2009年06月11日

小田垣『キリスト教の歴史』

小田垣雅也(1995)『キリスト教の歴史』講談社学術文庫

著者の神学的立場のベースとなるのは主体的問題としての信仰である。
イエスはしばしば「譬え」を用いて弟子たちに話された。…譬えとは一意的言語によって論理的認識としてはとらえられない真実を伝えようとする文学型式である。たとえばわれわれが放蕩息子の譬えを読む場合…疑問を持つかもしれない。しかしその疑問に対する論理的解答がその譬えの中に潜められているのではない。そうではなくて、われわれがその疑問を…疑問とすることによって或る態度を自分自身でとる時に、イエスがこの譬えによって表現しようとしたことが伝わるかも分らない。言いかえれば、譬えが伝えようとすることは直接に伝達することが可能であるような客観的真理ではなく、主体的な真理であるということである。そして信仰とは常に主体的問題である。(p.47-48)
主体的真理に基づく信仰とは、哲学的に翻訳すれば、非実在論となろう。しかし、この立場は絶対普遍な神概念とどのように両立しうるのだろうか? このジレンマは、筆者が19世紀ドイツの自由主義神学を説明するときに先鋭化する。(旧―シュトラウス、バウア、新―リッチェル、トレルチなど)
もっとも、トレルチ(の比較宗教学―引用者注)は種宗教の中にあってキリストの絶対性を必ずしも否定していない。キリスト教は言わば歴史的客観的に絶対的なのではなく、キリスト教徒の確信の問題として絶対的なのだと言う。しかしこのことは、言葉の率直な意味でキリスト教は唯一の絶対的な宗教ではないということであろう。すなわち古来から主張されつづけてきたように、キリスト教は天地の創造主なる神の唯一の啓示たるキリストを信ずる唯一絶対の宗教であるとする理解は崩れ去ったのである。(p.205)
しかし、著者にとって中世的伝統への回帰が解決策にならないことも確かである。歴史的に客観主義がもたらした数え切れない害悪を鑑みればこれは当然の成り行きであろう。
…個性とか位格、本質というような概念がギリシア哲学の概念であってキリスト教本来のものではないことは不当ではない。しかし概念上の一貫性を厳密に求めようとすると、それらの概念によって表現しようとした事柄そのものに紛糾をもたらすことはしばしば起る。概念は事柄そのものではないからである。だからわれわれは、三位一体論とキリスト論という定式化された教義とか、それに用いられた概念が何を意味するかを問題にすべきであって、その論理性ないし非論理性に捉われるべきではない。(p.68)
それでも尚、著者が近代の有神論、特にイギリスの理神論をその根源において無神論的であると喝破する姿勢には共感を禁じえない。その点では行過ぎた合理主義的ヒューマニズムに対抗する自然宗教の主張とて同罪である。(pp.178, 183) 例えば、デカルトの本有観念としての神概念について、
…この場合問題は、デカルトにとって神が存在証明の対象となっていることである。これは思考の前提とされている神とは根本的に違う。神をも人間が証明しようとする場合、思考の前提としての神は言わば退場する。近代哲学の有神論は、思考の方向が逆転された後、「下から」の人間の思考に捉えられた神になる。その意味で近代は、基本的には無神論的時代であると言える。このことは啓蒙時代以降のキリスト教を考えるに当って強調しすぎることはない。この問題をいかに対処するかということが、近代および現代のキリスト教の根本的なテーマとなるからである。(p.165-166)
ここから、著者は中世的伝統と啓蒙主義というゼロサム的構図を超えた次元を模索しようとする。その端緒となるのは、逆説としての啓示理解に基づいたキルケゴールの実存主義である。著者はさらにニーチェについても好意的に論じているが、キルケゴールと比べれば多少楽観的な印象は否めない。ただ、これらの実存思想が教会の束縛から個々人の信仰の主体性をとり戻し、客観主義という夾雑物を取り除くことになった(「本来的なキリスト教を引き出している面がある」、p.224)、という認識については理解しうる。

最終章で、筆者は人知の徹底的相対性というポストモダン的状況にあって、「いかに神を語れるか」をあらためて問う。
現代神学の古典時代、すなわちバルト、ブルトマン、ティリッヒの時代には、人々はまだ神を語っていた。たとえばバルトは神は絶対他者であると語った。ポスト・モダーンの時代は、それもまた相対的な人間の言葉にすぎないと考える。このような状況を受けて、現代、神の死の神学、解釈学的神学、解放の神学、プロセス神学、フェミニスト神学、脱構築的神学等、さまざまな試みがなされているが、これらの神学は、この人間の知識の徹底的相対性という状況にいかに正確に対応するかという規準によって、次第に整理されていくだろう。(p.252-253)
無論これらはいたっておおざっぱな言及に過ぎないが、同時に著者は「自己の信仰が多くの中の一つ、つまり相対的なものだということに甘んずるのは宗教の自殺である」(p.253)と断じている。そうであるからこそ、「自分の立場は絶対的でありながら、その絶対性についての主張を超える水準」(p.254)を追究しなければならない。西田の絶対矛盾的自己同一やハイデガーの無の哲学が直後に論及されるのもそのためである。
近代合理主義におけるような人間の自己中心主義は、宇宙の全体性から見れば一つの仮構であり、虚構であることは、キリスト教はもとより、およそ宗教というものの本質的自覚である。信仰と言い、覚と言っても、それは結局その事実を諒解することに他ならない。自分が社会の中心ではなく、人間が宇宙の中心ではないという自覚が信仰であると言える。してみると近代の人間中心主義の矛盾が露呈している現代は、その非宗教的相貌にもかかわらず、きわめて宗教的な時代であると言えるかもしれぬのである。(強調は引用者、p.255)
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2009年06月07日

山脇『公共哲学とは何か』

山脇直司(2004)『公共哲学とは何か』ちくま新書

活私開公をスローガンに、前半は思想史的概説、後半は理論的に少し踏み込んで関係概念やイシューが俯瞰される。特に終章のテーマは著者の持論である「グローカルな公共哲学」。以下、抜書きとメモ。
結局のところこの運動(注・全共闘)は、戦後民主主義の否定者というより、戦後民主主義に甘えた鬼っ子が独り相撲を演じたという感じで、1970年代の新しい「民の公共性」運動の発展とあまり結びつくことなく終わったように思われます。(p.115)

ところで筆者は、日本で社会民主主義的な政党が伸びなかった大きな理由のひとつに、日本の野党におけるマルクス主義への無批判なスタンスがあったように思います。旧西ドイツの社民党は、1959年のバードゴーデスベルク宣言によって、マルクス主義と絶縁して新しい社会変革の論理を打ち出し、1970年代の長期政権を獲得したのに対し、日本の最大野党であった社会党では、依然マルクス主義の影響が根強く、そうしたドイツ社民党の働きを修正社会主義や改良主義と名付けて批判するありさまでした。(p.117)

実際のところ、「お粗末な左翼vsそれを叩く国家主義者」という、いまなお多くみられる図式は、国際的に通用しないへぼ試合以外の何物でもありません。そうした図式からは、かつて小楠が構想したような「国際社会における日本の役割」に関する積極的な展望など聞かれないでしょう。(p.126)
政治的な観点からすれば、保守党と社会民主主義政党(プラス独立系勢力)という健全な二大政党制を今日まで阻み続ける負の遺産。
とくに、フランスの一部でしか流行っていない思想を、あたかもドイツを含めたヨーロッパのメジャー思想と喧伝したり、単なる連想ゲームのような軽妙な思いつきの類をニュー・アカと称して売り出したりするような軽薄な傾向が顕著になりました。その結果、「思想のオタク化」が起こったのです。それに便乗して営利をむさぼった夜郎自大的な思想業界や思想評論家たちの無責任さは、日本の若者にゆがんだ知識を煽ったという点で、今日あらためて糾弾されてしかるべきでしょう。(pp.123-124)
著者のこういう言説はなかなか過激。今やネットの普及(匿名でなされる無責任な言辞には著者は価値を認めていないが、p.151)や市民講座の増加もあって、こういう内向きの思想受容は改善されてきているのだろうか。それとも、依然内輪で悦に浸っているだけだと批判されるのだろうか。

A・シュッツ(pp.130, 186)は過去に概説書で現象学的社会学者としてお目にかかったきりで詳しいことは何も知らなかった。ちなみに、シュトラウスと同い年。「生活世界」は実在する空間の存在論的基礎付けというよりは、個々人の超越論的視座の啓発というような側面があるために、「曖昧だ」という著者の批判はもっともなのかもしれない。
このような「公共的ルールにはめ込まれた市場経済」というリアリティを、主流派経済学の教科書が無視ないし軽視しているのは、実に奇妙なことです。いや、そうした市場経済のルールを無視した経済学教育は、社会の現実ではなく空想を教授している点で有害だといわざるをえません。(pp.180-181)
これには諸手を挙げて賛成。金融工学などもここで言われる空想のひとつだろう。

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パブリック・インテレクチャアルとしての自負心からか、web上での著者の発言はしばしば過激に。(リンクは少し古いけれども)

http://public-philosophy.net/archives/12
http://global-peace-public-network.hp.infoseek.co.jp/yamawaki1.htm

ネオコンとの思想的つながりという限定された観点からではあるが、シュトラウスを「古典的自然法を尊重する良質の伝統的保守主義者」として擁護しているのには少し驚いた。「民の公共」という著者の立場からすれば、本書で批判されていたウェーバーと同程度にシュトラウスの思想は縁遠いと思われるからだ。
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グラニエ『ニーチェ』/村井『ニーチェ』

J・グラニエ(須藤訓任訳)(1995)『ニーチェ(1982)』文庫クセジュ

ニーチェのための弁明書。とかく文末に感嘆符が多用される。特徴的なのは、ヘーゲルの位置付けだろう。グラニエは折に触れて、両者の思想的連環を確認する。キーワードは生成と弁証法的連鎖である。
ニーチェは二元論を替えるに、生成という理解方法をもってする。それは人工的に固定された対立関係をあらためて流動化し、絶えざる混淆によって現実的なものの動的な連続性を回復する。こうすることでニーチェは、ヘーゲルの考え方がもつのと類似した方向付けに自分がしたがっていることを意識しているし、…かれはヘーゲルの最も貴重な直観の一つ、つまり、硬直して惰性的な実体は存在しないのであり、いっさいは絶えざる変容であるという直観に対して賛同してもいるのである。…もし、テクストについて無知であるゆえにか、あるいはいたずらなコントラスト趣味に災いされてか、現実が生成する過程における否定の、より正確には、矛盾の、役割についてのニーチェとヘーゲルは一致しているということ、それゆえまた、「分割的悟性」がふけっている二元論を両者が共通して拒否しているということを黙過するならば、ニーチェ哲学に重大な毀損を被らせることになろう。(p.43)
訳者によれば、グラニエの念頭にあるのは、ドゥルーズのニーチェ読解(『ニーチェと哲学』)だそうだ。
…生成はまた、ニーチェの議論の運びがその基盤として弁証法的連鎖に助けを仰いでいることを明らかにするということ。この弁証法的連鎖は、その様式が疑いもなくヘーゲル的であることから、ある種の解釈者たちをまごつかせたものである。というのも、かれらは、ニーチェの考え方が総体的にみてヘーゲルのそれと対立するとはいっても、たとえば、弁証法や生成概念という点においては両者ははっきりと親和性をもち収斂するところがあるということを見ようとしないからである。(強調は原文どおり、p.70)
…僧侶の復讐意志がこしらえたその無を、ニヒリズムは神の死を宣言することによって暴き、哲学者の存在論的〈理想〉を覆すのであって、その限り、ニヒリズムはある種の明晰性を証している。とすればこの明晰性の動機が発見されねばならないだろう。遠くを捜すには及ばない、とニーチェは答える。それはまさに、〈道徳〉そのものの逆説的な内的運動のうちに見出されるのだ! と。その運動はきわめて正確に弁証法的な連鎖をなす。実際にここで問題となっているのは、「道徳の自己止揚Selbstaufhebung der Moral」(曙光序文四)である。(強調は原文どおり、p.74)
また、ニーチェは有益な誤謬という生のプラグマティズムの観点から〈節度〉の重要性をも説いているという。(p.83) そして、力への意思の概念的普遍化については、当然ながら「絶対的全体化という独断的価値を認めてはならない」(p.94)という留保が付け加わる。安易な政治的濫用(政治的ダーウィニズム)を戒めるためであろうが、しかし批判者の側からすれば、近代の平等主義に対する位階秩序の設定(デリダやドゥルーズなどの「軟弱な差異のアナーキズム」に対する批判、p.116)や「貴族主義的で強固に反国家的な社会組織形態」の擁護(p.119)に、どうしてもそれとよく似たにおいを嗅ぎ取ってしまうだろう。グラニエは、ニーチェが歴史においてこのような「大いなる政治」を現実化しようとは考えておらず、「哲学的思想の永遠の模範的一形象」(p.120)と捉えていたと論じているが、それならばニーチェが否定した独断論的形而上学と結局いかほどの相違があるのだろうか。

村井則夫(2008)『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』中公新書

同じ思想系でも、同時期に出版された堂目卓生著『アダム・スミス』(昨年度サントリー学芸賞)の陰に隠れてしまった感がある。本書は、語りえないものを語らなければならない(語りすぎている??)ニーチェのジレンマについてひとつの臨界点を描き出す。(自己同一的存在を前提としない生成についての語り[p.211ff.]や語り手そのものの永劫回帰[p.243]、「知恵」と「生」との間の嫉妬[p.270]など) 語られた内容よりも、エクリチュールの形態に着目することは、永井によって指摘された哲学的鈍感さを超えてニーチェを理解するとっかかりくらいは与えてくれるだろうか。(メニッポス的風刺あるいはメニッピアという周辺化されたジャンル[p.61]、永劫回帰の教師[pp.268-269]) 例えば、「序説」における綱渡り師と道化師のパロディ(pp.125-126)や三種の変化(駱駝、獅子、幼子)を「物語を否定する物語」として捉える議論(pp.141-142)、ツァラトゥストラと重力の魔(p.246)など。読み手の側は、矛盾だらけのニーチェの叙述において、いわば声にしえない声を聞き取らねばならないが、同時にそれをおおっぴらに喧伝することは許されない。(それでは単なる偶像崇拝に堕してしまう) しかし、それでもなお(未知の)未来には超人が座するわけであって、いかに同一化(本質化)を避けつつ、その決定的に非同一的な像を提示してゆけるのかはツァラトゥストラ(ニーチェ)にとって大きな苦悩となろう。(「形象不可能性の形象」pp.163-164) 本書で散見される諸々の絵画はおのずとそのようなロゴスの不自由さを指し示す。(「寓意化と擬人化」pp.176ff.) 内容としてはやや細かいが、『ツァラトゥストラ』の展開に沿って分析が進められていくので筋が追いやすく、部分部分の説明も平易なので、傍らにおいて原典に臨むのがよいのではなかろうか。
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2009年05月31日

小牧『カント』

小牧治(1967)『カント(Century Books 人と思想15)』清水書院

今さらだけれども。

『純粋理性批判』
かわいそうなカント! この最後の著作のためにカントがささげた努力は、かれの残されたエネルギーを、いっそうすみやかに消耗させないではおかなかった。ああ、天は、いましばらくの力を、カントにかすことができないのだろうか。カントのために、また人類の思想のために。(p.103)
これほど熱烈な思い入れが可能なのも、小牧が戦中を生き抜いた人間だからだろう。
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2009年05月30日

永井『これがニーチェだ』/三島『ニーチェ』

永井均(1998)『これがニーチェだ』講談社現代新書

掛け値なしに刺激的なニーチェ論。例のごとく、以下のような図にしてみた。(この時点で、哲学することを放棄しているようなものだけれど…) 第二、第三空間が点線なのは、「語りえないもの」だから。

永井均のニーチェ観
超人は、外的な理想を持たないということの外的な理想…[であり、]永遠回帰に耐えることができる強者であり、第二空間と第三空間のはざまに生息する、第三空間的理想の第二空間的形象である。(p.194)
…彼が「生に敵対する」と言うとき「社会に適合する」と読み、彼が「生を促進する」と言うとき「反社会的」と読むことさえできる。そう思ってみれば、…繊細なニーチェ的道徳も、人間が社会性によって傷つかないことを目指していることがわかるだろう。(p.49)
「『それはあってはならぬことである』『それはあってはならぬことであった』といった言い草は、ひとつの喜劇である…何であれ何らかの意味で有害で破壊的なものは取り除こうなどと思うならば、結局は生の源泉を滅ぼしてしまうことになるだろう」/これは究極の真理だと私は思うが、世界の中で人々に向かって語ることが社会的に意味のあるような主張ではない。(p.174)
ニーチェは、弟子たちはイエスを誤解した、と書いた。そしてイエスについて、彼は無罪だった、と。だが、そうなのだろうか。次に来る者は、弟子たちはニーチェを誤解した、と書かねばならない。そしてニーチェについて、彼だけは無罪だった、と。/この連鎖はおそらく、この運動全体に、はじめから有罪性が込められていることを物語っている。(p.164)
「あとがき」には信大時代の同僚として先に紹介した平木に謝辞が送られている。食い違う点も多かったことだろう。

三島憲一(1987)『ニーチェ』岩波新書

スタンダードな入門書。永井のニーチェ論と比較するとやはり弁明的に見えてしまう(特に第9章)。それゆえニーチェの矛盾に関する指摘も幾分鳴りをひそめる格好となっている(唯一と思しきものは177頁の「超人」についての一節)。ただ、永井が示す微細かつ厳密な哲学的思考(それ自体、極めて魅力的であるが)は、ニーチェの一見したところの高貴な粗暴さと無垢な遊び心にはそぐわないように思える。ニーチェはやはり感性の人である(哲学的直観の鋭さとは異なる意味で)。しばしばその源流に位置付けられながらも、哲学的脱構築という方法が不釣合いに見えてしまうのも彼ならではであろう。

[『反時代的考察』について]
ディルタイは誇らし気に〈歴史的啓蒙〉という言い方をするが、このように〈啓蒙された歴史主義〉とでもいうものは、主体である理性の光に照らされた現代の立場から、あたかも現代が〈歴史の頂点〉であるかのように、あらゆる歴史上の事柄を客体化し、解釈することである。いかなる歴史的対象もそれなりに尊重し、現代にとっての意義を顧慮することなくすべてを蒐集し、編纂し、それの置かれた固有の歴史的限定のなかに位置付け、いっさいの〈先入見〉を排除して、その時代のなかから解釈することがその任務となる。/この再生的営みによって現代人は過去の遺産を楽しむことができるわけであるが、これはしょせんは自分を楽しんでいるだけなのではないか、現代の尊大な自己満足、根拠もなく理性とその学問が幅をきかせている事態ではないのか、というのがニーチェのぶつけた疑問であった。(p.94)
彼ら市民階級は19世紀を19世紀たらしめている科学の〈力〉と経済の勢いによってのしあがってきたのだが、そうした〈力〉はしょせんは抽象的でアイデンティティの基盤にはならない。それゆえ、この〈抽象性〉になんらかの実体を与えようとして、まさにその科学と経済によって葬り去られようとしていたドイツ的な〈教養〉の伝統に、成功者の感覚で、…手を伸ばした。経済万能と伝統文化との素朴な一体感が横行する現代日本の状況とどこか似ていなくもないが、こうしたメッキ文化は、勤勉な労働によって全面的に覆いつくされた生活のなかで、その片隅に残された余韻としての文化でしかなく、生の分裂を乗り越える力を持っているわけがない。せいぜいがその分裂にある種の共同幻想の皮膜を張るだけであった。(強調は原文通り、p.102)
[〈永劫回帰〉と徹頭徹尾の認識について]
…こうした超人、支配種族の世界は、彼が克服しようとした近代的な現実のなかでは、つまり、アポロとディオニュソスが分裂している現実のなかでは、単なるパワーエリートでしかない。自己の欲望の満足をなりふりかまわず求める社会的強者でしかない。場合によれば、ナチスにつながるものもないとはいえない。この点ではニーチェ自身が自分を誤解したふしがある。というのも、こうした〈力への意志〉は、彼はあれほど再来を望んだソクラテス以前のギリシアの世界、生きることと美であることの一致した芸術的世界とはどう見ても無縁な、きわめて非ギリシア的なものだからである。一切の存在が認識のまなざしのなかで美に転化するというモチーフはかき消えて、残るのは、自然のなかの赤裸々な力の争いが社会の中でも起きているとする主張である。啓蒙の鬼子である道具的理性との癒着はここにはある。(p.177)
だが、この認識と肯定の決断をツァラトゥストラ=ニーチェのうちに産み出すものはまた〈力への意志〉をおいて他にはない。いかなる認識もまさにこの〈力への意志〉の所産だからである。いわば、〈力への意志〉が最高の自己集中によって自己の本来のありよう、つまり美的肯定の手段であることを認識し、支配と抑圧と操作のみをめざしていた自己のあり方を克服するのである。さきに〈力への意志〉が自己目的と化することを防ぐものとしての〈永劫回帰〉と言ったのはその意味である。/支配のための認識ではなく、徹頭徹尾認識と化することによって得られる認識こそが、そしてそのときの幸福こそが〈永劫回帰〉の体現であり、それによる祝福なのである。(強調は引用者、p.184)
表層(生成・仮象)としての認識(背後世界の否定)とその思想的帰着としての〈永劫回帰〉も〈力への意志〉の所産であるかぎり、ルサンチマンに起因するひとつのパースペクティヴでないとは言い切れない。この矛盾を避けるためには意志そのものが否定される必要がある、というのが永井の所論であった。したがって、肯定への決断は決して語られうるものではなく(加えてしばしば煽動的な言葉で)、ただ示されるものでなければならない。さらに、いかなる仮面の下にあっても〈力への意志〉を超越論的に「語る」ことは、それが歪んだ権力・革命思想に帰着する可能性を排除しえない。このことは更に彼の称揚する超人と単なるパワーエリートとの境目を曖昧にしてしまう(むしろ両者は従来的価値観へのあからさまな蔑視および「貴族的急進主義」(p.197-198)という点で一致する)。以上の三島の言明からは、そのような〈力の意志〉自体を超克するという視点は見出せない。それゆえ、彼の紹介するニーチェの「歪んでいない」理解(美と認識の一致)も一定の危うさを孕んでいるように思える(pp.214-217)。
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