親切すぎるくらい親切。

ヴェーバー(清水幾太郎訳)(1972)『社会学の根本問題(1922)』岩波文庫

また図にしようと思ったが、面倒なのでやめた…。
キーワードは、方法論的個人主義と意味の主観性。
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2009年06月15日

ネタニヤフ

"Netanyahu endorses Palestinian independence"
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/06/14/AR2009061400741.html

Erekat said Netanyahu's plan was unacceptable since it effectively imposes a solution on the core issues of the conflict.

"Netanyahu's speech closed the door to permanent status negotiations," he said. "We ask the world not to be fooled by his use of the term Palestinian state because he qualified it. He declared Jerusalem the capital of Israel, said refugees would not be negotiated and that settlements would remain."
速報で配信されてきたので何事かと思いきや、総論賛成、各論反対では、リップサービスにすらなっていない。たとえ気に食わなくとも、オバマの呼びかけを無下にはできないといったところか。
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2009年06月11日

橋爪『「心」はあるのか』

橋爪大三郎(2003)『「心」はあるのか (シリーズ・人間学@)』ちくま新書

「心の哲学」ならぬ「心の社会学」。ただし、著者があとがきで指摘するように、本書で言う「心」が現代哲学が対象とする心(mind)と位相を異にする「日本ローカルな問題」であることに注意する必要があろう。そこで用いられる方法は言語ゲームである。ゆえに著者は自らの専門を「言語派社会学」と呼称する。具体的には、心の非実在性を前提として言語ゲームから表出する二次的現象に心のあり方を求めるやり方である。
「心」は非対称なので、「心」を取り出すと自分の独自性が言えたような気になりますが、実はそれだけでは無内容です。それは誰でも、同じようにできるからです。「心」とは、「心」そのものとしては答えられないのではないか。むしろ、そういう問いを生み出した社会的文脈や社会的背景を理解していくときに、別の問い(たとえば、社会学)のなかに回収して答えられるしかないのではないか、というのが私の予想であり、提案です。(p.183)
試みとして一理あるし、物理主義云々といったような哲学的に込み入った話よりも正直実感がもてる。詳細は『言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』(勁草書房、1985)にて。
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内村『基督信徒のなぐさめ』

内村鑑三(1939)『基督信徒のなぐさめ(1892)』岩波文庫

著者の無教会主義には大いに共感。それでいて Jesus(信仰)とJapan(愛国心)という2つのJを説く内村の神学‐政治観は、日本に特徴的なキリスト教受容のあり方として解されている。
「…彼の汝に尽くせしは汝より報を得んがためにあらず、汝をして内に顧みざらしめ汝の全心全力を以って汝の神と国に尽くさしめんがためなり、汝もし我に報いんとならばこの国この民に事へよ…」(p.26)
「第一高等中学校不敬事件(明治二十四年)」や非戦論を唱導したことから知られるように、その愛国心のあり方は無論国粋主義的なそれではない。
「如何にして愛国心を養成すべきや」とは余輩がしばしば耳にする問題なり…愛国心[は]自然に発達すべきものなり、義務として愛国を呼称するの国民は愛国心を失いつつある国民なり、…余は国を愛する人となりて、愛国を論ずるものとならざらんことを望むものなり。(p.29-30)
無教会主義の立場から、内村はプロテスタント諸派に同情的である。その際に用いられるメタファーは秀逸。
ああ幾干の無神論者は基督教信徒自身の製造に罹るや、余はかつて聞けり、無病の人をして清潔なる寝床の上に置きしかして彼は危険なる病に罹れる患者なれば今は病床の上にありと側より絶えず彼に告ぐれば無病健全なる人も直に真正の病人となると、人を神より遠からしめ神の教会を攻撃せしむるものは必しも悪鬼とその子供にあらざるなり。(p.42)

真正の信徒ありて教会あるなり、教会ありて信徒あるにあらず、信徒は自然に教会を作るものなり (p.48-49)
ただし、寛容を振りかざすことでかえって傲慢な態度をとる人びとには懐疑の目を向ける。
余は世に「リベラル」(寛大)なりと称する人が自己のごとく「リベラル」ならざる人を目して迷信と呼び狭隘と称して批難するを見たり、願くは神よ余に真正の「リベラル」なる心を与えて世を放逐せし教会をも寛宥するを得せしめよ。(p.55)
それでも、内村はなぜか仏教に対して単純な比較以上の厳しい言葉を時に投げかける。(当時の文化的背景に疎いのでその理由は分からないが)
基督もし名望法便を利用して民を教化せしならば如何、基督教は永遠まで人霊を救うの潜勢力を有する宗教にあらずして、仏教の今日あるがごとく早やすでに衰退時代に至りしならん、…法便を利用する浅薄なる仏教信徒と大差あることなし、基督は法便を退けて彼の信者たるものに単純正直の真価値を示せり (強調は引用者、p.67-68)

(注・自殺を否定する文脈で)基督教は貧者を慰むるに仏教のいわゆる「万物皆空」なる魔睡的の教義を以ってせず、基督教は世をあきらめずして世に勝たらしむものなり (強調は引用者、p.77)
本書は人間の生の究極的ななぐさめとは何か、という極めて困難な問いを現代の読者に突きつける。ただ、著者の言葉とて依然ルサンチマンから発する価値顛倒ではないのか、という穿った見方がどうしても抜けきれなかった。それらは、「事業に失敗せし時」「貧に迫りし時」において特に感じられた。
posted by ta at 21:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 文献レヴュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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